2005年8月17日
■ 沖縄を想う会 ■
U 沖縄への想い
2 沖縄を想う会
「1996年1月14日、沖縄を想う1万人集会IN名古屋」が開催された。この運動は、1970年前後に闘われた沖縄闘争と考え方も行動様式もことなっていた。故に「沖縄への想い」の項目に掲載することにした。
1995年秋、沖縄から「米兵による少女暴行事件」が報道されてきた。そのとき、私は愛知沖縄県人会連合会会長をしており、会長の名前を出して発言することに慎重であった。少女へ匿名でカンパを送り、こんなことしかできない虚しさ、隔靴掻痒の思いを抱いて煩悶していた。
そんなとき、キリスト教名古屋教会の副牧師をしていた平良夏芽さんから「この事件でご相談したい」との電話があった。夏芽さんのお名前は、大分前から聞いていたが、お会いするのは初めてであった。趣旨については、賛成だが、連合会の名前を使用して参加することは、多分不可能だろう、と応えた。
少女暴行事件は、沖縄関係者に大きな衝撃をあたえていた。私は、個人的に参加することを決断した。しかし、個人的に、が通用しないことは、市議会議員としての経験からわかっていた。政治団体やセクトからもこの事件でコメントを求められ、個人的な発言として語っても、紙面では、肩書きが掲載されていた。政治団体やセクトが必要としているのは、沖縄県人会長としての肩書きなのだ。
平良夏芽さんが事務局長で「沖縄を想う会」が立ち上がった。結成にあたり、私も積極的に発言し、団体参加は認めない、みな個人参加とする、を確認したが、愛知沖縄県人会連合会だけは、団体として参加してほしい、旨の強い要請があった。
どのような形なら連合会は参加できるだろうか、を模索した。
連合会役員会を幾度も持ち、検討した。12月、私が勤務していた新聞社も年末で多忙をきわめていたが、そんなことを云々している情況でなかった。
結論とし、沖縄県がかかげる綱目を「沖縄を想う会」の統一スローガンとすることを条件に、連合会がこの会に参加し、1月14日の1万人大会に参加をすることを決めた。
大会会長には、杉山千佐子さん(全国被災
者の会会長)、副会長に私(連合会会長)と石谷美花(若者代表)。
秋吉拓史くんとの出会いでもあった。秋吉君は平良夏芽さんの片腕として昼夜を問わず動いていた。彼の周囲には、若いエネルギーが充満していた。事務局はかれらが実質的に担っていた。
また、名古屋市と近辺に住むセクトの人たちなのだろうが、約束どうり団体名を一切出さずに個人として献身的に活動してくれた。
愛知沖縄県人会連合会全員が参加できる大会にするために全力を尽くした。だが、大会当日になっても果たして全員参加してくれるだろうか、訝った。
大会当日、薄寒い小雨模様だった。しかし、
大会が始まる前の準備段階から、多くの県人会会員が詰め掛けてくれた。県人会の芸能グループの三糸奏者も10名ほどになっていた。デモ隊が出発したが、小雨が降り出していたので、私はデモに参加せず、会場撤収指揮をとった。
デモは大成功であった。2500人規模のデモ
は、70年安保闘争以降初めてであった。
この集会後、「沖縄を想う会」事務局長は秋
吉拓史君が担った。
デォマンテス公演と映画「月桃の花」上映
会などは、秋吉くんの尽力で可能となった。
そうこうしているうちに、平良夏芽さんが
沖縄の教会に移籍することになった。
愛知・名古屋の沖縄関係の運動は、平良夏
芽さんと秋吉くんで維持されていただけに、夏芽さんが抜けることは、この地方の運動にとって痛手であった。しかし、私は、平良夏芽さんが活躍する場所は、沖縄だと思っていたので、祝福してお送りすることにした。
今、平良夏芽さんは、辺野古闘争で面目躍
如たる活躍をしている。
秋吉拓史くんという貴重な若者とそのグル
ープは、演劇をとおして、驚くような活躍をおこなっている。名古屋、沖縄、東京で沖縄をテーマにした演劇を発表した。しかし、「沖縄を想う会」は、開店休業状態になっている。
私がもう少し若く、時間があったら「沖縄を想う会」を蘇生させるのだが、これも隔靴掻痒の思いでいるしかない。
(2005年8月17日)
参考資料:パンフレット「沖縄を想う1万人大会INなごや」/大会実行委員会編集
特別寄稿
少女に暴力をふるった米兵にも救いの花を! すべての人の心に花を! 「沖縄を想う1万人大会INなごや」の記録
愛知沖縄県人会連合会会長
渡久地政司
《何があったか》
第1部…「ムルチムドンドン」が午後1時スタート。ぬいぐるみの獅子(シサー)が三糸の音にのって登場。道化のチョンダラーが沖縄語で口上を述べた。
兵庫県からはるばるかけつけた「琉鼓会」のエイサー隊が口火をきった。続いて「愛知かりゆしバンド・黒潮エイサー隊」、沖縄から参加の「吉田安盛・盛和子」ご両人の見事な語り口と芸。「沖縄へ返せ」の大合唱。そして、最後を「愛知琉球エイサー太鼓連」と凝縮した60分。
第2部 午後2時、主催者を代表して杉山
千佐子(実行委員長)、石谷美果(若者代表)、渡久地政司が力強く開会宣言。沖縄からかけつけた高里鈴代さんと照屋秀伝さんが、ゆっくりした口調で力強く現地報告。続いて沖縄反戦一坪地主会からのメッセージが紹介された。
ここで登場したのが喜納昌吉さん。大会は熱気に包まれ、踊りだす人もいた。続いて、大会アピールが高らかに読み上げられた。
参加者は3.000人を超えていた。
第3部 平和行進は午後3時15分スタートした。第1隊を先導するのは大型街宣車。屋根には琉装で三糸を弾き歌うニセター(若者)。横断幕は女性が中心だ。杉山委員長の横には大脇雅子参議院議員。その後ろを車椅子と子どもを先頭にしたデモ隊がゆっくり歩く。
エイサー隊が路いっぱいにひろがり、大太鼓を叩き、舞い踊る。興奮の渦の中、約3キロのコースを平和行進は成功裏に戻ってきた。冬の小雨が降り始めていた。「少女に暴力をふるった米兵の心にも救いの花を!」平良夏芽大会実行委員会事務局長がこの大会を象徴する言葉で締め括った。
《担った人たち》
「沖縄を想う1万人大会」実行委員会を構成した人たちについて書いておこう。
大きく3つ。
@ 日本キリスト教団の人々。事務局の
任務を完遂したのは、沖縄生まれの平良夏芽(三重県桑名教会牧師)さん。多くのキリスト者が運動の困難な局面で頑張った。
A 平和・市民運動のグループ「ネット
ワーク95」と「ピースあいち」の人々。印刷・集会・デモなど詳細にわたってプロフェショナルな仕事をおこなった。
B 愛知沖縄県人会連合会と関係者。大
会参加は遅れたが、参加が決まってからは積極的にかかわり、実力以上の力を発揮した。
《愛知沖縄県人会連合会が運動に参加するまでの経緯》
@ 95年10月初旬、政党や市民団体から
沖縄集会の呼びかけがあった。三重県沖縄県人会と岐阜沖縄県人会に連絡をとる。いずれも県人会として参加することに躊躇する。連合会として「アメリカ軍用地の強制使用手続き代理署名を拒否した大田沖縄県知事と沖縄県民を断固支持します」を郵送した。
A 11月15日、世界ウチナンチュウ大会
に渡久地政司出席。国内招待者交流会で「日米地位協定の改正、沖縄米軍基地の大幅縮小を求める沖縄県の政府に対する要望事項の早期実現のために各県人会の実情に応じた取組みを進める」が確認された。
B 10月、東京・関西・九州等各県人会の
取組み資料を連合会役員に郵送する。前原信政連合会事務局長が「沖縄を想う会準備会」に出席。連合会役員会で今後の方針を協議。参加するにあたり、連合会会員の多数が参加できる共通項は何か、で協議。その結果、ストレートに結論が掲げられている政治スローガンの変更を求め(1)大会要求綱目を沖縄県の運動と同一歩調とする (2)沖縄を返せ、沖縄へ (3)すべての人の心に花を、の3項目を確認した。
《役員会で出た意見》
○ 沖縄のことを知らない人たちが政治ス
ローガンを掲げているのではないか。
○ コザ暴動は反米闘争の色彩が濃かったが、今回は日本政府への不信である。もっといえば、日本本土の人たちの沖縄への偏見だ。米軍基地を受け入れるという県はどこにもないではないか。
○ 島津の琉球征伐史観、明治政府による琉球処分、沖縄の疲弊と流民化した県民、沖縄戦、米軍支配等々でなし崩し的に日本人にされてしまったが、ここで沖縄人と日本人がこれら歴史的事実についてきちんとしておかなければならない。米軍基地問題の背景、根底がここにある。
○ 米軍基地を撤去した後、どうするのかの展望を沖縄県はもっている。日本本土資本は、バブル崩壊前、沖縄の土地を買いまくり、崩壊後放置した。ホテル業には投資したが沖縄の産業育成には投資していない。21世紀初頭、台湾のGNP国民1人あたりの金額は日本を抜く。台湾・沖縄経済圏で自立した産業を育てる。そのためには、米軍基地の存在が妨げとなっている。那覇軍港など返還後、フリーゾーン(自由貿易地域)として活用できる。基地経済と日本政府からの補助金への依存には限りがある。自立経済の展望は、地理的にも時代的にも可能だ。
《今後のこと》
長期的には、沖縄と日本の歴史認識をきちんとする。グローバルな視野で考え、確かな歩み。
短期的には、結束して主体性のある行動をとる。政治団体とのかかわりは慎重におこなう。沖縄県・他県人会と歩調をとる。