2005年8月17日 
  T わが内なる沖縄

■ 2 関西の沖縄 ■

関西の沖縄
(1950年ころまで)

敗戦国民という言葉を背負って中国天津郊外の港(タンクウー)でアメリカの輸送艦(リバティー型)に1946年3月末(30日か?)に乗船した。1946年3月31日午後7時ころ佐世保港に入港、翌4月1日午前中に上陸した。

 4月10日前後、愛知県西加茂郡挙母町大字山之手のトヨタ自動車三ッ満多社宅に入居した。

そして挙母町立南小学校(現豊田市立根川小)3年生となった。

1947年(小学4年生)、大阪の親戚(従兄・従姉)と連絡がとれた。従兄・従姉たちは、入れ代わり立ち代りやって来た。大阪は大変な食糧難のようだ。兄(新制中学1年生)や姉(旧制挙母女学校3年生)は、従兄・従姉たちと一緒に米を大阪に運んでいた。お米を運ぶとかなりの利益があった。やがて従兄・従姉たちと共に、大阪の沖縄社会の人々もやって来るようになった。

 一度などは、ヤギを数十頭も買い集め、列車で大阪に運んだ。そのヤギをトヨタの社宅の周囲で一時とはいえ集めたのだから、大変である。そのヤギの世話をさせられるのもイヤだったが、社宅の人々の目が冷たいものを感じた。大阪の沖縄集団は、とんでもないことをやる集団だ、と思った。

 同じ沖縄でも京都の上里忠明さんは、天津時代からの知人だったので、上里さんには親近感を抱いていたが大阪の沖縄には、嫌悪感を抱いた。沖縄買出部隊は、挙母町の農村に出かけて行き、米の買出しをおこなっていた。

 従兄・従姉たちと兄や姉は、かなり頻繁に大阪に出かけた。私も大阪に3度くらい、京都に2度くらい出かけた。学校を休んで出かけるのは嫌であったが、一度出かけると、学生服が購入できることを知り、言われたら喜んで出かけた。

 夏休み、1週間ほど、兵庫県尼崎市で生活をしたことがあった。そこは、沖縄人が多く住んでいる地域だった。国鉄尼崎駅と阪神電鉄大物駅の中間、家のそばに福知山線が通っていた。近所のこどもたちとも仲良くなったが、その内の一人が、「お前は沖縄か」と聞いた。何か、ひどく軽蔑されたような気がしたので、「違う」と言った。そう言ってから、何か引っかかるものを感じた。

 尼崎市の神崎川流域、モスリン橋を渡ったところの沖縄集落には、父親の従妹が嫁入りしている岸本家(根路銘)があった。男勝りの母親だったが、50代で亡くなった。この岸本家は、戦後、四国からヤミ船の底に米を隠して運んだ、と兄が語っていた。兄弟・姉妹も多く、活気のある一族であった。そこへは2度ばかり使いにやらされた。ここで空気銃をもらった。モスリン橋は、人と自転車しか通れない、幅の小さな橋であった。今は、自動車が通れるようになっている。岸本の長男(私とは、又従兄弟)は三糸の名手であったが、早死にした。

 京都駅から大阪方面へ数駅に是足(こうたり)がある。この駅から歩いて10分くらいのところに仲村家(元は仲村渠だろう)があった。父と母が戦前からの付合いのある家族で、警察官をしていた。奥さんは、開放的な丸顔の沖縄人であった。ここに、小豆を届けるように、母に言われて持参した。仲村さんの奥さんが、「あんたのお母さんと私が友達で、あんたのお父さんとうちの人とが、どちらを嫁さんにするかで争ったのだよ」と言う話をした。この人が私の母親になったかも知れないなんて、嫌なことだ、と思った。なぜなら、このおばさんは、目は丸々だが、丸顔でダンゴ鼻だった。仲村巡査が話したエピソードにこんなものがある。

 戦後まもないころ、牛ドロボーをおこなった数名の沖縄人が逮捕された。そして、彼らは、沖縄語で密談をやった。仲村さんは黙って聞いていて、後日、沖縄語で「悪さをしてはいけないぞ」と言った。彼らがどのような顔をしたかは、聞きそびれた。

 私の兄は、高校3年の時、結核になり、数年療養したが治癒しないうちに大阪に働きに出た。尼崎の岸本家に居候をしていたようだ。そこで病気が再発し、母親が連れ戻しに行った。その時、兄の世話をした娘?(この娘も沖縄系)がいたらしい。数年後、母がこの娘のところに「正月の餅」を届けるように、と言われた。国鉄環状線ガード下の3畳くらいの部屋に中年の女性と生まれたばかりの赤ちゃんと中年の男がいた。この男が、困惑したような顔をしたが、せっかく来たのだから、と通天閣の近く、新世界に連れていってくれた。ここでチョコレートを買ってもらった。チョコを食べたのは初めてであった。

 母親と一緒に大阪市内の野里というところの、沖縄人の家に行った。どこも屋根が低く、バラック建てであった。母親がどうしてこれらの人々を知っているのか不思議に思った。

 1950年代後半、私が中・高生のころ、豊田市に居住する鈴木始さんが愛知県職員の佐渡山安勇さんら数名を案内してわが家にやってきた。沖縄政界の大物が参議院議員選挙に立候補することになったのを契機に、愛知沖縄県人会を結成する、とうような話合いが行われたらしい。この件で、父も名古屋市に出かけていった。

 やはりこの頃、鳴海(名古屋市緑区)の伊野波盛安さんがキセルでタバコを吸う老女(沖縄?)と共に、タクシーで乗付けてきた。

伊野波のタンメーが脳梗塞なり、これを機に沖縄に帰る、鳴海の家屋敷を処分して40万円(現在の貨幣価値では2.000万円くらいか)をつくった。この金を沖縄に持って行きたい、いい方法はないだろうか。私は、無い知恵を振り絞って、こんな提案をした。トヨタ自動車の本社に40万円を持っていって、渡し、軍票B円を沖縄トヨタでもらう。私の提案を父は実行した。トヨタの人事にひどく叱られた、と母が言っていた。しかし、父は私には何も言わなかった。これはアラブ銀行(アルカイダ)方式なのだが、まったく無い知恵でよくも考え付いたものだ。

中学生か高校生ころだったか、今井正監督の映画「ひめゆりの塔」が街の劇場にやってきた。白黒で雨ばかり降る、暗い映画であったが、香川京子演ずる先生がきれいであったことと最後のシーンで顔を洗い髪をすくシーンが今も印象として残っている。父も母も観に行った。二階の手すりのところで母は泣いていたようだった。

1950年代末、食料事情も良くなってきたころから、関西の沖縄との交流は無くなった。また、鳴海(名古屋市緑区)との交流も途絶えた。

高校生(1953〜55)のころ、近所に共産党員のOさんがいた。誰彼なく話しかける癖があった。ある日、「沖縄の基地と基地周辺で働く女性」について、Oさんの一席を聞かされるはめになった。わたしは、両親が沖縄である、と言った。すると、Oさんは、いかにも大切な物に遭遇したかのような顔をして、「そうか」と言って唸った。共産党にとって沖縄は大切なもののようだった。

高校生のころ中野好夫編集の雑誌『平和・沖縄特集』を購入して読んだ。

やはりこのころ、村上元三の『佐々木小次郎?』が朝日新聞に連載され、琉球王女「奈美」が登場、映画化され大友柳太郎主演、高峰秀子が王女をやった。琉球王国への知識・イメージは、この域を出ていなかった。

基地沖縄についての情報もほとんどなかったし、沖縄の情報は皆無であった。

沖縄の親戚との手紙での交流は、1947年ころから始まった。父の母・ハンシーさんが戦争中、マラリアで亡くなったという知らせもあった。沖縄県国頭郡国頭村字伊地に従兄弟たちがいることがわかった。長男家の政昌さんや次男家の人々との文通はあった。私の父は、小学校を4年までしか出ていなかったが、手紙はよく書いていた。沖縄からブルーの沖縄島地図が送られてきた。私は、それをいつまでも眺め、空想にふけていた。

1990年代から

長い空白期間をおいて関西の沖縄との交流がはじまったのは、1990年9月、大正区の千島公園で開催されたエイサー大会に出席してからだ。
v 現在の関西沖縄文庫がまだ平屋建てのころで、薄暗い、天井の低い部屋であった。夜半到着した時は、大雨か降っており、大会か開催さるかどうか危ぶまれていたが、明け方雨があがった。

エイサー大会には、愛知琉球エイサー太鼓連の若者たちに付いていった。この交流で関西の沖縄の状況がかなりわかった。

翌年も大雨であった。この時は、沖縄会館で行われた。その夜は、金城康子さん(舞踊家)宅に泊めていただき、関西の沖縄県人会の内幕みたいなことを教えてもらった。

「琉球民謡レコード」を持参したのも関西沖縄文庫(以前の建て家)であった。

関西沖縄文庫の金城馨さんを通して知人の輪がひろがった。

米兵による少女暴行事件の翌年1996年、大阪中之島公会堂で開催された集会では、名古屋からの参加者を代表して挨拶をおこなった。

その後、類人館(琉球人)展示事件100周年を巡る勉強会(討論会)に出席し、交流をはかったりして今日に至っている。