2005年8月17日
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V 愛知の中の沖縄
2 琉球使節の足跡を辿って
○. 東京沖縄県人会発行資料に「琉球使節探歩」があった。その中の表に、草津市 渡久地ペーチン(死亡)の記事があった。
初見であったので気になり、1998年11月、滋賀県草津市を訪問、街道文化情報センターで使節関係資料のコピーをいただき、渡久地ペーチン縁の正定寺を尋ねた。寺には事前に手紙を出しておいたので、調査の趣旨を理解してくださり、寺宝ともいえる過去帖を見せて下さった。関係する年代の項には付箋がはさんであった。この点を住職にお聞きしたところ、以前、電話での問い合わせがあった、と言っていた。
そこに渡久地ペーチンの記録があったので写真を撮った。
(明治二十六年三月国元親族来テ改葬ス)
實相院真空如圓居士 十二月二十八日
右者琉球國ヨリ江戸表参府カヘリ當驛ニ而死
御本陣田中久蔵殿ヨリ
申来本堂ニ耐導師老(主)
人四役ナリニ八日夜九ツ時なり琉人三人家中八人見送リニ来タ
○ その写真を沖縄の親戚(渡久地澄子さん)に送って調査を依頼した。
渡久地澄子さんが那覇市史編纂室の職員にお聞きしたところ、「ペーチンならば、渡久地朝○となるだろう」とのことであった。そこで電話帳で渡久地朝○を調べてみたところ、渡久地朝明さん(那覇市首里寒川町)があったので写真を添えて手紙をさしあげた。渡久地朝明さん(2004年、沖縄国際大学学長に就任)からお手紙をいただいた。次に全文を掲載する。
お手紙ありがとうございました。お陰さまで私の家の系図の不明のところがはっきりいたしました。ですが、お尋ねの方の名前は残念ながらお知らせできません。わからないのです。時代および背景を勘案しますと、客死したお方は、恐らく私の祖父の祖父の父にあたるお人だと想います。向氏渡久地家は王室の分家(仲里按司家)の分家で、代々本部渡久地の地頭の家でありました。仲里家から分家して時代があまり経っていないこともありますが、まことに親類縁者の少ない家で、私の家を含めて三系統しかなく、それも密接な関係を維持して暮らしてきたため見知らぬ縁者は一人もいないのであります。ですから、見当をつける範囲は狭いのですが、先祖一人一人の正式な名前は、戦争で系図を喪失したために、嫡子家しか残っていません。私の家は本部渡久地地頭で小なりといえども領主であって、首里王府の役人ではなかったはずです。ですから、江戸表への出仕の役目となると私の家でしょう。もう一つの系統は早い時期に恩納村太田に入植して土地の有力者の道を歩んだので、首里王府とは関係ないのです。さて、それから推理なのですが、まず、私の祖父の祖父(朝□親雲上一字不祥、ヤマーという沖縄幼名はあったようですが)は、薩摩島津斉彬公が急逝したために起こった島津藩の内紛「斉彬崩れ」が琉球におよんで勃発した政変「牧志・恩河事件」に関わって安政6年(西暦1859年)政敵伊江王子一派によって処刑されました(享年30歳)。嘉永3年(西暦1850年)に渡久地親雲上が客死したのであれば、恐らく私の祖父の祖父はその父の死によって身分を嗣いだものと想像されます。そして父の客死後9年の後に政変に巻き込まれて彼もまた不慮の死をとげたものと思われます。首里王府の役人は政変の起こるたびに破れた方は処刑、八重山への流刑、と相場が決まっていたようです。
以下省略――
○ 元毎日新聞社の辣腕事件記者椎屋紀芳さんと壬申の乱のコースを探歩していて、滋賀県米原町醒井の「醒井宿資料館」を覗いたとき、そこに「琉球使節資料」が展示してあった。そこで館長さんに「@この外にも資料はないか、また、A沖縄からこれらの資料を調べに来た人がいたか」の2点についてお聞きした。
2001年10月25日、米原町教育委員会へ椎屋紀芳さんと阪井貴芳さん(名古屋市立大学助教授)の3名で「琉球使節資料調査」探歩に出かけた。そこで沖縄にまだ知られていない資料19点が阪井先生によって確認された。資料は、「琉球使節」と直接関係あるものではなかったが、「琉球使節」の宿泊関係や街道交通費用などを記載したものであった。真冬の関ケ原渓谷をどのように通過したのかを知るうえで極めて貴重なものであった。これらの資料については、数年のうちに阪井先生の研究として発表されるだろう。
ところで、現在でも真冬の関ケ原渓谷の積雪は1メートルを超す。ここをどのように通過したのだろうか、を米原資料館でお聞きした。
この街道は「官道」、即ち1級国道だった。真冬でも通過できるように、除雪が義務付けられていた、と。
○ 2002年11月17日、琉球使節関係資料が大垣市にもあるという噂を聞いたので、元毎日新聞社の記者椎屋紀芳さんに紹介していただいて大垣市文化事業団に調査を依頼して出かけた。大垣城代家老の日記を丹念に調べて、関係資料が2点あることがわかった。その資料は次のとおり。
大垣藩御城代日記書抜帳より
◎ 享保五子(1718年)
一つ 四三(4月3日)琉球人往来の人馬割
腑金辻甚太郎殿へ御使者以って之使
高拾万石三千五拾三石墨俣助郷引く残り役高九万六千九百拾七石
此金百六匁 銀拾文八分八厘
◎ 延亨五年 寛延と改元(西暦1748年)
一つ 閏十二拾四(10月14日)
琉球人参府に付き江州濃州人馬御用青木次郎九郎殿申し渡し
ここからわかることは、琉球使節一行の旅費は、幕府負担であったが、財政が逼迫していた幕府は、負担金を滞納していた。このため周辺の藩は、やり繰りに苦労した。また、旅費が幕府負担としても、琉球側も、献上品をお土産、装束等で莫大な支出となった。
琉球使節一行は、大垣藩の北側の中仙道を通って、木曾川の起(おこし)で川を船渡橋で渡り、尾張の領内へ。稲葉宿を経て名古屋・熱田に至る。旧暦12月から2月までの間、大雪にも見舞われたことだろう。
先に書いた渡久地ペーチンは、旧暦1850年12月、ここを通過して多分関ケ原峡谷を抜けたところで死亡した。
○ 愛知県下の江戸時代の宿場を東から記す。二川、吉田(豊橋)、御油、赤坂、本宿、岡崎、知立、鳴海、熱田、稲葉。このうち宿泊が確認されているのは、吉田、岡崎、鳴海、熱田、稲葉で他は休憩。
琉球使節関係資料が保管されているのは、二川(豊橋)、岡崎郷土館(岡崎市)、岩瀬文庫(西尾市)、徳川美術館(名古屋市)。
○ 二川では、2001年、東海道400年祭で特別展示がなされた。
二川宿本陣資料館には、次の琉球関係資料がある。
二川宿本陣宿帳
琉球人上下通行人馬書…
琉球人参府ニ付本陣脇本陣…
琉球人通行ニ付…
琉球人御手当…
扇面五言絶句 嵩原里之子筆
扇面五言絶句 小禄里之子筆
書面五言ニ句 豊見城里之子筆
○ 岡崎市郷土館には、志賀重昂(しげたか・地理学者)が収集した首里城の壁額のホンモノがある。このレプリカが現在、首里城の正面からみて右側(出口になっている)の建物に掲げられてある。このホンモノの扁額を取材し、その記事を愛知沖縄県人会連合会の会報に掲載した。
その記事抜粋は次のとおり。
首里城の扁額があることを知り出かけた。岡崎市学芸員の話によれば、首里城が復元された時期、沖縄県に貸出された、とのことなので沖縄側の調査・研究は終わっているだろう。
首里城に掛けてあった扁額を岡崎市が収蔵した経緯は、岡崎市出身の世界的地理学者
志賀重昂の遺族からの寄贈によるものであるが、志賀氏が収集した過程は不明。
内容は、
4文字が大書され
高?延薫
小文字で次のように
北宮為中山王開宴之所?弦
間奏殿角澂?蓋状
?
皇上阜觧之呼風太和之
聲不覚流於音楽伝
長白全魁題並跋
○ 西尾市亀沢480の岩瀬文庫(0563-56-2459)には、次の琉球使節資料がある。
中山伝信録
南島誌
琉球人大行列記
明和来朝琉球人行粧記
琉球恩謝使略
琉球調度図誌全
琉球人入貢記略
張州雑志巻25
○ 名古屋市古屋市東区徳川町の「徳川美術館」(名古屋市蓬左文庫)には、優れた琉球美術品がある。特に楽器類が優れている。
○ 名古屋市緑区鳴海町瑞泉寺には、1832年富山親雲上のお墓がある。また、ここには、梁文弼の書も残っている。
○ 名古屋市熱田区の海国寺には、1748年の使讃渡嘉敷親雲上真富が葬られている。
これらを発掘したのは、故佐渡山安治(当時名古屋市千種区在住)であることを忘れてはいけない。
その経緯を知るには、佐渡山安治の署名入り記事が参考となる。
いずれも沖縄タイムス紙
51-3-13 琉球塚
51-3-28 寛延2年の墓碑
52-8-14 蘇った琉人塚
52-8-18 雅懐
52-1129 伊波普猷の慷慨
新聞の切抜きを私が所有しているので、必要な方には、コピーをさしあげます。