2006年03月26日制作
豊田市雑文録

■ 上原勘松郎さん ■

Y 人々との出会い


  愛知沖縄県人会連合会会長 上原勘松郎さん


経歴
大正9(1920)年〜平成11年(1999)享年79歳―沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ。
 

休眠状態に陥っていた愛知沖縄県人会を連合会組織として復活、軌道に乗せた最大の功績者。
会長として自宅を会議場所として提供、交通費や祝儀など資金不足は自腹を切り、手間、暇など労働の提供もイヤな顔一つもせず、しかも連合会の「組織的ルーズ」さ、に幾度も直面しても我慢していた。
わたしは、先生のように人間が出来ていなかったので、すぐ他を攻撃してしまい、役員からは無言、無視の抵抗?をうけるのが常であった。
 先生との思い出は、かなり多いが、客観的資料を次に掲載することにしたい。


1987年8月1日朝日新聞(夕刊)
  名古屋版
夏そして『秘密法』A
スパイ、と校長処刑

出身者が5千人とも8千人ともいわれる愛知沖縄県人会が9月、再発足する。会長に内定した名古屋市緑区鳴海町の上原勘松郎さん(67)は、南海の島を離れて50年。しかし、おしなべて、この世代は沖縄の言葉を話すのは苦手なようである。

標準語の押し付け
暗い予感に包まれていく島で、皇民化教育のため、「内地」の標準語が押し付けられた。直せない子らは首に「方言札」をかけられた。童話を手本に「正しい日本語」を読みくらべする催しが恒例となっていた。上原さんは本部(もとぶ)半島の天底(あめそ)小4年の時、「臆病なシシ」という童話を読み、校内一。村代表になって郡大会へ進んだ。
大阪の紡績工場で働く母親から送ってきた自転車に乗り、名護の町へ。ほこりの舞うデコボコ道を付き添ってくれたのが照屋忠英校長。2人の間隔が離れると曲がりかどで待っていてくれた。発表のあと料理屋で、生れて初めての会席膳(ぜん)をごちそうになった。
20年3月。名古屋はたて続けの空襲に遭い、19日に中心街で被災4万戸、24日には三菱発動機工場が目標となって死者1600人を出す。本土の軍需都市、航空基地を盛んにたたきながら米軍は23日、沖縄戦の火ぶたを切った。45万もの大軍が押し寄せ、前線も銃後もない「鉄の暴風」―
本部国民学校に代わっていた照屋校長の話は、沖縄戦を伝えるいろんな本に出てくる。校舎を日本軍守備隊に明け渡し、奉安殿にあった御真影を抱き、山中をさまよう。双眼鏡で米軍の動きを追い、住民を守るため交戦してほしいと隊に頼む。だが、これを聞いてもらえない。校長が難聴で兵士たちとの会話が十分通じなかったのと、英語を使える家人がいたのも、災いの一因になった。
直後の敵弾を疑う
照屋校長が連絡にきて、立ち去った直後、陣地に敵弾が撃ちこまれた。「あの男はスパイだ」と、処刑。銃剣で腹を切りさかれた姿で校長は見つかった。やはり教員であった奥さんも迫撃砲弾で死亡。
軍は島民に総動員をかけ、ざんごうを掘り、陣地を築き、食料を備蓄した。いやおうなしに軍事秘密に触れさせておいて、漏れることを恐れ、島民を監視する島民のスパイをつくった。死者20万人前後。迷妄の日本兵に虐殺された住民は200人以上。最も悲惨だった一人に照屋校長は数えられるが、汚名を晴らす叙勲を受けたのは、戦後35年たってから。
7月16日、名古屋・栄のホテルで、上原さんは天底小の現校長の紹介で、出張がてら沖縄からきた同窓会員と会った。開校100周年事業への協力を約束。「照屋校長をしのび、昔のように学校の周りをサクラの木で飾れるといいですね」と希望した。
上原さんは、朝鮮にあった師範学校を出た。復員後、名古屋で小学校の教員をした。いまは、製パン業の自宅で「沖縄ふるさとの家」の看板を掲げ、県出身の若者たちの相談役。中国の戦地で九死に一生を得た体験から「もし沖縄戦が所を変えて本土で行われたとしても、住民は血迷った友軍の虐待にさらされていたに違いない。自衛隊の専守防衛というのは国内戦線のことかと思うと、ぞっとします」。
観光客があふれる那覇の街を歩いても「メンソウレー(いらっしゃい)」のあいさつに出会わない。帝国日本に奪われた方言を取り戻し、正しく受け継ごうと弁論大会を開き、それを宿題に出す教師もいる、という。