2005年8月17日 

■ 幻の作家久志芙沙子さんは名古屋にいた ■

3作家久志芙沙子さんは

名古屋にいた

 愛知県に住みながら沖縄に関心を抱き、沖縄を考え語ろうとする場合、情報量は、在沖縄には比べようも無く少ない。本土でも、東京や大阪よりは少ない。そこで、私の守備範囲を愛知県とその周辺で沖縄に関係すること、に限定した。そこには、私でしかできないことが少しはあるはずだ。

手はじめに江戸時代の「琉球使節」を調べた。その過程で、幻の作家久志芙沙子が名古屋の近郊にいる(この時点では生存としているとして)ことを知った。(注:『沖縄・ヤマト人物往来録』)

 2001年3月、高嶺朝誠氏(詩人高良勉)に手紙で、関係する資料を頂きたい、旨をお願いした。5月末、高嶺氏を訪ね、@「滅びゆく琉球女の手記」 A沖縄大百貨辞典の久志項目 B宮城公子著 「英文資料」の3点と、宮城公子氏の勤め先の住所を教えてもらった。

 「滅びゆく琉球女の手記」は、凄い未完の「小説」であることがわかった。

 宮城公子氏に久志芙沙子を調べたい意図を伝えた。数日後、宮城公子氏から電話があり、名古屋市の関係する住所・電話番号を伝えてきた。

 早速、名古屋市中川区戸田の坂野光氏宛に手紙を差し出した。しかし、手紙は戻ってきた。豊田市立図書館の電話帖で調べてみたが、坂野光はなかった。また、中川区戸田に坂野姓はなかった。ここで諦めるのもしゃくなので次の手をうった。

 たまたま、私の次女がある公的行政機関に勤めていたので、調査を依頼した。彼女が中川区役所に電話で問い合わせたところ、その住所で坂野光は「生きている」とのこと。

 7月初旬、現地に出かけた。周辺を歩きまわり、ようやく「陣屋」という喫茶店で、消息を聞くことができた。坂野光は、「ばんの あきら」で開業医、すでにお亡くなりになっており、長男も医師であったが、亡くなり、お尋ねの奥様もお亡くなりになった、と。連絡先は、岐阜県と住所とお名前を教えていただいた。この時、偶然、「解脱会」という宗教を信仰していた、を聞いた。

この「解脱会」を聞いていなかったら、調査の進展はなかった。

 岐阜県の次男B氏(医師)に手紙をさしあげ、電話をかけた。B氏からは、「断り」の厳しいお言葉が戻ってきた。粘ったが、「こどもが親のことを話すべきでない」とにべもない。

 ここまでか、と思ったが、あれだけ凄い未完の小説を書いた人だから、と諦めきれない思いが勝った。そこで「解脱会」を調べることにした。

「解脱会」の存在は、30年ほど前から偶然にも知っていた。そこで、インターネットで「解脱会」を検索した。 ハワイから関東の組織、そして名古屋の組織に行き着いた。そして名古屋の住所に電話を入れた。

また、30年前に「解脱会」の存在を教えてくれた南知多町のS君にも電話を入れた。

そして、「解脱会太閤通支部」のK夫妻にお会いすることができ、急転直下、関係者の住所とお名前などがわかった。

早速、親族の方々へ関係資料とともに「久志芙沙子」の業績と沖縄にとって大切な存在であることを訴えた。

長女のIさんと連絡がとれ、8月15日、名鉄グランドホテル喫茶室でお会いした。

Iさんは、


@ が小説を書いていたことは知っいたが、そんなに凄い小説だとは知らなかった。

A 母の生原稿(コクヨ400字詰め原稿用

紙)を所持しており、見せて下さった。遺稿集『一期一会』は、母の生原稿どうりでなく、改竄されている。

B 父親違いの兄(安良城勝也氏)がいるこ

とは知っていたが、どのような方なのかは知らなかった。

  C 母は「久志家の位牌」を所持していたが、

死後、父が名古屋市千種区の日泰寺で焼却した。

  D 沖縄の興信所に依頼して母の親戚のこ

とを調べた。

などを語った。

その後、沖縄での研究資料などを入手したが、わたしの調査もこれまでか、と思っていた。2001年秋、長女のIさんから直木賞作家連城三紀彦氏を紹介していただき、連城氏が愛知沖縄県人会連合会機関紙(第15号)に「久志芙沙子さんの思い出」を書いてくださった。

その後、わたしの調査もここまでとして、資料のすべてを沖縄の研究者に引き渡すことにした。

2003年5月、沖縄那覇市の那覇都ホテルのロビーで由井晶子さん、 宮城公子さん、屋嘉比収さんらにお会いして資料の全てをお渡しした。しかし、その後、沖縄の研究者による調査は中断してしまったようだった。

2004年6月、早稲田大学法学部教授の勝方(稲福)恵子先生からお手紙をいただいた。由井さんの紹介、「久志関係資料」を閲覧したい、と。私は、全ての資料をお送りした。

その後、勝方先生の精力的調査により、久志芙沙子研究はそのほぼ全容が明らかになった。

勝方先生と連城三紀彦氏との対面は、一度目は、2004年7月、名古屋大須演芸場の前であった。夜9時過ぎであったので、話合う場所が見つからず挨拶のみで、 「明日、名古屋駅西の名鉄グランドホテルでお会いする」ことを決めた。二度目、名鉄グランドホテル5階の喫茶店であった。3時間近く、勝方先生が録音器をテーブルの上に置いて「久志芙沙子について」連城氏にお聞きした。

三度目は、名古屋市千種区の勝方先生の夫(全国紙の役員)宅で3時間近く。

その後、勝方先生は坂野興氏、安良城勝也氏にお会いして、久志芙沙子が安良城に嫁いだ経緯や台湾時代につくった詩、離婚の経緯等について詳細に聞き出すことに成功した。

安良城勝也氏は、現在の名古屋工業大学卒、日刊工業新聞記者、パソコンソフトの教科書をも出筆している方で、絵画や詩なども手がける方であった。

今後、勝方先生らのご尽力によって、久志芙沙子作品−昭和6年から7年にかけて『婦人公論』に掲載したエッセと小説の背景が明らかとなり、研究・解釈もより正確に、かつ濃いものになるだろう。

2005年1月、坂野興氏からメールをいただいた。メールには、1月23日、坂野興氏は異父兄の安良城勝也氏とお会いすることになり、胸がたかまる思い、と伝えてきた。

知らせを受けたわたしも、感無量のものがあった。久志芙沙子調査は、途中から「黒子」に徹することにしたが、ようやくここまで来たのだ、坂野興氏も安良城勝也氏も大人なので、この出会いについて、喜びこそすれ、迷惑がられることはないだろう。

そして、わたしは、坂野興氏と1月29日(土)午前10時、日進市米野木のログハウスでお会いした。

坂野ご夫妻は、安良城勝也さんにお会いできたことを大変喜んでいた。

この切っ掛けを直接つくったのは勝方先生であったが、それを勧めたのは私だったので、黒子として嬉かった。

2005年5月、坂野興氏は、『母と子の手記―片隅の悲哀』を私家本として出版した。右開きには、久志芙沙子作品。左開きには、「崩れ行く日本公僕の手記」が掲載されていた。


○ 安良城勝也氏のホームページについても触れておきたい。

閑古鳥幻聴というペンネームで、すべて創作、としてあるが、すべて真実と解釈したい。

1941年、中国大連、中学1年生が母親、出生、性、人生、許し、天国‥、と詩を綴るように文字が並び、宗教壁画のような女性像が描かれている。

母親に捨てられたという重い思い、トラウマとなったまま大人に。

そして、再会。


許しを求める母親。

許さずに去ったことへの後悔、自虐。

そして、許しへ。


○ 久志芙沙子研究図(私案)

 次の久志芙沙子研究図は、私が無い知恵を絞って、勝手に、描いたものです。

 この図を作成後、勝方先生から「久志芙沙子」年表  『沖縄学』第8号 をいただいた。

 この年表によって、久志芙沙子は、「幻」のベールをとった。

 この研究図のゼロ点のところに、小柄だが、大きく見える琉球のハンシーがドーンと座っていて、そこにいるだけで人々を安心させる、そんなことを感じた。
 
○ 手紙

005-5-25

勝方 恵子 先生

2002年4月から始めた久志芙沙子さん捜しの私の「楽しい旅」は、2005年5月、坂野興さんの『母と子の手記―片隅の悲哀』出版をもって、完了いたしました。

坂野興編著『母と子の手記―片隅の悲哀』を手にとり、最初に久志作品を通して読み、その後、興さん作品を読みました。

防衛庁というベール(私の偏見にみちた)を取り除くと、そこにあるものは、久志芙沙子さんのすぐれた「作品」(失礼ですが・人物)そのものではないか、と思いました。久志芙沙子さんが残したものの大きさ、に驚いています。

〈母と子の手記―片隅の悲哀〉の題名を眺めながら、「片隅の悲哀」を蘇らせたことにより、ようやく久志芙沙子さんは成仏できたのではないか、と宗教心のまったく無い(欠けている)私は勝手に空想しております。

今ひとつ、久志芙沙子さんを軸にして「弥次郎兵衛」のように存在している安良城勝也さんのURL「大連 1940年」、をどのように考えたらよいのか。

私の想像を遥かに超える、未知の世界のような気もしますが、お月様のような、手にとることはできないが、近しい存在のような気もします。

「大連―1940年」は、勝也少年の原風景(1930年ころから始まって)、現在、未来をも鳥瞰図のように描いています。その全体の流れの中に、母親(久志芙沙子)その人が存在し続けているように、思います。 将来、「小説・久志芙沙子」をどなたかがお書きになることでしょう。

そのための資料収集、今なら「弥次郎兵衛」が巨人のように存在しているので、かなり収集が可能だな、とどなたかに期待しています。

            敬 具

                    渡久地 政司

2012-5-10 追加掲載

琉球新報から転載

確認する芙沙子の三男・坂野さん(左)=24日、那覇市金城の市教委文化財課小禄収蔵庫

2007-4-25

 1932年の「婦人公論」に「滅びゆく琉球女の手記」を書いた作家の久志芙沙子(1903―86年)の父や祖父など久志家の遺骨を収めた厨子甕(ずしがめ)が、那覇市教育委員会収蔵庫に保管されていることが24日までに分かった。沖縄史研究者の仲村顕(あきら)さん(33)=那覇市=が当時の新聞などを手掛かりにルーツを調べ、那覇市の銘苅古墓群の中に久志家の墓があったことを突き止めた。「幻の作家」とも呼ばれた芙沙子の出自が分かり、仲村さんは「久志家が文筆家の家系だと分かった。久志芙沙子から広がり、父や祖父など研究対象が広がる可能性がある」と話している。   芙沙子の三男・坂野興さん(61)と妻・祥子さん(57)=東京=が24日に来県し、那覇市金城の市教委文化財課小禄収蔵庫で久志家の遺骨や厨子甕、墓の中の収蔵品を確認した。坂野さんは「母は沖縄をほとんど語らなかったし、わたしは墓の場所も知らなかったが、一人娘の母は気掛かりだったようだ。これで母の肩の荷も下りるのでは」と話し、祖先の遺骨に手を合わせた。  仲村さんの調べによると、芙沙子の父は久志助保(?―1915年)、祖父は久志助法(1835―1900年)でいずれも漢詩人。助法は「顧国柱(ここくちゅう)詩稿」などを書き、漢詩人の森槐南(もりかいなん)とも交流があった。また、琉球王国の評定所で中国や日本への文書を作成する「筆者主取」を廃藩置県(1879年)まで務めた最後の人。那覇市歴史博物館収蔵の尚家関係資料に助法直筆文書が残る。  仲村さんは「久志」の二文字を手掛かりに、新聞の死亡広告や芙沙子関連の雑誌記事、公開された尚家の資料などから助保が父、助法が祖父だと突き止めた。仲村さんは「墓のあった銘苅庁舎敷地内に久志家の碑を建てるなど後世への伝え方を考えてもいいのではないか」と提案した。芙沙子を研究している早大アジア研究機構「琉球・沖縄研究所」所長の勝方=稲福恵子さんは「ひもとくほどに面白いエピソードが出てくる女性。今後発掘が進むのを期待している」と話した。