豊田市雑文録

■ 古波津英興さんのこと ■

Y H 古波津英興さんのこと
英興オジー
古波津英興さんの色紙・琉歌。
古波津英興さんの色紙・琉歌。

豊田市雑文録 Y 人々の出会い
英興オジー
H ―古波津英興さんのことー
古波津英興ー1907年沖縄県島尻郡東風平村生まれ、1999年4月24日事故死、享年91歳。
沖縄民権の会世話人。

記憶を辿りながら数えてみますと、古波津さんと数時間以上一緒にいたのは、五回しかありません。その五回も、三人からそれ以上の人々が周囲にいました。たったこれだけの出会いなのですが、その場所と状景、会話の内容を、かなり記憶しています。なぜだろうか、と考えてみますと、古波津さんのそばにいますと、不思議に気持ちが落ち着きました。考えを押し付けたり、説教めいたことなどはいわず、ただ、今やらなければならないこと、それを淡々と語る、あの沖縄のオジー(老人)独特の語り口にあったように思います。
最初の出会いは、一九七〇年代後半頃、東京地裁の法廷で、当時激しく闘われていました沖縄闘争の被告の支援として、私が証人に立った時でした。その後、東京駅の構内の喫茶店で小一時間、沖縄闘争の被告たちの救援活動について、話しあいました。
二度目は、一九八〇年代初め頃、古波津さんがわが家にお泊りなった時です。古波津さんと私の父が、ほぼ同時代生まれでもあったことに気分をよくした父は、昭和初期、大阪で歌われていた沖縄俗謡の一節を、大正時代のラサ島炭鉱 アイイルと、歌いました。古波津さんが、ラサ島は、今の沖大東島で、大正時代にリン鉱石を採掘していた。リン鉱石は、肥料だけでなく火薬の原料にもなっていた、と語りました。
三度目は、一九九二年、那覇市で、夕立の中、ビショ濡れになりながらのデモと与儀公園での集会、翌日の宜野湾市民会館での大会でした。私は、この種の集会参加は、十数年ぶりだったので、古波津さんから多くの人々を紹介していただきました。
四度目も一九九二年、川崎市で古波津さんの八十五歳の祝い、でした。新城姉妹が、ウチナー芝居風の寸劇を披露し、多くのウチナンチュウと共に、大いに盛り上がりました。
五度目は、一九九五年、那覇市のリュウボウ前の横断歩道の真ん中で、偶然にお会いしました。双方とも、アッと息を呑み、その後、古波津さんの誘いに乗り、琉球新報社二階の編集・記者室に勝手に入り、記者や編集者と話しこみました。その様は、自然にスゥーとそうなったのです。その夜、喜納昌吉さんの開いているライブハウスに、古波津さんと出かけ、大いに踊りました。
相貌―眉毛太く、長く 眼玉―優しく、鋭く鷲のごとく 鼻―太く、高く 頭脳―明晰
性格―穏やかにして激しく…

英興オジーは、ウチナーのオジーそのものでした。