2005年8月17日 

■ 琉球民謡レコード盤の出自を求めて ■

V 愛知の中の沖縄

1 琉球民謡レコード盤の出自を求めて

 〈はじめのはじめに〉

2000年9月、私は、昭和初期の琉球民謡レコード盤が発見された(1993年)原点に戻り、そこから調査を初めからやり直すことにした。商習慣として秘守されている古書店には、発見者の二反田武治氏が説得にあたった。古書店主も事の重大さをご理解くださって、レコード出自の方を説得、そして了解が得られた。私は、レコード出自の店主婦人にお会いして「なぜ長野県松本市にあったのか」の経緯をお聞きした。名前や具体的なことは一切公表しない、ということをお約束して、次のことをお聞きすることが出来た。

昭和10年前後、長野県松本市から沖縄県に赴任していた蚕糸指導者(先代)が、帰郷にあたり記念品として琉球民謡レコード盤を購入、持ち帰った、と。

「琉球民謡レコード盤の出自を求めて」、の結果は、あっけらかんとした結末となったが、調査過程で多くの貴重な発見があったし、 意外な展開もあった。以下、ロマンとしてお読みいただければありがたい。


  〈はじまり〉

1993年正月、長野県松本市の松南高校教師の二反田武治君(愛知大学時代の親友で、学園祭で一緒に“沖縄展”を開いた)から年賀状が届き、そこには「戦前の琉球民謡のレコード盤9枚入手しました」と書いてあった。

私はすぐ二反田君に電話した。

「渡久地君と“沖縄展”を開いたことを思い出し、戦前のSPレコード盤を買いました。それが古本屋でした」と。

「どのような物か知りたいので、資料とテープを送ってほしい」。

1月12日、録音テープと「ツル印琉球レコード盤」の写真、「琉球音譜目録」、 レコードを製作した「(株)アサヒ蓄音器商会」(この会社は、大正9年から5ケ年間名古屋にあった)の資料が送られてきた。

1月14日、これらの資料を持って「関西沖縄文庫」(主宰 金城馨)に出かけた。


〈大阪での発見〉

「関西沖縄文庫」で10余人にこのテープを聞いてもらい、この種のレコード盤は特別に珍しいものではなく、沖縄にはたくさん存在しているかどうか、などをお聞きした。

祖賢学君が、沖縄民謡の歴史と資料をきちんと調べていて、南風原(はえばる)文化センターにアメリカから里帰りした琉球民謡のレコード盤が30枚ある、とした同文化センター発行の「昭和初期のレコード目録」と91年7月11日、91年8月1日の「沖縄タイムス」紙の記録を見せて下さった。

南風原文化センターに30枚もあるならば、松本にある9枚もかなり重複しているだろう、と気落ちした。

豊田市に帰り、南風原文化センター目録と松本市にある目録とを精査した。

驚いた!1枚重複しているだけで8枚が新発見であった。


〈沖縄タイムス 由井編集長に伝える〉

8枚は新発見にまず間違いないだろう、としてテープと資料を沖縄タイムス社の由井編集長にお送りした。

由井編集長から、テープと資料を学芸部の真久田功記者に渡し、取材を東京支社に伝えた、と電話と速達ハガキがきた。


〈3月13日、松本市へ〉

二反田武治君とは30余年ぶりの再会であった。彼は高校の教師なので、先生と呼ぶべきかもしれないが、双方とも昔どおり“君呼び”でのまったく楽しい再会であった。

レコード盤と資料は、わたしが預かり、沖縄県南風原文化センターに、“長野県南安曇郡穗高町牧 二反田武治寄贈”としてわたしが届けることを決めた。

「どうして長野県松本市に、琉球民謡のレコード盤があったのか、を調べてみたいので、その古本屋に連れて行ってほしい」と。

二反田君の案内で、慶林堂書店(長野県松本市中央2丁目2-15/山本初夫店主)を訪問した。


〈奇跡的に救われたレコード盤〉

わたしは、山本店主に聞いた。「あなたがお売りになった琉球民謡のレコード盤は、戦災にあった沖縄にとって大変貴重なものです。入手先を知りたくて愛知県豊田市からまいりました」と。

「そのようなレコード盤でしたか。わたしどもにとっても大変うれしい知らせです。ただ申し訳ありませんが、個人のプライバシーと古物商業界の慣習として、どこから出たものか、お名前をお教えできないのです。ただ、お名前はお教えできませんが、あのレコード盤は、古物市場からのものではありません。松本市内の旧家が古くなった家を取り壊すにあたり、古本を取に来てください、の要請をうけて、わたしが直接出かけました。古本と一緒に古いレコード盤がありました。クラッシックや日本民謡が主で、その中にあの琉球民謡のレコード盤もありました。

クラシックと日本民謡のレコード盤は店頭に出しましたが、琉球民謡は倉庫に置いておきました。信州大学の先生に「琉球民謡のレコード盤がある」とお知らせしたことがありましたが、先生は反応を示しませんでした。売れない物を所有していては、たまるばかりですので処分するつもりでした。そんな頃に二反田先生が店頭のSPレコードを手に取りながら、「この他にもありますか」とお聞きになられたので、倉庫から琉球民謡のレコード盤を持ってきてお見せしますと、二反田先生はすぐにお買い求め下さいました」と。

わたしは、これまでだな、思いながら言った。「ありがとうございました。これはわたしの推理ですが、この琉球民謡レコード盤は、大正末期から昭和のはじめにかけて、長野県岡谷のお蚕さんの製糸工場に沖縄から100余人の沖縄の女工が来ております。どうして長野県松本市なのか、とわたしが考えるに、製糸女工をなぐさめるために…」とまで言うのを遮るように山本店主が言った。「そうですか、あのレコード盤があった旧家は、蚕糸(さんし)とかかわりのある家でした」と。

わたしの背筋に電流が走った。


〈消えた沖縄女工〉

少し脱線した話をする。

『消えた沖縄女工』下嶋哲朗著(未来社)がある。7〜8年前に、わたしは読み、多くの沖縄の友人にこの本を読むことを薦めた。貸した本が行方不明になると、沖縄に出かける度に購入して帰る。

亡き母も、かくあったであろうと思えるだけでなく、沖縄のオバーたちをよくここまで調べ、書いて下さったと著者に感謝したい。


書き出しは、このようになっている。


1924(大正13年)年の春、21人の少女たちが1枚の記念写真を、長野県の平野村(現在の岡谷市)に残した。少女たちは全員、沖縄の出身だった。


そして同書58ページに、沖縄からの製糸女工の人数が記載されている。


大正14年    21人
大正15年    19人
昭和2年     10人
昭和3年     12人
昭和4年     30人
昭和5年     23人
昭和6年     11人

126人の沖縄の製糸女工が長野県岡谷市で働いていたのだ。

〈松本市にあるべくしてあった〉

いま、わたしの手元にある琉球民謡レコード盤は、長野県松本市にあるべくしてあったのだ。ほぼ間違いなく製糸工場の経営者が、沖縄からの女工をなぐさめるために購入したのだろう。なぜなら、大正から昭和初頭のレコード1枚の価格は、1993年、今の価格の重さにすれば、1枚2万円くらいになるからだ。高価で貴重だったのだ。

〈奇跡を大切にしたい〉

30数年前、二反田君とわたしたちが、“沖縄展”を開催していなかったら、二反田君の頭の中に“沖縄”はなかっただろう。長野県松本市の古書店・慶林堂の店主に、二反田君が「この他にSPレコードがありますか」と聞かなかったら、廃棄処分されていただろう。下嶋哲朗氏が、『消えた沖縄女工』を上梓していなかったら、わたしは「どうして松本市にあったのだろう」と疑問を抱いていても、それ以上に調べなかっただろう。勿論、わたしがこの名著を読んでいなかったら、も含まれるが。

そして、このレコード盤は、通常古物商の世界に渡るものだが、偶然に古本屋さんの慶林堂・山本初夫さんが直接入手して下さったことが幸いした。

この奇跡のかずかずを大切にしたい。


〈沖縄県南風原文化センター〉

この琉球民謡レコード盤をどこに寄贈したらよいかを沖縄タイムス社の由井編集長にお聞きしたところ、「いま30枚ある南風原文化センターが一番よいと思います」とご教示下さった。

わたしは、4月10日(土)、この貴重なレコード盤を持参して名古屋空港を飛び立つ。その日のうちに、南風原文化センターにお届けし、慶林堂・山本初夫店主のレコード盤出自話と二反田武治先生のご好意により寄贈されることを伝える。


〈残された疑問〉

この琉球民謡レコード盤を製作した株式会社アサヒ蓄音器商会は“ツル印レコード”として大正9年ころから5ケ年間くらい愛知県名古屋市にあった会社だ。

どうして名古屋市の会社が、琉球民謡レコード盤を製作したのかがまずわからない。

名古屋市のどこで、誰が製作したのか。それも驚くべきことに、100枚もの琉球民謡レコード盤を、録音機もない時代に、どのようにして製作したのだろうか。

これらのレコード盤を捜すことにロマンとしてかかわりたい。

1993年3月21日

その後、琉球民謡レコード盤出自をめぐるロマンは、予想外の展開となつた。

〈広がる展開〉

3月27日、沖縄県大阪事務所名古屋支所長金城勲氏の転勤・送別会が名古屋市の沖縄料理店「守礼門」で開かれた。午後9時30分過ぎ、お開きとなり二次会となった。そこに“喜納昌吉とチャンプルーズ”のメンバーの喜納昌弘さんと指導者岡田哲扶さんが入ってきた。案内をしてきたのは、愛知琉球エイサー太鼓連会長の仲宗根昇君(エイサーの本場沖縄市登川出身)であった。“喜納昌吉とチャンプルーズ”は、3月28日、名古屋市の民間身体障害者組織の「わっぱ共同作業所」開設20周年のイベントに参加するために来名していた。このイベントに、アマチアではあるが20年近く愛知県で沖縄エイサーを持続している「愛知琉球エイサー太鼓連」がジョイントすることとなり、その打ち合わせ後、仲宗根会長がお連れしてきたのであった。

わたしは、喜納昌弘さんに小冊子「昭和初期の『琉球民謡レコード盤』の出自を求めて」をお渡しした。喜納昌弘さんは、さても不思議な話が書いてあるなー、という顔つきをしながら、「このテープいただけませんか」と。

翌日、ダビングして、名古屋市のイベント会場の名古屋市公会堂に持参した。

出演前のやや余裕のある時間帯が幸いした。

喜納昌吉さんとその仲間たちは、テープを聴きながら、やや興奮気味であった。わたしの小冊子を読んでいる人も、「へー、こんなことがー」という表情をあらわにした。

中でも喜納昌吉さんが一番興奮していた。


―大正末(実は昭和初期)に、こんなに多くの琉球民謡のレコード盤が製作されていたなんて、はじめて知ったよ。

―この目録に出ている歌い手さん、みんなわたしにはわかりません。こんなことがあるのですか。

―今、沖縄では、琉球民謡の曲の元祖について、各派が主張し合っています。この目録が本当なら、沖縄の民謡界が根底からひっくりかえってしまいます。

―いや、いや、名古屋に来て、何か大もうけした感じがしますよ。


そばにいた女性がいった。

―このテープをお父さんが聴いたら喜ぶわ。

メンバーの中心的男性が、鳩間節の入り方について、テープを2〜3回もどしながら、口三味線をしながら、「うん、これがホンモノか」と。

テープと「琉球民謡レコード盤」の目録について、今後とも調査し、双方で情報の交換をすることを約束した。

〈“昭和5年”について〉

翌3月29日、これはえらいことになりそうだな、と思いつつ、気になることを調べることにした。

以前、豊田民踊同好会の港川繁会長にもテープをダビングしてお渡ししてあった。

港川会長が、「テープを聴いていたら、“昭和5年”ということを言っていますよ」、と。

「えっ」と思いつつ、喜納昌吉さんに聴いてもらった時、このエピソードを言うと、喜納さんも“昭和5年”と言っています、と。

喜劇 “新発明節(汗水節)”の会話に“昭和5年”の言葉が出て来た。

家に戻り、大切にしまってある紙袋からセピア色になったホンモノの紙を取り出し、“新発明節(汗水節)”を捜した。

印刷文字にはなく、欄外に人の書いた文字で、“新発明節(汗水節)”が記入されていた。

活字になっていないのだ。

わたしはすぐに長野県松本市の二反田君に電話した。文字の記入者は二反田君であった。

“新発明節(汗水節)”昭和5年以降のものだ。そして今、わたしの手元にある「琉球民謡音譜目録」には、記載されていないのだ。記載されていないことは、「琉球民謡音譜目録」が昭和5年以前のものだ、と言うことを意味しないだろうか。


〈「琉球民謡音譜目録」〉

「琉球民謡音譜目録」は、大きく2分類できる。1、「既発新譜」

2、「新譜目録」

既発とは、既に発売してある、の意味。気になったのは、新譜なら「旧譜」があるのだろうか、で考えこんだが、「旧譜」は「既発」であることに気づく。


1、「既発新譜」は次のように分類できた。

◎ 丙寅冠船標準組踊節組レコード 

  6枚

◎ 古典劇組踊  

          3枚

◎ 手水の緑 

            8枚

◎その他         42枚

2、「新譜目録」      32枚

何と、合計91枚なのだ。

ツル印の琉球民謡のレコード盤が、91枚発売されており、1枚に2〜4曲が録音されているとなれば、200曲以上の琉球民謡が昭和5年以前にレコード化していたことを意味しないだろうか。

さて、先の〈“昭和5年”について〉で説明した目録にないツル印のレコード盤のバックナンバーには、沖縄喜劇 新発明節(汗水節)がある。琉球でなく、沖縄となっている。だが、ここから琉球が古く、沖縄が新しい、とするには、根拠が薄すぎる。確証はできないが、傍証みたいなものを捜してみる。

@ ツル印レコードを製作した「アサヒ蓄

音器株式会社」は大正9年から5ケ年間、名古屋市に存在していた。(注:『歌謡なんでも事典』「ほるぷ歌謡100年」に記述あり)なぜ東京や大阪でなく名古屋なのか、については詳細については後述するが、関東大震災後、NHKラジオ放送が開始され、全国に先駆けて、名古屋(CK)が高性能の電気録音器を設置したことに関係する。これだけでは、「既発」が大正時代とする根拠にはならない。

A 「既発」目録に、歌手に當眞嗣勝がい

る。後日分かったことであるが、當眞嗣勝は、大正から昭和にかけて、大阪で消防署に勤めながら琉球古典音楽の担い手として活躍、昭和3年(1928年)頃、泡瀬(現在沖縄市)に引き上げている、と當眞嗣勝の長男當眞哲雄(当時沖縄市教育長)氏談として沖縄タイムスが報道している(月日不明)。昭和元年と2年は大正天皇の「喪中」であり、 3年は、昭和天皇の「御大典」としての祝いが全国的におきた。

ここから推理すれば、「既発」はバックナ ンバー49までは、昭和3年以前と決めてよいと思う。

わたしの手元にあるセピア色した音譜印刷物は、新譜レコード盤をまず記載し、既発売を載せているのではないだろうか。そして、この目録に活字になっていないレコード盤”新発明節(汗水節)”が昭和5年以降としても問題はない。

今回、長野県松本市で発見されたレコード盤の時代を推定するならば、既発売が昭和3年以前2枚、新譜発売はそれ以降5枚となり、昭和5年以降が1枚。計9枚であった。


〈ツル印レコード会社が判明〉

 作家の内海隆一郎さんの作品と登場人物に沖縄出身の古物商屋良朝正さんがいる。屋良朝正さんが朝早く古物市場で店を開いていると、毎朝のごとくSPレコードを探し求めている日本最多のSPレコード収集家の前沢健哉さん(埼玉県草加市)がいた。前沢さんの収集したSPレコード盤は2万枚以上、その量はまさに日本一、NHKが借りにくるくらいだ。屋良朝正さんが前沢さんを紹介してくれた。その前沢さんから電話、結論だけを書く。

―アサヒ蓄音器株式会社(ツル印レコード盤)の設立は、大正14年6月6日、資本金12万円で名古屋市東区大曽根大坪320番地であった。

 わたしは思わず叫んだ。「エェー、資本金12万円ですか、大会社ではありませんか」と。

 四方八方に調査依頼を出している。わたしが知りえた情報のすべてを公開すれば、オープンマインド(開かれた心)でお願いすれば、際限なく調査してくれる人がいるはずだ。

 これからも新しい発見が、歴史の暗闇の中から白日の下に蘇ってくるにちがいない。

1993年4月5日

〈南風原文化センター〉

 1993年4月10日、南西航空で名古屋空港を出発、琉球民謡レコード盤は、荷物預けにせずに旅行カバンにいれ機内持ち込みとした。 万一、墜落でもしたら貴重なレコード盤が消滅するな、とふとそんなことを思う。

 那覇空港には、南風原町立南風原文化センター館長の大城和喜さんらが出迎えて下さっていた。直接、同文化センターへ。金城義夫南風原町長、野原廣亀先生(南風原町文化財保護委員長・元高校教諭)や津嘉山朝祥先生(北立小学校長)、安慶田剛先生(南風原小学校教頭)、ら教育界の方々、マスコミでは、沖縄テレビ、 沖縄タイムス、琉球新報の記者立会いでレコード盤の贈呈式とこのレコードを聴く会が開かれた。

 戦前、南米ブラジルに移民した沖縄出身者が持参した蓄音器が、里帰りして同文化センターに寄贈してあった。その蓄音器で聴くのであった。私は、長野県松本市の二反田武治君が「SPレコード盤は消耗品なので、もし聴くならば性能のよいポータブル蓄音器を使用すべきだ」と言っていたのを思い出して、レコード盤がキズつくのではないか、とギクリとした。しかし、この儀式では、60年ぶりに音を発生させるのには、ふさわしい機器なので良いではないか、とも思った。野原廣亀先生が「踊り鶴間節」「踊りカナヨウ」を観賞した後、「カナヨウでは、現在の曲で(音程が)少し下がる箇所を上げて歌うところもある。琉球民謡は素朴な歌いだしや節回しが聴き所で、それが聴けるのは、今の民謡愛好者にとって大いに勉強になる」と語った。

 受渡しを終え、えも言われぬ安堵感がこんなに快いものだ、ということを55歳にして初めて味わうことができた。

 翌4月11日は沖縄では、祖先を祭る大切な清明節(シーミ)であった。今回の沖縄訪問では、今年85歳になる父政蔵さんと甥の政彰君も一緒であった。那覇市の識名霊園を参拝した後、父の生誕地の沖縄県国頭郡国頭村字伊地へ。そこでは従兄妹の女性が、「沖縄テレビでレコード盤の報道を観ましたよ」と知らせてくださった。


〈報道をまとめる〉

1993年4月から7月まで、報道されたことのまとめ。


 4月 8日 沖縄タイムス
   10日 沖縄テレビ
    琉球新報
   12日  沖縄タイムス
   20日  FM長野
   24日  共同通信長野支局
 5月 14日 沖縄タイムス
    19日 信濃毎日新聞
    26日 沖縄タイムス
    27日 沖縄タイムス
    28日 沖縄タイムス
 7月  2日 NHK沖縄
    15日 NHK沖縄


〈由井編集長からの電話〉

5月26日から27日まで沖縄タイムス学芸欄で3回にわたり私、大城和喜氏(南風原文化センター館長)、大城學氏(沖縄県教育庁文化課主任専門員)が「幻のレコード盤」について書いた。

 それを読んだ読者から由井晶子さん(沖縄タイムス編集長)に電話があった。


 −自分が第二次大戦の中国戦線で負傷し、長野県松本市の陸軍病院に入院していた大戦末期、そこの医師に沖縄出身の徳田先生がおり、自分が沖縄出身であることを知ると沖縄民謡のレコード盤で曲を聴かせてくれたー。

 この事を由井編集長は速達ハガキと電話で知らせてくださった。

 私は、「エェ、松本で…」と絶句した。

 沖縄女工を慰めてくれたレコード盤と決め付けていたことが間違っていたのか。一体、これは何を意味しているのだろうか。事実を調べてみなければならない。

 私はすぐに豊田市立図書館の全国電話帳コーナーにかけつけ松本市の電話帖をめくった。そして、徳田耳鼻咽喉科病院(松本市大手3-7-10)に電話をかけた。

「間違っていましたらお許しいただきたいのですが、先代のお医者様は、沖縄出身者ではありませんか」と。

やり取りは省き、結果のみ書く。

徳田安章東京医科歯科大学教授からお手

紙をいただいた。

 ―前略

 父の遺愛のSPレコード、書庫にあったもののリストをお送り申し上げます。

 お求めのツル印レコードではありませし、コロンビアですので、同社LP「琉球音楽総撰」にすべてのものが入っているのではないかと思われます。

 何れにしてもお約束致しましたので、リストをお送り申し上げます。


 徳田家にあったレコード盤は、ツル印レコード盤ではなかった。それにしても、同じ長野県松本市で、一つは昭和初年に沖縄女工を慰め、いま一つは、第二次大戦の負傷兵を慰めたとは!  私は、薄気味悪さを感じた。


<下嶋哲朗さんからのハガキ>

 名著『消えた沖縄女工』未来社の著者下嶋哲朗さんからおハガキをいただいた。

 ―前略

 興味深いニュースを届けていただき、ありがとうございました。「消えた沖縄女工」で探して歩くとき、岡谷で「沖縄から口入れ屋の具志堅という男が、沖縄から蓄音器とレコードを持ってきた」という話があり、なぜか記憶に残っておりました。これからレコードの運命を探索されるとのこと、成果を楽しみにしております。


〈信濃毎日新聞社〉

 信濃毎日新聞社の三村記者からお手紙をいただいた。


 先日は、こちらのお願いで急であったにもかかわらず、快くネガをお送りいただき、ありがとうございました。ネガをお返しするとともに、写真を掲載した新聞を同封させていただきます。

 一部長野県内の放送(FM長野)でも、信毎の記事を元に、ほぼ同内容のニュースを流しています。残念ながら、現時的では読者、聴取者からの新たな情報提供はありませんが、何か変化があれば渡久地さんか二反田さんに連絡したいと思っています。今後とも、よろしくお願いいたします。

{平成5年4月30日

〈普久原恒勇先生からのお手紙〉

戦前、大阪で琉球・沖縄民謡のレコード盤(フクハラレコード)を販売していた普久原朝喜さんのご子息で名曲「芭蕉布」の作曲家でもある普久原恒勇先生先生からお手紙と「フクハラレコード」からの複製テープをいただいた。


 前略−

 御丁重なお便り有難う御座います。取り合えず当方で復刻したカセットテープをお送りします。それと戦後(昭和25〜26年頃)のカタログもコピーしてお送りします。

 戦前製作したマルフクレコードは500アイテムほどあるのですが、ほとんど原盤を紛失しております。

 当方事情によりたて込んでおりまして満足なご返事できませんが、まずは御礼まで…

          普久原恒勇
1993年6月17日

〈喜納昌吉さんからのお手紙〉
 喜納昌吉さんとは、3月、名古屋市公会堂で初めておめにかかり、続いて5月1日、春日井市野外コンサートでは、30分近く二人だけで話し合う機会が持てた。

 ―又新しい創造性がわいてきました。

 音魂の世界から女工たちや女工たちをとりまく世界が見えてくるのは、とても嬉しく思います。今度会うことを楽しみにしています。

            喜納昌吉

〈二反田武治先生からのお手紙〉

 レコード盤の発見者であり、ご寄贈下さった二反田武治先生からのお手紙。


−前略

 引き続き小冊子のコピーをお送り頂有難うございました。

 意外な発展にとまどい興味津々といった心境です。

 「消えた沖縄女工」もさっそく書店で注文しました。

 さて、私は今、山本茂實氏(「あゝ野麦峠」の著者)に手紙を書いています。(次の作品「喜作新道」執筆で我が家に宿泊したりしています。)

 氏の執筆での取材中、何か資料蒐集の手がかりが得られれば、という淡い期待からです。

 以下省略

            二反田武治
1993年4月14日

 追伸 このたびの出来事をわたし流に表現させてもらうならば、次のようになります。

 『絹の糸が結んだ、信州と沖縄』

〈野原廣亀先生からのお手紙〉
 ―拝啓 お手紙ありがとうございます。

 この度の「琉球レコード」のご贈呈の喜びとともに、渡久地さんの労を惜しまぬお心遣いがまた嬉しく感謝しております。

 戦争で大方の文化遺産を失った沖縄の私たちに、古い懐かしいレコードの里帰りはたいへん貴重であり、難しいわけですが、加えて、沖縄から行った女工たちの歴史(哀史)が背景にあるとなれば、その由来も尋ねたい気がしてなりません。

 実現すればよいのですが、文化センターの和喜さん(文化課長に昇任)も、御地を訪ねたい意向を口にしております。

 同封の二反田先生は「このたびの出来事をー絹の糸が結んだ信州と沖縄」と感懐を述べていらっしゃいますが、まさに同感です。その同感の思いを琉歌であらわしますと


信州と沖縄

糸の縁結で思ひ深ぶかと

語出見欲しゃ

となりましょうか。

 二反田先生にもよろしくお伝えください。

〈チャンプルーズの石岡さん〉

 1964年1月3日午後4時ころ、私は那覇市の平和通りの薬草店をのぞいていた。ふと左隣を見ると、同じように薬草を眺めている人がいた。そして双方同時に顔を合わせて、「あぁ!」と声をあげた。

 喜納昌吉とチャンプルーズの主力メンバーの石岡さんではないか。

 12月28日、国際通りのモルビービルで「レインボーワールド」を開いたので是非聴きに来てほしい、と。

 演奏が始まる前に喜納昌吉さんやメンバーの方々とゆっくり話しをする機会を持てた。

 喜納さんは「渡久地さんとは、何か運命付けられたところがあるみたいだ。是非会わせたい人がいる」といって沖縄の古典「おもろ」の伝承者石川(旧姓安仁屋)眞昭さんを紹介してくださった。

     ここまでが1994年3月5日

 〈アサヒ蓄音器株式会社〉

 大正14年6月6日、資本金12万円で名古屋市東区大曽根大坪320番地に設立されたアサヒ蓄音器株式会社については、かなりの時間と労力を遣い調べた。

 そして、膨大な関係資料を得ることができたが、肝心な琉球レコード盤そのものと関係資料を発見することができなかった。

 同社は、幾度も社名を変え、経営者も代わっていたが、現在も春日井市に存在していた。

 社長の本宅は、名古屋市東区徳川町の一角のお屋敷で、戦災にも奇跡的に免れていた。社長秘書が偶然にも沖縄出身者であった。沖縄にとってこのレコード盤がいかに大切なものか、を力説する手紙を必死の思いで書いた。社長さんは、お屋敷のお蔵などを調査したが、肝心なものは何も発見できなかった、とのご返事をいただいた。

〈特高資料に記載があった〉

 名古屋市立大学の阪井芳貴先生が探し出した資料に「特高警察資料」があった。

沖縄・琉球レコードがどのような状況下におこれていたかを知る貴重な資料といえる。

 表紙:昭和9年6月 「蓄音機レコード発行所其の他調」 内務省警保局図書課

 ● 愛知県
 品名   ツルレコード(琉球語吹込)
 定価及大サ  1円20銭 10吋
        1円    10吋
 製作所ノ名称及所在地 名古屋市東区
東大曽根町南4丁目170
    株式会社アサヒ蓄音器商会
 発行総数  193
 1月平均新譜数  半期ニ20
 吹込所      発行所ニ同

● 沖縄県
 品名   トモエ琉球レコード
 定価及大サ 黒盤 10吋 1.50
       青盤 10吋 1.20
 製作所ノ名称及所在地 東京市滝ノ門区田端町オンゴールレコード合資会社
 発行所ノ名称及所在地 那覇市上之蔵町1ノ26 ヨシヤ□器店
 発行総数  291
 1月平均新譜数  7
 発行責任者  比嘉良勲 吹込所製作所ニ
    同  営業状態 個人経営、管下ニ
    於テ発行レコードハ本県特殊ニシテ年1回又ハ隔年臨時吹込者ヲ嘱託シテ1種2百枚宛テ製作セシメ売行キニ依リ増製セシ居ルノ状態ナリ

 ● 品名   ツルレコード
 定価及大サ  10吋  1.50
 製作所ノ名称及所在地 名古屋市東区
東大曽根町
    アサヒ蓄音器商会
発行所ノ名称及所在地
    那覇市上之蔵町1ノ26
    盛興堂
 発行総数  455
 1月平均新譜数  6
 発行所責任者 平良晨興
 吹込所製作所ニ同シ
 営業状態  個人経営、管下ニ於テ発行ノレコードハ本県特殊ノ歌謡ニシテ年1回又ハ隔年臨時吹込者ヲ嘱託シテ1種2百枚宛ヲ製作セシメ売行キニ依リ増製セシ居ル状態ナリ