2005年8月17日掲載
T わがうちなる沖縄

■ 3 従兄の遺骨を抱いて沖縄へ ■

(1958年8月)

     1958年5月末、私は19歳。6月2日が誕生日なので実質20歳。私は国鉄神戸駅にいた。

従兄のK(私より2歳くらい上)が神戸港の近くで亡くなった。どのような状況なのか、また、遺骨がどこにあるのか捜してほしい、という連絡が沖縄の親戚からあった。

国鉄神戸駅を降り、彼が働いていた工場の住所を頼りに1キロ近く西?に歩いた。そして、港に隣接している前田鉄工所(?)にたどり着いた。工場長らしい男が、亡くなったのはここではなく、朝鮮人経営の焼肉屋の二階だ、と言い、働いていた時は、偽名を使い、年齢も2歳多く誤魔化しており、迷惑した、と言った。

従兄のKは、復帰前の奄美で仕事をしていて、奄美復帰後、そのまま滞在、密航、神戸で働いていたのだった。

夕刻、心細くなりながらようやく焼肉屋を探しあてた。引き戸を開け、中に入り、用件を伝えた。焼肉屋特有の煙と匂いのたちこめる店の奥から元気のよい中年の女が出てきた。この二階に下宿していたが、メシを喰いに降りてこないので見に行ったら死んでいた、迷惑をしている。医者は脳炎だと言っていた。遺品などは、会社の人に渡した。無縁仏として処分してもらった。そんなところに突っ立っておられたら商売の邪魔、とひどい剣幕でまくしたてられた。しかたないので遺骨のあるお寺の名前と場所だけを聞いて引き下がった。

翌朝、国鉄神戸駅から須磨駅へ。須磨・現光寺はすぐ分かった。用件を伝えたら小さな骨壷を見せてくれた。本日は、遺骨がどこにあるのかを確認するためにお伺いしました。後日、遺族が引き取りにまいりますので、その間、ここで安置しておいて下さい、と言い、お金を入れた封筒を置いて引き下がった。

6月、沖縄から再度手紙があり、遺骨を持って沖縄へ来てほしい、とあった。夏休みを利用して沖縄に行くことを決めた。

それからが大変であった。渡航手続きの方法がさっぱりわからないのだ。愛知県庁外事課が窓口であることを人伝えに知り、出かけた。パスポートはここで申請することがわかった。伝染病予防注射は、名古屋港の検疫所を探してトボトボと稲永埠頭を歩いた。これらの手続きだけで2ケ月くらいかかった。

7月31日、再び須磨・現光寺に行き、骨壺をいただき、白木の箱に入れ、白布で首からぶら下げるようにした。遺骨はこのようにして運ぶものだ、 ということを中国からの引揚体験から知っていた。

8月1日、神戸港中央埠頭から関西汽船黒潮丸に乗船した。法務省の出入国手続き、 大蔵省の税関、厚生省の検疫を受けてのことであった。私は、この手続きにおいても、遺骨を丁重に首からぶらさげていた。

お盆休みの帰省客が多かった。奄美大島名瀬、徳之島の亀徳、沖永良部島を経由して8月3日、沖縄島泊港に入港した。

港には、初めて会う従兄弟たちが出迎えていた。

わたしは、遺骨を胸に抱いてタラップを降りた。

簡単な挨拶の後、フォードの中古乗用車に乗り、直ぐ沖縄島北部の国頭村に向かった。軍用道路1号線(現在の国道58号線)を北上、嘉手納ロータリーを回ったことは、記憶にある。船酔い疲れと「外の景色見たさ」が半々だった。

夕方、国頭村伊地の集落に到着した。民家には入らず、直接墓地に連れていかれた。旅先で死んだ者の遺骨は、家に入れず、直接墓地で葬式をおこない、納骨するのだ、という。父の姉、遺骨の主の母親が「マサシ」、と言って私の手を握った。日焼けした、父に似た女性であった。葬儀は老女たち数人が墓の前でお参りや納骨の作業をおこない、男たちは、後方で黙って立ったりしゃがんだりしていた。手に数珠を持っているのでなく、ただそこにいる感じであった。小1時間くらいそんなことをしていてから、渡久地本家に行って、初めて茣蓙が敷かれている部屋に通された。その前に足や手、顔を洗った。薄暗くなってから、浦崎家に行き、仏壇にお参りをした。

ランプの光だけの薄暗い部屋の中に男たちが20名ちかく部屋の壁にそって座り、夕食を食べながら泡盛を飲んでいた。その泡盛は、2合ビンくらいの小ビンで強烈な匂いがした。私は、少し舐めただけで、悲鳴をあげて飲むことを断った。私に話しかけてくる時だけは日本語で、彼らは沖縄語で会話していた。

宿泊は、本家であった。随分気を使っているようだったが、私の方も20歳になったばかりで 、葬式の儀式も、親戚の方々への挨拶の仕方もまったく無知で、出たとこ勝負、行き当たりばったりであった。

翌朝、顔を洗うために、水がどこにあるのか、を聞くと、小道から下った小畔のところにセメントで囲んだ池があり、そこの水を使用することを教えられた。そこが共同井戸(池)だった。そこでは、洗濯をしてはいけないことになっていたのだが、私は、下着の洗濯をしようとし、周囲の人々は困惑した顔をした。

水道の生活に慣れている私は、飲み水にも不自由している人々がいることを知った朝であった。

沖縄では、パインや果物をうんと食べるつもりでいたが、パインは換金果物で従兄弟たちも食べたことがない、と言っていた。

お盆休みにはいったので、那覇から従兄弟や親戚がドーッと帰郷してきた。父方、母方の親戚、叔父叔母、従兄弟たち50名近くの写真を撮り、お名前を聞き、ノートに記録した。

親戚の家では、必ず山盛りの米のメシが出された。今、食べてきたばかり、と言っても、老婆は、カメ、カメ を連発した。断ることは、失礼かと思い少しずつ手をつけ、がまんして食べ、「ごちそうさまでした」とお返しすると、またてんこ盛にして出される、これには本当に閉口した。

最初に今食べたばかりですからね、と念を押しても同じことであった。

遠来の客への最高のもてなしは、食事であったのだ。

ほんとうにありがたかったが、胃がおかしくなり、「梅干が食べたい」と言ったら、本家のお嫁さんが近くの町、辺土名まで買いに行ってくれた。梅干も貴重品だったのだ。

ヤンバルには1週間ほどいた。

この間、高校教師をしている従兄弟とバスに乗って辺戸岬まで行った。また、徒歩で辺土名から奥間の米軍基地のそばまで行った。

奥間基地は夜間でも明かりが煌煌と輝いていた。

電気の設備のない集落の住民は、アンテナを張り、一方をアースにして電球のプラスとマイナスで接続させ豆電球を灯していた。強力な電波が中国大陸に向かって放射されていたのだった。

集落の夜は暗く、ランプ生活の住民は、夜道を歩くことを控えているようだった。

お盆の夕方、月がのぼった海岸で従兄弟たち(女性もいた)と唱歌を歌ったりした。この時は、誰も沖縄民謡は唄わなかった。このことを今推察すると、本土文化を高級なもの、沖縄文化を低級なものという卑下した意識が彼らにあったのではないか、と思う。

盆明けに那覇市神里の従兄弟の家に移動した。

そこから南部戦跡のひめゆりの塔、魂魄の塔、健児の塔などを参拝した。体がまいっていた。暑さと土埃の中を走った記憶しかない。

父の幼いころの友達・津覇実武さんが料亭「左馬」に連れて行ってくれた。琉球料理を食べ、琉球舞踊を観賞するという豪勢なものだった。初めての経験だったし、費用が心配になるくらい散財をさせてしまった。津覇さんとは、この出会いが最初で最後であった。

ある日、地元新聞にハーバービュ広場で瀬長亀次郎那覇市長の演説会が開かれることを知り、「行きたい」と従兄弟に伝えた。従兄弟たちは困ったような顔をして、実はみんな(従兄弟たち)国場組で働いている。あのような場所に行ったことがわかると首になってしまう、という。わたしは、諦めざるをえなかった。

夕方、親戚回りの帰り、たまたまハーバービュ広場の近くにさしかかった。その時、従兄弟の一人が「せっかく沖縄まで来たのだから」といって、広場に案内してくれた。

裸電球のぶら下がっている舞台にラウドスピーカーが設置されていて、激しい演説と拍手、口笛で熱気につつまれていることがすぐにわかった。 会場の舞台からみて左側の後方から舞台を眺めていた。

やがて瀬長亀次郎那覇市長の登場となった。

激しいアジ演説を予想していたが、もの静かな語り口であった。三糸を弾きながら、「ウサギとカメ」の曲に替え歌で、ウサギをアメリカ、カメを亀次郎にして唄った。また、五条の橋の弁慶(アメリカ)、牛若丸(亀次郎・沖縄民衆)を、これも替え歌にして唄った。説明が単純明快だった。これにはヤンノ、ヤンノという大歓声となった。

あまり長居はできないので、適当な時刻に引き揚げたが、瀬長亀次郎を見たのはこれが最初で最後であった。

軍票のB円、コカコーラの刺激の強い匂いと味。多くの親戚の人々との出会い。初体験が何と多い旅であったことか。

帰りは鹿児島経由にした。鹿児島港に到着した時、もう家に着いた感じであった。西鹿児島駅から名古屋駅までは、24時間の長旅であったが、苦にならなかった。

重い荷物と重い「思い」を持ってフラフラになって帰宅した。


帰宅後、沖縄への重い思いはつのるばかりであった。沖縄という活字を見ただけで心が躍るような毎日となった。いわゆる「沖縄病」というものであった。

大学は豊橋市郊外にある愛知大学であった。ここの「時事問題研究会」に所属していた。研究会でのテキストはエンゲルスの「空想から科学へ」であった。

秋、学園祭に「沖縄展」をやろう、ということになった。しかし、めぼしい資料などなかったが、ビー紙に沖縄島の地図を描き、軍事基地がいかに多いか、などとともに私の「身分証明書」(パスポート)やイエローカード(検疫)などを展示した。まずまずの成果をあげたように思う。