2005年8月17日
  

■ 沖縄行進がやってきた ■

U 沖縄への想い

1 沖縄行進がやってきた

 1960年4月、沖縄の祖国復帰を訴える沖縄行進が名古屋市にやってきた。歓迎の集会が名古屋テレビ塔下で開催された。私も沖縄行進には、心が震えるようなものを感じていたので集会に参加した。そこで、歓迎の挨拶をするように求められた。私は、「はるばる沖縄から行進してきた沖縄県民にたいして、桜まつりをからませるのは、失礼ではないか」、そして「沖縄行進と桜まつり」をセットにした集会のもち方にも抗議する発言をした。その後、沖縄行進の連絡は完全に途絶えた。加えて、日本共産党からトロツキストのレッテルを貼られ、攻撃されていたので、お呼びがかからないのは当然のことだった。

 60年安保闘争までの私の考えと行動について、簡潔に述べておこう。1957年(18〜19歳)、スターリンの死亡、夏のスエズ戦争、秋のハンガリー事件では衝撃をうけた。58年に入り、日本共産党は「おかしい」という情報を得ていた。フランスの作家サルトル著『スターリンの亡霊』などを読み、このことを確信するようになった。しかし、そのころ、渥美町の杉浦明平・清田和夫氏らの運動。九州筑豊の谷川雁氏らのサークル運動、大正行動隊などの情報から日本共産党内部で改革することは可能だ、という幻想を抱いていた。並行して鶴見俊輔さんらの『思想の科学』誌運動の影響をうけていた。それらを熱心に読み考えている仲間が周囲にいた。また、柳田国男の著書にも注目していた。今、思うと鶴見俊輔さんの思想の影響が大きかったように思う。60年前後、仲間の中に丸山眞男先生に直接学んでいる学生がいて、その学生の影響があった。私と仲間の思想と行動は、マルクス主義、鶴見『思想の科学』、丸山学派、柳田民俗学などが折り重なって存在しており、トロツキズムとはかけ離れた存在であった。

60年前後、沖縄関係の本はかなり読んでいた。沖縄学生会編『祖国なき沖縄』は、高校生の時、読んだ。書店で入手できる本はほとんど読んだ。瀬長亀次郎や霜田正次、比嘉春潮、伊波普猷など。同時に、柳田国男の『海南小記』、折口信夫の作品なども読んだ。森 秀人著『甘藷栽培期の思想』には共感を覚えた。

63年4月(25歳)、渥美町の杉浦・清田氏の助言を得て、豊田市議会議員となった。1期目の4年間は、沖縄への関心は、気になっていても行動の対象とはならなかった。ただ、雑誌『世界』と『朝日ジャーナル』は購読していたので、動きは把握していた。

沖縄行進は、自分がやらねばならないことだ、という思いが強かった。しかし、主催する団体は、日本共産党系か日本社会党系であった。政党に所属せず、労働組合にも縁のない私には、案内は無いのが当然だが、情報も入らなかった。

たまたま豊田市役所の議会事務局にいた時、日本共産党の議員が案内して沖縄行進の一行が議長室に入っていった。私にはお呼びがなかったので、ただ眺めていた。事務局職員が一行が持参した奉加帳をめくりながら「2千円だな」、といった。私は、何が起きているのかわからなかったので、奉加帳を覗いてみた。豊橋市議会議長2000円、岡崎市議会議長2000円と一行の訪問した都市の議会議長の名前が並んでいた。一瞬、私はカッーとなった。「たかりではないか」と。私が力を入れていた主な議員活動は、議長交際費と議員食料費の公開と廃止にあった。同じように市長からもカンパを受け取っているのであった。なんたる恥じさらしか。

 顔なじみの社会党系社青同専従活動家が運転する街頭宣伝車が沖縄行進でやってきた時も、この時は案内があったが、やはり市長室と議長室で奉加帳を提出してカンパをもらっていた。

 私は同席していて恥ずかしい思いをした。どうして自治体からカンパを受け取るのだろうか。

 ここで受け取ってしまうと、体制側の

諸団体へのカンパや補助金などを槍玉にあげて、廃止もしくは削減させることは不可能になってしまう。

 反体制運動は、体制側からカンパや援助を一切受けてはいけないのだ。

 こんな主張をしているので、沖縄行進のような政党、労働団体主催の運動は私を排除して通過するのが常であった。

 沖縄復帰後、ある年、社会党系の沖縄のために一生懸命奔走してくれた庄司悠一さんから電話があり、「明日、豊田市長に陳情をしたいので立ち会って欲しい」、と言ってきた。内容を聞かず了解した。横越英一名古屋大学教授(当時)らの一行であった。

 市長室に入ってから、陳情内容を聞いてびっくりした。名護市に豊田市の厚生施設を建設してほしい、というものであった。

 わたしは、常日ごろから、利用効率の悪い県外への市厚生施設など建設すべきでない、を主張していたので、筋がとおらない。

 事前に陳情内容を確認しておかないといけないのに、それを怠っていた。それに、本土資本が沖縄の山野、離島などでリゾート開発をすることをニガニガしく思っていたので、市長室で反陳情の発言をしてしまった。

 発言は正しかった、と思っているが、沖縄のために、と願って行動している方々への配慮のない発言であった。

 沖縄行進や沖縄が関る運動では、チグハグな発言や行動を私は行っていた。