2011年4月24日

■ 渡航制限撤廃闘争 その2 ■

 渡久地政司 様
謹啓
はじめまして。
突然のメールで大変失礼いたします。私は韓国ソウルの延世大学という学校で近現代東アジア史を勉強しているJ.Sと申します。 このたび、偶然なきっかけで先生のホームページに訪れるようになって、まずは大変びっくりしましたし、また本当にうれしかったです。私は最近「戦後沖縄の出入管理政策と社会運動」という題目の修士論文を発表しましたが、以前から戦後沖縄の出入管理の問題について関心を持っていました。それが戦後沖縄、またはアメリカの沖縄統治の問題に限らず、沖縄の「復帰」の過程を考え直す重要ないとぐちじゃないかと考えたからです。そうした中、勉強のため関連のある資料を調べていたところ、偶然にインターネットで先生のホームページを見つけました。私は先日、先生が1968年に「思想の科学」に掲載された「沖縄渡航手続きを拒否して」を読んだことがありまして、先生の入域手続き拒否について深い印象を受けたことがあります。今回先生のホームページから、これまで読めなかった先生の他のお話に接して、再び先生に感謝してます。 いろいろなお話を読んで、恐縮ですが、もし宜しければその渡航拒否ーそして1960年代展開された「渡航制限撤廃闘争」ーについて、先生の経験に踏まえ、申し上げたいと思っていたことについて若干のご質問させていただけると思いました。もちろん、先生から承諾のお話を聞いてからのことになるべきはずですが...では、ご返信お待ちしております。なお、東日本大震災に際して、日本だけではなく全世界が日本の早い回復を願っている今、被災地および全日本の方々に少しでも力になることを願いながら、応援いたします。 メール読んで頂いて誠にありがとうございます。
謹具
韓国ソウルから、J.S追伸)日本語実力の不備のため、おかしい表現や言葉がなかなかあるんじゃないかというおそれがあります。なにとぞよろしくご了承お願い申し上げたいと思います。なお、私の論文の日本語要旨を添え付けました。恐縮ですが、もし宜しければ、ご一読いただければ幸いと思います。 J, S
MA in History, Yonsei University
Seoul, Korea

日文要約
戦後沖縄における出入管理政策と社会運動
J.S
延世大学校大学院史学科

1945年、米軍の沖縄上陸と同時に開始された沖縄 における出入統制は、米国の統治下にあった沖縄を日本 とは区別された主権的領域として設定し、管理するための中核的な施策であった。占領初期の沖縄において「 軍事的安全」のために厳しく統制された沖縄の出入は、1950年のユースカー (琉球列島米国民政府)の設置及びサンフランシスコ対日平和条約の発効などを経て徐々に自由化されたが、いまだ複雑な出入手続を必要とした。特に、沖縄と本土との自由な人的移動を防ぐことができるという点で、沖縄の出入管理政策は社会的な反発を引き起こした。しかし、ユースカーの立場から見ると、出入管理政策はそうした反応を抑える対応策でもあった。これを重視 したユースカーは、沖縄における出入許可権を1972年の沖縄 返還まで維持し活用 した。要するに、戦後沖縄 における出入管理 政策は、ユースカーの政策と社会運動との間で生成された緊張 関係の中で形成され、変容していったのである。この点に注目して、本稿では、米国統治期の沖縄における出入管理 政策の形成 ?変容過程 と社会運動との間の関係を考察することを目指 した。 占領初期に実行された大規模な送還によって、約 20万人にのぼる大量の人口が沖縄に流入した一 方、7万 人余りの「本土」出身エリートが沖縄 を去った。このような人口構成の再編は、米国の沖縄統治において重要な役割を果たす沖縄出身の「 協助的エリート」の育成を促進する一方で、戦前から続いていた沖縄の「過剰人口」 問題が戦後も引き続くこととなった要因のひとつでも あった。その解消策として行われた海外への移民送出と日本本土への「集団就職」の推進に対 して、ユースカー側はおおよそ協調的な態度を取ったものの沖縄の社会に対する統制力を再確認するための意図から、場合によってはこれを抑制する態度を見せることもあった。 ________________________________________ また、出入管理の方針が、沖縄の政治、社会の各分野に直接的な影響を及ぼし、徐々に社会的な争点として浮上すると、ユースカーは、反米的な動き、特に日本への復帰を主張する人々を 制御するため渡航規制を発動した。しかし、このような抑制的施策は、1960年代初頭に入ると沖縄 県祖国復帰協議会(復帰協) および沖縄人権協会などが主導した社会的 「逆風」を招くこととなった。この社会的反応は、沖縄返還に至るまでの渡航規制政策の緩和をもたらした重要な要因であった。さらにその過程 「沖縄出身者」は同じ日本(国籍は戦後沖縄の出入管理 政策において という状態、すなわち、米国の沖縄統治に)人にもかかわらず外国人のよう取なり扱いを受ける 対する問題提起を伴うこととなったのである。そして、この点は歴史的に存在してきた沖縄に対する差 別という文脈とも重なるものであった。 このようにして触発された沖縄における出入管理 政策への抵抗は、沖縄と本土の間に現 存する 制度的?行政的境界について再考させる社会的空間を確保するうえで大きな役割を果たした。一方、復帰 協と沖縄 人権 協会が主導した渡航規制撤廃運動の場合 、「普遍的人権 」の一部でありながら日本の「戦後/平和憲法」によって保障されるべき対象 であった転居の自由を重要な名分として掲げた。こうして、渡航規制の撤廃を要求する動きは、沖縄返還に先立って「琉球住民」を実践の場において積極的に日本の法域へ位置づける役割を担ったといえる。しかし、沖縄出身者がこのように「国籍上日本人」という法的根拠と「普遍的人権」という名分に頼ったのは、あくまでも米国の出入統制への対抗路線を追求する過程で寄託された一つの運動路線であり、無批判に「 復帰 」 の対象となる日本を認識した結果とは言いがたい。1960年代後半の「反復帰論」の登場や「沖縄処分」反対 という文脈からも読み取れるように、沖縄が日本の一つの県へと戻っていったプロセスは、戦後日本が謳歌してきた「平和」の「 カゲ」 を照らし出 し、それまで本土内でさほど注目されていなかった沖縄を幅広く認識させるきっかけとなった。こうした中で、1960年代後半以来「ベトナムに平和を!」 市民連合 ( ベ平連 ) と本土在住の沖縄 出身者が中心となって推進した出入手続拒否運動は、まず日本政府への問題提起、すなわ 1945年、米軍の沖縄上陸と同時に開始された沖縄 における出入統制は、米国の統治下にあった沖縄を日本 とは区別された主権的領域として設定し、管理するための中核的な施策であった。占領初期の沖縄において「 軍事的安全」のために厳しく統制された沖縄の出入は、1950年のユースカー (琉球列島米国民政府)の設置及びサンフランシスコ対日平和条約の発効などを経て徐々に自由化されたが、いまだ複雑な出入手続を必要とした。特に、沖縄と本土との自由な人的移動を防ぐことができるという点で、沖縄の出入管理政策は社会的な反発を引き起こした。しかし、ユースカーの立場から見ると、出入管理政策はそうした反応を抑える対応策でもあった。これを重視 したユースカーは、沖縄における出入許可権を1972年の沖縄 返還まで維持し活用 した。要するに、戦後沖縄 における出入管理 政策は、ユースカーの政策と社会運動との間で生成された緊張 関係の中で形成され、変容していったのである。この点に注目して、本稿では、米国統治期の沖縄における出入管理 政策の形成 ?変容過程 と社会運動との間の関係を考察することを目指 した。 占領初期に実行された大規模な送還によって、約 20万人にのぼる大量の人口が沖縄に流入した一 方、7万 人余りの「本土」出身エリートが沖縄 を去った。このような人口構成の再編は、米国の沖縄統治において重要な役割を果たす沖縄出身の「 協助的エリート」の育成を促進する一方で、戦前から続いていた沖縄の「過剰人口」 問題が戦後も引き続くこととなった要因のひとつでも あった。その解消策として行われた海外への移民送出と日本本土への「集団就職」の推進に対 して、ユースカー側はおおよそ協調的な態度を取ったものの沖縄の社会に対する統制力を再確認するための意図から、場合によってはこれを抑制する態度を見せることもあった。 ________________________________________ また、出入管理の方針が、沖縄の政治、社会の各分野に直接的な影響を及ぼし、徐々に社会的な争点として浮上すると、ユースカーは、反米的な動き、特に日本への復帰を主張する人々を 制御するため渡航規制を発動した。しかし、このような抑制的施策は、1960年代初頭に入ると沖縄 県祖国復帰協議会(復帰協) および沖縄人権協会などが主導した社会的 「逆風」を招くこととなった。この社会的反応は、沖縄返還に至るまでの渡航規制政策の緩和をもたらした重要な要因であった。さらにその過程 「沖縄出身者」は同じ日本(国籍は戦後沖縄の出入管理 政策において という状態、すなわち、米国の沖縄統治に)人にもかかわらず外国人のよう取なり扱いを受ける 対する問題提起を伴うこととなったのである。そして、この点は歴史的に存在してきた沖縄に対する差 別という文脈とも重なるものであった。 このようにして触発された沖縄における出入管理 政策への抵抗は、沖縄と本土の間に現 存する 制度的?行政的境界について再考させる社会的空間を確保するうえで大きな役割を果たした。一方、復帰 協と沖縄 人権 協会が主導した渡航規制撤廃運動の場合 、「普遍的人権 」の一部でありながら日本の「戦後/平和憲法」によって保障されるべき対象 であった転居の自由を重要な名分として掲げた。こうして、渡航規制の撤廃を要求する動きは、沖縄返還に先立って「琉球住民」を実践の場において積極的に日本の法域へ位置づける役割を担ったといえる。しかし、沖縄出身者がこのように「国籍上日本人」という法的根拠と「普遍的人権」という名分に頼ったのは、あくまでも米国の出入統制への対抗路線を追求する過程で寄託された一つの運動路線であり、無批判に「 復帰 」 の対象となる日本を認識した結果とは言いがたい。1960年代後半の「反復帰論」の登場や「沖縄処分」反対 という文脈からも読み取れるように、沖縄が日本の一つの県へと戻っていったプロセスは、戦後日本が謳歌してきた「平和」の「 カゲ」 を照らし出 し、それまで本土内でさほど注目されていなかった沖縄を幅広く認識させるきっかけとなった。こうした中で、1960年代後半以来「ベトナムに平和を!」 市民連合 ( ベ平連 ) と本土在住の沖縄 出身者が中心となって推進した出入手続拒否運動は、まず日本政府への問題提起、すなわ