2005年8月17日

■ 富村順一さんら 救援活動 ■

W 沖縄闘争
3 コラム「唐獅子」掲載
富村順一、大城俊雄氏などのこと

沖縄復帰前後、沖縄で発行されている「沖縄タイムス」と「琉球新報」の2紙は、沖縄の良心を代表するとともに沖縄の実態を的確に報道している、と高い評価をうけていた。その「沖縄タイムス」のコラム「唐獅子」に月2回、約1ケ年、原稿料をいただいて書いた。わたし36歳。昼夜関係なく活動していた。心身とも充実していたので、こんな調子のよい発言となったのだろう。

  〈無戸籍〉1973年5月12日

 関西のある団体から『大城俊雄さん救援カンパの訴え』のチラシが郵送されてきた。大城俊雄さん(37歳)は、沖縄県出身で無戸籍、石川県金沢市で二宮尊徳の陶器像を、戦前教育の象徴としてハンマーで破壊(1972年11月2日)したとして金沢拘置所にいる、と書いてあった。東京タワー事件の富村順一さんのことと併せて考えながら、「無戸籍とはおかしいな」と思った。

 名古屋で私が起こしている行政訴訟事件の裁判を委任しているY弁護士が大城さんの弁護人となっていることを知り、しかも大城さんがつい最近まで名古屋市に住んでいたことを知り、併せてびっくりした。Y弁護士から「大城さんが無戸籍、ということもあって、この事件処置で困っている」を聞き、大城救援で私も何かやらねばならない、と思った。

 調査は、愛知沖縄県人会長に電話することから始めた。そして、大城さんの従兄弟が名古屋市緑区にいることがまずわかった。緑区には私の又従兄弟がいるので、そこに電話をかけた。驚くべき返事が返ってきた。「俊雄の従妹が私の女房です」と。世の中、狭いものだと思いながら、関係先を訪ねていった。

 区画整理予定地の仮設住宅で大城俊雄の従妹と母親がいた。口ごもりながら母親が言った。「俊雄には申し訳ないが、私たちはあの子たちとは、もうかかわりたくないのです。私たち母子は、どんなにいじめられたことか、あなたにはわかってもらえないと思うが」と言って涙ぐんだ。「お酒を飲みすぎなのですか」と私。「ええ、この家に来るときに、飲んでいなかったときはありませんでした。あの子の兄も酒を飲みすぎて死んだし、弟も父もそうでしたよ」と母親。「兄弟3人とも戸籍が無かったのですか」。「ええ、3人とも無かったですよ、結婚しても籍が入りませんので、みなヤケになって、今も独り者ですよ、3人ともそのことを気にしていましたが、どうにもならなかったですよ。私たちの子どもも戸籍が無かったのですが、昭和39年に裁判所で苦労してつくりましたよ」。「そうですか」と私はため息をついた。


〈「大城メモ」の紹介〉1973年5月25日
 石川県金沢市で、陶器製二宮金次郎像を、戦前教育の象徴として破壊した無戸籍の沖縄出身者 大城俊雄さん(37)の事件に私がかかわることになった経緯については、本紙5月12日に書いた。
この間、児童文学作家の柴田道子氏が、雑誌『世界』6月号で“二宮金次郎の亡霊”で「二宮思想」に力点を置いて事件の核心を伝えている。
 ところで、私がこの事件で心をひかれるのは、「二宮思想」よりも、大城さんのたどった戦後史である。それはまさに沖縄出身者のたどった典型だからだ。
 「大城さんを支援する会」が、大城さんの発言を録音にとり、それをメモにしたものがある。この「大城メモ」を読み、私は愕然とした。以下、「大城メモ」を列記する。
@ 戦中、和歌山県の沖縄部落、ここでの
大城3兄弟と従兄弟3人の計6人のこどもたちがおばあさんただ1人に預けられる。生活は赤貧そのもの。
A 戦後、焼け野原の名古屋市郊外での
生活。沖縄県出身者集団による窃盗事件に参加、生活苦のため、小学3年以降は未就学。
B 大城少年の数々の刑事事件、キリス
ト教牧師への暴行、麻薬販売、酒、町工場労働者、精肉店勤務…。
C 在日朝鮮人、未解放部落民との出会
い、天理教との出会い。
D 警察による一種の保安処分としての
精神病院への強制入院、身元引受人がいないための不当長期入院。
E 無戸籍、沖縄出身者、未就学等々に
よる差別。
F 家庭の解体、母は沖縄で、父は大阪
で、兄は名古屋でバラバラに死亡。深酒、飯場暮らし。
G 手配師に騙されて金沢市へ。そこで
「二宮思想」の問題点をこどもたちに話してから、こどもたちの見ている前で二宮像を破壊。
H そして今、拘置所内から反権力「二
宮・天皇思想」の弾劾を強力に主張。
@〜Hのどれをとっても重大な問題ばか
りである。大城さんの従妹は「俊雄とはかかわりたくない、大城姓を変更したい」と私に言った。大城さんの弾劾は、底辺からのドロドロとしたものだけに、この事件にかかわろうとするものは、ドロを被るだけでなく、ドロに漬かることも覚悟しなければならぬ。

〈富村さんへの手紙〉1973年6月8日
 富村順一(東京タワー人質事件・皇居投石事件など)さんが沖縄人ならば、沖縄人でも日本人でもない半沖縄人として富村さんにお手紙をさしあげます。
 二宮金次郎像を破壊した大城俊雄さんの裁判を支援するためにわずか1泊2日でしたが、石川県金沢市で富村さんと生活を共にし、いろいろと考えさせられました。
 富村さんは、この1泊2日間に、出版社と新聞社からの依頼原稿が殺到していること。そして、その締め切りについてひどく心配なさっておりました。また、沖縄県で、知識人・文化人から大歓迎をしてくれたことを誇らしげに語ってくださいました。さらに、各大学、各地で講演することが多くて…、ともおっしゃいました。
 富村さん、出獄後のこの間は、事件の報告義務として書いたり、演説をしたりしなくてはなりません。しかし、もうこれ以上は、書いたり、しゃべったりをしない方がよいのではないでしょうか。
 富村さんがお書きになった「わんがうまりあ沖縄」について言えば、わたしには何ら新しいものはありませんでした。率直に申し上げるならば、富村さんの沖縄的雄弁(実は訥弁)と富村さんの強烈な毒気にひよわな東京左翼知識人があてられてしまったこと、そして、富村さんの毒気が「売れる」ことを察知した出版社が金バエのこどく富村さんに群がり飛びまわっている、としか思えません。
 更に、沖縄県の知識人・文化人の歓迎ということでも、穿って言えば、東京文化をやっつけてくれた富村さんを歓迎したのかもしれません。
 カッーとなり行動を起こし、気がついてみれば自分の虚像が巨像となっている。しかたがないからその虚像に跨って「オキナワ オキナワ」とムチうっている富村さんをわたしは痛々しく思うのです。
 富村さんが「浮かんだ舟は進む」(「破防法研究」第19号)という格好のよい殺し文句はよくはありません。一つの闘いを興すまでの間は、深く沈静し、準備をする必要があります。それができない状況があるのでしたら、皇居突入の沖青委と国会で爆竹を投げ付けた沖青同、二宮像破壊の大城俊雄さんの三つのみに支援活動をしぼったらいかがでしょうか。
 いまのままの状況が続いたならば、富村さんは、数ケ月で自滅してしまうような気がしてなりません。闘いをこれから始めるつもりで、富村型を崩すことなく、沈静したところから、再出発しようではありませんか。

1973年6月22日
  沖縄タイムス  唐獅子
  意識した熱狂を

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。
60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。
マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。
ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。