愛知の中の沖縄
4 沖縄県人会
  2005年8月17日 

■ 愛知沖縄県人会・連合会 ■

 1986年4月12号『琉球新報』記載―われらウチナーンチュ・佐渡山安治―に、昭和14年、名古屋沖縄県人会があり、会長は神山政良(商工省役人)、佐渡山安勇(内務省役人)らが参加の記述がある。

 1945年敗戦直後、上原勘松郎さん(後述)の話では、名古屋でも沖縄人連盟が結成され、全国大会に代表を派遣した。沖縄に帰還する同胞に毛布を支給せよ、と愛知県庁と交渉をおこなった。資料など未収集。

  愛知県下全域を対象にした愛知沖縄県人会は、1960年前後に結成された。沖縄政界の大物が参議院議員選挙(全国区)に立候補するのを支援する目的で結成された。その意味では、きわめて政治的な動機であった。

初代の会長には、元愛知県職員の佐渡山安勇さんが就任した。どのような支援活動をしたのかは、当時の資料が残されていないのでわからない。豊田市在住の鈴木始さんが佐渡山さんの縁戚で、佐渡山さんを案内してわが家に訪ねてきた。

 後日、残存しているわずかな資料から推察すると、愛知県下には、名古屋市の緑区と守山区、そして、中区や港区などに支部があった。緑区や守山区には、ある程度まとまった沖縄集落が形成されていたようだ。

 このころ、豊田市では、「がじまるの会」という沖縄の親睦会があったが、年に一度くらい食事会をおこなう程度であった。

 私が大学生のころ、「愛知沖縄学生会」を結成したが、結成しただけで離れた。その後、学生会は数年存在し、機関誌「シーサー」を発刊している。現在、琉球大学教授の歴史学者高良倉吉氏などが出筆している。

 私が愛知沖縄県人会とかかわるようになったのは、1963年、愛知沖縄県人会豊田支部長になってからであった。

 愛知沖縄県人会長は大浜皓名古屋大学名誉教授が永らく就任していた。人格識見共に、という言葉がピタリとあてはまる方であった。大浜先生が会長でなかったら、私は役員会に出席するのを辞めていただろう。

沖縄県人会豊田支部長として役員会には数年出席していたが、議題の審議がいつもダラダラとしており、決まったのかどうか、はっきりしないまま曖昧に終了することが多かった。会計処理では、嫌な噂話も聞こえてきて大浜先生はよく耐えていた、と思う。

 大浜先生の借家は、名古屋市千種区今池仲田にあった。数回おじゃましたが今、どのあたりであったか、さやかでない。転居された千種区猫ケ洞マンションにも数回おじゃました。大浜先生がお亡くなりになったことを数ケ月後に新聞で知った。そこには、蔵書を石垣市に寄贈した、と書かれてあった。奥様もご高齢であったし、お子さんがいなかったので、お墓をどなたがお守りしているのかわからない。

 大浜先生は、西洋哲学の視点から中国哲学・老荘思想を研究して業績(博士号)を矢持ちだった。後日知ったことだが、先生は、叙勲を辞退なさっていた。理由はわからないが、先生らしい決断だと思う。私は尊敬の念を抱いていた。

 昭和40年からの資料は、私が保存していたので残っているが、それ以前は、散逸してしまった。

 昭和40年の県人会役員のお名前は、V愛知の中の沖縄 (事柄)に掲載されている。

 県人会とは別に「でいごの会」があった。主宰・会長は、名城良図医師(名古屋市熱田区白鳥で「名城産婦人科医院」を開院)であった。昭和39年度「でいごの会」の役員名簿は、V愛知の中の沖縄 (事柄)に掲載。伝聞では、実の娘さんがひめゆり隊で戦死しており、それが引き金になって「沖縄の復帰運動に一生懸命」、とのことであった。名城先生は、県人会役員会がグズグスしていると突然怒りだしたりした。唐突といえば唐突なのだが、必死さがあった。「沖縄復帰のために参議院選挙に立候補しようとして、テープレコーダーを購入して、演説の練習をしていた」との噂があった。ただ、発音にひどい沖縄訛りがあって、話が聞き取りにくかった。沖縄のためになることは、なんでもしようという気持ちはよくわかったが、それが他に伝わらなかった。沖縄県名古屋事務所の設置嘆願書を独自に作成し、印刷した資料が私の手元に残っている。結局、署名運動にまで発展せず、挫折してしまった。名城先生の沖縄への重い思いを受け入れるだけの余裕が愛知沖縄県人会になかった。しかし、わたしは、名城先生の直情的さが好きであった。それ故、たびたび先生のご自宅を訪問した。先生がお亡くなりになったことは、愛知沖縄県人会の誰もが知らなかった。たまたま、私が差し出したハガキが兵庫県に移住なさっていた奥様に転送され、そのご返事で知った。名城先生の努力など私がこうして記入しておかなかったら永遠に消えてしまう。

 北区大曽根で「くろねこ」という喫茶店を経営していた宮里弘さん。静かな声でお話する方であった。県人会では書記を担った。お亡くなりになった後、遺族の方から県人会関係の資料をお預かりした。この資料に元づいて、当時のことがヤミの中に消えずにすんだ。

 今池にいた安江洋(匡平・かもしれない)さん―沖縄興信所発行資料には、首里出身、沖縄1中卒となっていたが、岐阜県生まれ。県人会の役員をしていた。安江さん宅でも幾度も役員会を開いた。偏屈な県人会役員の中には、「安江さんは、沖縄人ではない」といっていた。

 名古屋市中区武平町(松坂屋のすぐ東)にあった南条児童舞踊研究会(南条舞踊学校)でも県人会役員会を度々開いていた。南条康宏、南条宏(多分親子)さんにもお会いし、名刺をいただいた(手元にあり)。宏の妻南条君子は1911年宮崎県生まれ、本名高江洲とみ子(沖縄高女卒)。現在の名古屋版・沖縄那覇市版の電話帖にも「南条舞踊教室」の掲載があるのだが、詳細はわからない。

 米須秀顕さん―明治40年、首里生まれ、中央大学卒、日本専売公社津所長を定年退職後、大浜先生の直後の県人会会長だった。静かな語り口の方であった。後、東京に移住。米須会長時代の資料は散逸。

名古屋市守山区の仲井間宗智さんがその後の会長だった。たまたま屋良朝苗知事が来名した。名古屋駅前の名鉄ホテルで歓迎会を開いた時、万歳の音頭をとった。その時、「屋良閣下万歳!」といったので私はびっくりした。知事を「閣下」という認識をしている明治の人だった。

このころ、県人会運営方法をめぐって実力のある緑支部と守山支部が対立していた。豊田支部は、やや離れたところにいたのでこの対立には巻き込まれなかった。その後、県人会は緑、守山、豊田がそれぞれ独立して存続し続けた。豊田と緑は連絡があったが、守山は連絡を拒んだ。ただ、愛知沖縄県人会の名称は残っていた。それは、愛知県から県内の県人会に補助金が出ていることもあって、屋嘉比紫清氏が会長を名乗って補助金を受理、その補助金を愛知沖縄青年会や沖縄民謡団体に配布していた。

こんな異常な状況が数年続いた。

この間の資料は散逸。

1990年初頭、上原勘松郎、山城一男、濱盛重則、比嘉照康、前原信政氏らが愛知沖縄県人会連合会を再建した。

再建県人会は、連合会方式を採用、会長に

上原勘松郎氏が就任した。

 連合会になってからの資料の一部は私が保存している。