■ 柘植太吉・芳子ご夫妻のこと ■

2006-06-15
D 柘植太吉・芳子ご夫妻のこと

   太吉さんがお亡くなってから9年8か月、芳子さんがお亡くなりになってからも3年。記憶は日々に遠ざかり、薄れてゆく。忘れ難い貴重な人として柘植太吉・芳子ご夫妻について書いておきたい。
 太吉さんと芳子さんとのお付き合いは、文字文化を使用しないものだった。本とか新聞のニュース・情報が多かった人付き合いで、稀有なものだった。
 太吉さんと芳子さんの人生の前半部分については、ほとんどわからない。しかし、その後半は、かなり濃密だった。とりわけわたしの妻・政子さんにとって芳子さんは、心の支えでもあった。
 わたしにとって太吉さんは、兄貴であったし、金銭以外で物質的に支えてくれる信頼できる貴重な「戦友」であった。ただし、太吉さんは、左翼・右翼とか何とかの範疇のどこにも入らない人だった。わたしの求めに応じ、土木・木工工事、材料の調達、また、調査活動で運転手を勝つ手出てくれた。
 太吉さんと芳子さんのことを断片的だが書くことにしよう。

出合いは昭和40年ころだ。太吉さんが突然わが家にやってきた。妻芳

子さんの母親を捜してほしい、という。芳子さんは、第二次世界大戦・沖縄戦前に沖縄を離れた。そして、戦後20余年、郷里沖縄と連絡が途絶えていた。沖縄南部・大里村、そこに母親がいるはず、という。そこで、政子さんの同級生の夫で琉球新報社の記者をしていたTさんに、調査を依頼した。T記者は随分苦労して見つけてくれた。
芳子さんは、20数年振りに沖縄へ帰った。ところが帰ったまま音沙汰
がない、と太吉さんが心配顔でやって来た。でもそのうちに帰ってきますよ、と慰めていたが、3.か月、6か月と月日が過ぎてゆく。たまりかねて太吉さんが迎えに沖縄まで出かけた。多分、船だったと思う。そして、芳子さんは戻ってきた。子どものいない夫婦だったので、へたをすると離婚になっていたかもしれない。
 そんなころ、沖縄から三好町の紡績工場に集団就職で来ていた19歳の少女が妊娠し、それも8か月だ、と言う相談をうけた。少女に会い、沖縄の両親への通知、今後のことなどを聞いた。少女は、両親には知らせないでほしい、と言った。しかも相手の名前はガンとして言わない。そして、子どもを生んでも育てることができない、と言う。それならば、引き受ける人を捜してもよいか、と確かめた。そして、柘植ご夫妻に事情を話し、相談したところ、太吉さんも芳子さんも「こどもを引取ってもいいよ」と返事をして下さった。赤ん坊は、生後7日目にYOと太吉さんが名付け、助産院の費用も全部支払った。そして、1か年後、少女が20歳・成人してから改めて会見して養子縁組の手続きをおこなった。
 芳子さんは、YO君を献身的に育てた。

 30数年後、YO君は、太吉さん、芳子さんの最後をきちんと看取り、葬儀を立派に出した。

芳子さんは、わが家の玄関からは決して入ってこなかった。いつも南側

からやや大きな声で「奥さん」と、ぶつつけるような言い方をして、そして結論だけを、これもぶつつけるような言い方で言って、すぐに帰ろうとする。「よかったら上がりなさい」、と言うと、「いいの」、「いいわ」のどちらかを言う。いつも遠慮がち、控えめだった。政子さんの記憶では、芳子さんが他人の悪口を言ったり愚痴を言ったりすることは、一度もなかった。

30数年前、電話を引いている家庭は非常に少なかった。そんなころ、芳子さんが沖縄の母親に電話を掛けるのにわが家の電話を使用したことがあった。芳子さんは、それは見事な沖縄言葉で話をしたので、政子さんはびっくりした。沖縄では変容してしまった昔の沖縄言葉を、芳子さんはタイムカプセルにして保存しているのだった。十代前半まで育った沖縄言葉のアクセントを、20数年間、体の奥深いところにしまいこんでいたのだった。

YO君が学校で「もらいっ子」とワル共にいじめられた時、芳子さんのと
った行動は、直線的であった。直接、教室に入って行き、「うちのYOをいじめたのは誰?」、とだけを言った。無駄なことは、一切言わなかった。担任の女性教師は震えあがった。そのシーンは、想像がつく。
後日、担任の女教師が、「どうしたものでしょうか」とわが家に相談にみ
えた。芳子さんの直線的な、すっきりした、純粋な行動の意味を説明することは不可能だ。
政子さんは、「芳子さんらしい」と苦笑していた。
  芳子さんの母親のトーカチ(多分)の祝いには、太吉さんと太吉さんの無二の親友古谷さん、石浜さんが沖縄へ出かけた。3人は、先方にご迷惑になってはいけない、と近くに宿をとることにしたところ、芳子さんの母親が、さとうきび(ウージ)畑の中にある一軒家にどうしても泊まってほしい、と所望した。三人は、沖縄の民家、それも独り暮しの老女の草葺き小屋に喜んで宿泊した。

太吉さん、古谷さん、石浜さんの3人組の名前が出たので、この3人組についても書いておきたい。3人とも腕利きの職人である。古谷さんは大工、石浜さんはブリキ・板金。3人が中心となってお御輿を3台手作りでつくった。製作の初期、お御輿をつくりたいのだが、図面がないだろうか、の相談をうけた。そこで、市役所建築課や豊田高専建築科の教師にお聞きしたが、どこにも無い。3人は神社などにでかけ、いろいろ研究、そしてまず試作品をつくり、続いて2台製作した。1台は柘植太吉さんの生まれた在所、東郷町諸輪の白鳥神社に柘植家奉納として納まっている。2台目は、2006年春、豊田市松平地区の中垣内集落の神社に奉納された。お御輿の底の裏側には、口だけだしたわたしの名前も刻まれている。

ある真冬の深夜、夜逃げをしている青年(息子)を捜してほしい、と言う依頼があった。そこで太吉さんに運転手を頼んだ。多分、太吉さんは、多少入っていた。しかし、OKを言ってくれた。依頼主と3人で小雪舞う名古屋市内を数時間走り廻った。このような、緊急運転手を年に1度くらいお願いしていた。太吉さんは、今飲んでいる、と言って断ることは決してしなかった。

矢作川の源流、岐阜県恵那郡上矢作町の阿岳を探察したのは、1989(平成元年)年秋だった。朝暗いうちに出かけ、正午まで登れるところまで、人気のまったくない上流めざして歩き続けた。太吉さんが先頭に立って歩き、その後方から追って登った。途中、柘植さんが「やまぶどう」の実を見つけ、口にした。それを2粒もらって口に入れたが、なんとも変な味がした。ほぼ全部埋まっている砂防堰堤を横断して、上流へ登る。至るところ倒木だらけ、そこを越えたり、潜ったりしながらかなり登り、そして左の尾根をめざすことにした。そこは、背丈くらいの熊笹が一面びっしりと生えていた。時計は12時を回っていたので、倒木のところまで戻りそこでおにぎりを食べた。

芳子さんの葬儀を沖縄の親戚に伝えたが、兄弟姉妹いずれも高齢で参列することができなかった。しかし、太吉さんの親戚、友人らが参列、りっぱにお見送りすることができた。

1945年、敗戦の年、芳子さん20歳。異郷で、ヤマト言葉を上手く話すことができなかった芳子さんは、どんなお気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。

YO君の若いお母さんのことをだぶらせて、YO君は、二人〈沖縄〉のお母さんを持ったな、と思った。