■ 大浜 晧先生 ■

2008年10月掲載
リニュアールしました。


愛知沖縄県人会だより
昭和43年8月1日 第1号

大浜 晧 先生

―沖縄県の祖国復帰運動に貢献―
愛知沖縄県人会会長
名古屋大学名誉教授
(1904年7月22日〜1987年12月20日)


 大浜晧先生との出会いとお付き合いした期間は約10年、と短かったが、主として愛知沖縄県人会の集まりでお会いした。親密な関係ではなかったが、かなり頻繁にお会いした。
沖縄復帰と安保闘争の最盛期の1967年から70年、わたしは「過激な」市議会議員であったが、市議会議員選挙では推薦人になって下さった。当時、先生は、愛知沖縄県人会長をしながら名古屋大学教授(国家公務員)でもあった。少しでも政治・選挙を知っていたならば、名古屋大学教授の肩書を使用することに躊躇するところだが、わたしの政治活動について一言も苦情を言わなかった。
先生が愛知沖縄県人会長をなさっていた期間は、沖縄県も全国的にも、沖縄県の祖国復帰運動の高揚期であった。愛知県においては、社会党系と共産党系の運動があり、県人会役員では、自民党系が多かった。そんな中で大浜先生は、いつも真実一路という感じで何事にも一生懸命であった。 役員の中には、愛知県労働組合総評議会から県人会役員会の承認がないままに旅費を引出し沖縄旅行に出かける者もいたし、愛労評役員をサギにかけ、迷惑をかける破廉恥奸もいて、金銭をめぐってイヤなうわさが絶えなかった。呆れ返るようなことを言い出す人もいたし、約束は反故にされるし、勝手気ままな行動がめだった。わたしは、半ば諦め役員会の議論には深入りすることを避けていたが、火中に居つづけた先生は大変だったと思う。 そのような時代に県人会を維持できたのは、先生の「人格と識見」(手垢に汚された言葉になってしまったが)によるところ大であった。
大浜先生に最初にお会いしたのは、1959年ころ、愛知沖縄学生会結成記念講演(愛知大学名古屋校舎)で大浜先生の講演をお聞きした。講演を依頼したのは、名大に「国内留学」していた学生だった。
先生と頻繁にお会いするようになったのは、1965年から70年代前半、県人会の役員会でお会いした。後、千種区猫が洞マンションに移転した。ここに数回訪問した。
先生の書棚には、沖縄関係の蔵書とともに中国の漢籍がきちんと整理されて並んでいた。池宮城秀意琉球新報社社長の著書『○○○…』をいただいた。同級生だ、と言っていたように思う。
先生がお亡くなりになったことは、数年後、中日新聞の記事で知った。そこには、先生の遺言で蔵書は琉球大学図書館に、そして郷里の石垣市には6400万円が寄贈されたと書かれていた。愕然としつつも蔵書が琉球大学図書館に保存されたことはよかった、と思った。
10数年たってから、名古屋大学が名誉教授推薦理由とする資料を入手した。そこには、叙勲を辞退した、と書かれていた。
先生のお墓は、石垣市の桃林禅寺にある。生前のお写真を1枚も所有していなかったが、2008年10月、近親者から入手することができ、嬉しかった。
                  (文責:渡久地 政司)

   資料 名古屋大学名誉教授推薦理由(大浜 晧)
元本学教授(文学部)大浜晧氏は昭和9年3月九州帝国大学法文学部支那哲学科を卒業後、東京帝国大学大学院に進み、昭和14年同大学院を満期退学し、昭和16年5月台北帝国大学予科教授に任ぜられ、終戦により内地に帰還、同教授を退官されたが、名古屋大学文学部の創設とともに昭和23年11月名古屋大学助教授(中国哲学史)ならびに大学院文学研究科東洋哲学専攻課程担当教授として昭和43年3月停年退職されるまで、本学において19年5カ月(本学名誉教授称号授与規定による在職期間通算19年1月)にわたり中国古代哲学を中心課題として研究と教育に専念された。
同氏の研究は、主として先秦の諸子思想を対象とし、特に老荘思想と名家の論理思想とに鋭い洞察を示された。氏は個々の思想 克明に分析してその思想を構成する諸因素をとりだし、各因素相互の間の論理的連関を明らかにし、各思想を有機的体系的に再構成する方法をとった。西洋哲学についての深い造詣によって、氏の論述はきわめて精緻な論理性をそなえており、老子の逆説や荘子の判断放棄の思想が絶対無によって統一されていることを論証し、また、名家の難解な文献を論理的に見事に解明された。これらの成果は「道家の論理と名家の論理」と題する学位論文として九州大学に提出され、文学博士の学位を授与され、のち、『中国古代の論理』として公刊された。明治末期に、旧来の漢学から脱皮すべく中国哲学という学問分野が生れたのであるが、哲学的論理学的な研究は必ずしも深められず、中国諸思想の羅列的解説のみをこととしていた中国哲学界の中にあって、同氏は独自の哲学的研究方法を確立されたのである。論語・中庸・孟子などについての諸論考も、上記の方法の適用であり、また「水墨画の論理」は中国芸術論の探求であって、氏の視野はいよいよ中国思想史全体へとひろがり、中国学の研究者一般に対しても新しい道を指し示された。
以上のように、同氏はすぐれた中国哲学の研究者であるが、また有能な教育者でもあることは、名古屋大学教授としての指導・教育活動において明らかであり、さらに『老子の哲学』『荘子の哲学』などの大著は、高度な内容を平明達意の名文章に託して表現したもので、斯学の専門家のためばかりではなく、ひろく初学者に対する入門教育の役割をも果たし、さらに欧米の研究者にも影響を及ぼしている。なお、同氏は文学部創設時に着任、同学部発展のため努力し、また名古屋大学評議員として本学のため寄与された。さらに日本中国学会の創立(昭和24年)以来、その理事・評議員をも歴任して今日にいたつており、学会のために貢献された。以上のごとく、長年にわたる同氏の本学における学術上ならびに教育上の功績は、まことに顕著なものがあるので、本学名誉教授称号授与規定第3条により名誉教授に推薦する。

  本籍 東京都中央区日本橋2の4の2  (晩年、本籍を名古屋市に移した)
  氏名   大浜 晧 生年月日 明治37年7月22日
昭和9年3月 九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業
昭和14年4月 東京帝国大学大学院満期退学
昭和21年 勅令により台北帝国大学予科教授を退官
昭和22年 東京帝国大学文学部副手
昭和23年 東京大学文学部副手(文
部教官)
昭和23年11月 名古屋大学助教授 昭和24年 名古屋大学教授
昭和32年 文学博士の学位授与
昭和43年 停年退職
著書
昭和34年  東大出版会『中国古代の論理』
昭和34年  勁草書房『老子の哲学』
昭和41年  勁草書房『荘子の哲学』
昭和44年  勁草書房『中国的思惟の伝統』
昭和50年  勁草書房『中国・歴史・運命』(絶版・改題し、平成4年 東方書店『史記と史通の世界』出版)
昭和52年  勁草書房『中国古代思想論』
昭和58年  東大出版会『朱子の哲学』