■ 渡航制限撤廃闘争 ■

東京港・晴海埠頭を戦場に
沖縄渡航制限を撤廃させるために

渡久地 政司
前進・1968年8月12日掲載 
 前進・1968年8月12日掲載         7月15日夜、羽田空港において不当な「沖縄からの入域手続き」の拒否を闘いとった愛知県豊田市の市議会議員渡久地政司氏が、 夏の終わり東京晴海埠頭で在本土沖縄県学生が中心となって闘われるであろう「沖縄からの入域手続き拒否」の闘いに対してアピールを本紙に寄せられた。 渡久地氏は、豊田市政研究会を組織し、革命的議会主義の立場から市議会議員として活躍している。(編集局)

アピール

      東京・晴海埠頭は、銀座からタクシーに乗って10分のところにある。国際見本市の会場であったドーム型の会場のそばを回り抜けると、 行く手に船のマストが見えてくる。そこが東京港・晴海埠頭だ。      二階建てのターミナルビルと並行して、二千トン級の船が横付けになっている。
     船の名前は、ひめゆり丸。
     「ひめゆり」という語呂は、いかにも沖縄的だ。哀しくて、甘ったるく、死者を売り物にし、被害者意識丸出しで、やりきれない。
     ターミナルビルの中は、出迎え人でムンムンする。内部の一角、囲われたところが税関である。船酔い疲れのため、眼ばかりギョロギョロ とした、浅黒い男と女、老人、若者たちが、最後の力をふりしぼって、税関の検問を受けるために並ぶ。彼らは、船中で検疫と入域手続きをするために 既に、数時間並ばされ、更にここで小一時間並ばされる。
     スピーカーが強く迫る。
     「こちらは東京税関です。ただいまから携帯品の検査を行います。検査に先立ち、一言ご注意もうしあげます。みなさんの携帯品の中に 時計、タバコ、洋酒、宝石、貴金属等がございましたら、もれなく申告書に記入してください。もし検査の際申告もれがございましたら、法律に よって処罰されますのでご注意ください。」
     羽田空港の税関は、携帯品検査の申告書の提出を求めない。飛行機に搭乗できない沖縄県民だけに強いられる不当な差別。
     人々は、税関職員の前にある長方形の机の上に携帯品をのせ、紐を解き、スーツケースのチャックをはずす。税関職員は、横柄に、意地 悪く、スーツケースの底まで手を入れて検査をする。下着までひっくり返され、恥ずかしさのため顔を青ざめる若い女性。疲れきった人々は、 一刻も早くここを通り抜けたい一心から、税関職員の心証を悪くしないようにと、問われないのに、これはコーヒー、これは衣類、と早口に 説明をする。
     出迎えの人々もイライラする。
     「税関は、早く通せばよいのに…」

     沖縄県民に強いられたこの屈辱、この原因はなにか。
     沖縄県民は、日本国・沖縄から日本国・東京へ旅行するのに、なぜ、検疫、入域(国)、関税の関門(手続き)をおこなわなければならないのか。

     1951年、アメリカ西海岸サンフランシスコで日米間で二つの条約が締結された。対日平和条約、日米安保条約がそれだ。この二つの条約 によって、沖縄は、日本政府によって、アメリカの核基地となるために「里子」にだされたのだ。日本国・沖縄の施政権者は、アメリカ合衆国高等弁務官 、その名前は、アンガー。
     もう一度、確認しておこう。沖縄をアメリカの核基地にするために、「里子」に出した「親」は、日本政府、その名前は吉田茂。
     そして、今、東京港、横浜港、神戸港、鹿児島港の各港や国際空港で、沖縄県民に屈辱を強いているのは、日本政府、その名前は、佐藤栄作、 吉田茂の子分。

     東京・晴海埠頭。
     夏の終わりころ、数十名の若者が、検疫、入域(国)、税関の手続きを拒否する。そこに乗客も合流する。
     「日本国・沖縄から日本国・東京に来たのだ。胸を張って、堂々と降船しよう。」と口々に叫ぶ
。      それを日本政府の官憲が阻止しょうとす。「沖縄よ、お前は、核基地としてアメリカに「里子」に出したのだ。帰ってくるな」と。
     晴海埠頭の出迎えの人々が、官憲のバリケードを排除する。そして、沖縄を「奪還《する

     「奪還」という語呂のなかにあるあたたかい心と心のふれあい。敗戦後の二十数年、沖縄県民と本土人民がはじめて抱き合う一瞬。「甲子園の砂」 とか「ひめゆりの塔」や「掛け声だけの沖縄行進」に象徴されてきた沖縄に対する偽善を一挙に粉砕してしまう合流。沖縄渡航制限を粉砕してしまうこの直接 行動は、安保体制の"東京ー沖縄"軸を根底から揺さぶり、壊す。

     東京・晴海埠頭
。      私は、そこにだかける用意を完了した。
     沖縄を「奪還」するために。
     沖縄渡航制限を撤廃させるために。
     この行動は、安保体制をも粉砕する。

     男も女も、老人も若者も
     東京・晴海埠頭にでかけよう。

     東京・晴海埠頭を戦場に!

                                        [了]

   2003年6月28日
35年も前の記録。
当時、書くことができなかったことが幾つかあった。
そのうちの一つに、学者・弁護士(専門家として)、そして体制側職員からの協力があった。
沖縄闘争は、左翼だけの闘争ではなかった。これらの方々の協力がなかったら、みじめな失敗になっていただろう。
未公表の資料も幾つかあるので、順次公表していきたい

写真はわたし(渡久地)が撮影しました。
入港するひめゆり丸。
甲板で垂れ幕をあげ、携帯マイクで演説をする。
出迎えの人々。
NHKテレビニース=入管職員ともみあう・パスポートを燃やす。