2005年8月17日
  

■ ROOTS ■

T わが内なる沖縄
  5  ルーツ
 
  沖縄県那覇市識名町 識名霊園にある渡久地本家のお墓。 
   ルーツを語るとき、多く沖縄の人は、「わが家系は、サムレー(武家)だ」と自慢化に語る。父政蔵もそうであった。
 
   沖縄で言うところの「サムレー」は、大和の武家とは、まったく違うようだ。
 
  しかし、農民階級とは、区別されていたようだし、サムレーの多くは、農業を生業としていたようだ。ようだ、というのは、例外も多いし、よくはわからない、曖昧な農民でない農民、としておこう。ここでは、深入りせずに次にすすむことにする。
 
   わが家に関係する渡久地家と屋良家と仲井真家の3家の明治、大正、昭和初期時代について説明をしたい。
 
  3家とも沖縄島北部の国頭村、大宜味村のヤンバルの森と呼ばれる山地で、密林を開墾する農民であり、暮らしは赤貧そのものであった。しかし、気位だけは高く「サムレー」を意識し、名の名乗り頭には、それぞれ「政」「常」「朝」を付けていた。
 
     私の甥・渡久地政彰君の結婚式披露宴でのお祝いの言葉で次のように話した。
 
   「姓は車、名は寅次郎」の姓名の話をすることで、お祝いの言葉といたします。渡久地姓という沖縄にしかなかった姓がいまや日本各地だけでなくアメリカにも伝播されております。以前、ハワイの5島巡りをしたとき、空港ロビーの電話帳で調べたところ、5島どこにもTOGUCHIがありました。ロサンゼルスでは、 お電話をしたところ、昭和7年に沖縄本部(もとぶ)から移民した方とお話しをすることができました。
 
   渡久地政彰君にとっても、沖縄は遠い存在となりつつありますが、これは時間の流れ、というものです。今後、姓は渡久地、名の名乗り頭が「政」、という沖縄風の姓名だけは伝わっていくことでしょう。このことは、日常生活では支障をきたすことはありませんが、人はふと、「自分はどこから来て、どこへゆくのだろう」と不安にかられるときがあります。そんなときのお守りみたいなものとして『蔡姓渡久地』の家系図が存在しております。本部渡久地の家系図では、渡久地政彰君は16代となっております。このことは、別に誇りとするようなものではありませんし、また、「名家の家系」でもありません。ただ、ルーツがお守りみたいなものとして存在していることだけを覚えておいてください。大切なことは、先祖のことよりも、いま生きている人々、これから生まれてくる人々たちが幸せになることが、ご先祖様へのなによりものご供養ということです。幸せになってください。
 
 
     私は、葬式とかお墓とか、ご先祖様とかは、生きている者のために行う、存在する、と思っている。その考えに基づいて披露宴で祝いの言葉を述べた。
 
   渡久地家について
 
   1994年(平成6年)1月元旦 次のような「お知らせ」が沖縄から送られてきた。
 
   蔡氏門中蔡縁会 本家 渡久地政秀(電話:098-854-7781) 
 
   抜粋
 
   さて、本年も門中の交流をさらに深め、若い世代へ伝え継ぐことを目的として別紙の通り「蔡氏門中蔡縁会新年会」を開催します。
 
   私達は長い琉球の歴史の中で、輝かしい精神文化と伝統を受け継いで来ました。その代表的なものの一つが門中制度です。私達の祖先は士族にして立派な家系を保って参りました。中に優秀な者は出世して地頭代になり、その土地の名をいただき、姓を変えて行きました。同じ門中でありながら姓が変わり分家が多いというのは、それだけより多く出世した家系であるとの証であり、誇りにすべき事なのです。
 
  琉球の門中制度の優れている点は、例え分家して多くの姓が変わっても、ルーツが判るように名乗り頭を認めた事です。渡久地門中の名乗り頭は「政」です。この「政」を名乗ることによって同じ門中であるとの固い連帯意識と絆を保ち続けてきたのです。
 
   琉球人の精神構造はこの門中意識を抜きにしては語れません。トートーメを大事にするのも同じような意味を含んでいます。これを正しく継承して行けば、必ずしっかりした筋にこの筋(バックボーン)が力を発揮するのです。強くなります。どうぞ次代を担う世代へ継承していただきますよう、お子達を伴い夫婦・親子で参加くださいますようご案内申し上げます。以下省略―
 
   共催:渡久地家、玻名城家、大湾家、仲本家、安良城家、喜納家、山田家、屋嘉部家。
 
   このお知らせの中に沖縄の門中制度の考えが色濃く述べられている。渡久地家、屋良家、仲井真家とも門中の考えは、ほぼ同じ。
 
  参考までに渡久地家譜から抜粋して掲載しておきます。
 
  1世 政恒
 
  2世 政賢
 
  3世 政茂儀間家6世蔡瀚の5男朝俊の長男が政茂 
 
  4世 政長
 
  5世 政相
 
  6世. 政包
 
  7世 政命
 
  8世 政森 ここまでは那覇渡久地本家の家譜
 
  9世 政平 5男志間渡久地1世
 
  10世 政永 2男本部渡久地1世この直系は現在大阪にいる
 
  11世 政奉 
 
  12世 政良 3男谷茶渡久地1世
 
  13世 政保 3男伊地渡久地1世
 
  14世 政蔵 3男三河渡久地1世
 
  15世 政司 2男三河宮上渡久地1世
 
  16世 政治 三河宮上渡久地2世
 
  17世 政寿 三河宮上渡久地3世
 
   なお、蔡姓(渡久地家)の詳細については、沖縄タイムス 1983年6月2日(夕刊)、門中風土記(59)で7段半ページにわたって掲載されている。このコピーとこの記事の元となった「大宗家譜」また、「本部渡久地家譜」の複製本を私が所有している。
 
  2008年1月2日挿入・政司の従兄の安谷屋綱政さんがお亡くなりになった。そのことを知らせる新聞広告。
 
            故安谷屋綱政葬儀広告
 
 
   屋良家
 
   2004年5月、屋良ヒデさんの88歳のお祝いが那覇市でおこなわれた。ヒデさんの甥と姪、縁者50余名で盛大にお祝いをおこなった。
 
   このさい確認されたことだが、屋良家「家譜」は、長男筋の屋良朝助氏が保存しており、出自は沖縄島中部読谷、明治時代に大宜味村大字喜如嘉字家貝(えいがい)の山林を開墾した。その地は現在も屋良家名義で維持されている。
 
   屋良家の名乗り頭は「朝」で、この
 
 
 
  「朝」は、首里王家筋の家譜と言われている。 政子の出自(旧姓)ですし、詳しいことがわかれば追加して掲載。
 
 
   仲井真家
 
   仲井真家は、渡久地と屋良ともに親戚にあたる。
 
   渡久地ゴゼイさんの旧姓は仲井真です。
 
   また、政子の母・繁(シゲ)の旧姓も仲井真です。
 
   繁と政司は従姉弟です。
 
 
   このことを確認したうえで仲井真家譜から関係箇所を抜粋し、説明します。
 
   14世 仲井真常正
 
   15世 仲井真常吉 2男 慶応3年(1867)名護間切山入端村生れ。
 
   15世 2女カマル 辺土名新垣家に嫁ぐ。 ゴゼイは幼女のころここで育つ。
 
   16世 仲井真カマル 明治33年、辺土名ウスクビ開墾生れ。安谷屋綱義に嫁ぐ。2005年8月現在、
 
     105歳、国頭村北斗苑で健在。
 
 
 
   16世 仲井真常清 長男 明治21年(1888)辺土名ナンガイ原生れ。    母は辺土名安和家長女ウト。
 
   16世  仲井真常八 三男 明治30年辺土名ナンガイ原生れ。
 
   16世  仲井真ウト 辺土名ウスクビ開墾生れ、ペルーへ。
 
   16世  仲井真ゴゼイ明治44年辺土名ウスクビ開墾生れ。
 
    母は、大宜味村田嘉里の我喜屋宗信(泊系統)長女ウト。
 
  17世 仲井真 繁 常清長女。
 
     (常秀、常広、常作 夭折)
 
     2女ウメ 3女和子 4女タケ。
 
     政子の母が繁。繁の母は、辺土名ウスクビ開墾宇良家次女カマレ。3女和子は屋良朝助の嫁。
 
   17世 仲井真常栄 常八長男 昭和5年国頭村伊地生れ。
 
     常吉・常清・常八の位牌は常栄家で祀。
 
 



2014-9-9  豊田市古瀬間墓地にて  渡久地政雄・秀子


2014-9-9  豊田市古瀬間墓地にて  渡久地政司・政子