■ 本土で活躍した沖縄系知識人 太田守松・菊子 ■

作成 2008-5-1
掲載 2010-7-26

可能ならば沖縄で発表したかったが、2か年経過しても機会を得ることができなかった。

久志芙沙子研究から派生

太田(渡名喜)守松・菊子について

     (作成意図) 激動の20世紀、沖縄で住んだ人も島を離れた人も多くの試練を体験した。とりわけ20世紀初頭、沖縄で生まれ、島を離れた沖縄出身者は、昭和15年(1940)から48年(1973)ころまで、故郷沖縄と隔絶された。この間、「帰りたくても帰れない」状態が長期間続いた。こんな中、沖縄出身者が何を考え、何を行ったのか、その資料は少ない。
わたしは、たまたま久志芙沙子を調べる縁で夫・安良城盛雄の存在を知り、さらに芙沙子のいとこの子・太田菊子を知り、菊子の夫・太田(渡名喜)守松の存在を知った。
沖縄出身の知識人が本土で何を考え、何をおこなったのか、を知ることは、21世紀の沖縄が、20世紀に引き続いて多くの苦難を強いられることが必至な今日、そこから学ぶことも多いと思う。
2008年3月20日時点では、太田(渡名喜)守松・菊子については、歌集『塔のかげり』と次男・太田守人氏との会見(2008年3月16日)・資料提供の範囲を出ていない。ここまでを一応のまとめとする。

                         作成者:渡久地政司

基礎資料 T  久志芙沙子から息子・安良城勝也宛手紙の末尾に次の文章がある。

○ 滋賀県彦根市南川瀬町1409 太田守松・菊子  1968年(昭和43)6月6日付け末尾に「菊子は、いとこの子」、と 注書きがある。
基礎資料 U  太田守松・菊子について

○ 太田守松  父渡名喜守重、母なべの長男として沖縄県那覇市東町1丁目20番地で明 治35年(1902)生まれる。泉崎小学校、沖縄1中卒、神戸高等商業学校卒。滋賀県立彦根商業 学校教諭(大正14年4月)。昭和3年短歌会『国民文学』に入社・植松寿樹に師事。以後、短 歌運動。昭和22年3月、日本キリスト教団彦根教会で洗礼。1947年(昭和22年10月)、渡 名喜姓を先祖が使用していた太田姓に改名。昭和23年、彦根市立西中学校校長。
昭和27年、彦根YWCA創立理事長。昭和34年、井伊大老開国百年祭奉賛会事務局次長。
昭和38年、原水爆禁止彦根市協議会会長。昭和45年1月、脳溢血で逝去(67)。
○ 太田菊子  父豊見山安健、母オト(1882年生まれ)の長女として 1905年(明治38) 沖縄県那覇市で生まれる。沖縄県立第1高等女学校卒業1921年(大正10)、東京山脇高等女 学校卒業1924年(大正13)。大正14年12月、渡名喜守松と結婚。平成5年(1993)逝去(88)・ 1962年(昭和37年2月)。長年同居の母オト逝去(80歳)。

   豊見山安昆(蒲戸の父)  毛氏豊見山親雲上安昆 首里桃原村之人
   宮城 カメ(蒲戸の母)  1844年(弘化4)生まれ→1920年(大正9)(74)
   宮城蒲戸    1866年(慶応2)生まれ→1889年(明治20)(24)
   宮城マカト   1864年(元治1)生まれ→1942年(昭和17)(78)

   豊見山安健(旧姓宮城三良→明治37年に豊見山安健と改名)1884年(明治16)生まれ→1906年(明治39)(24)
   豊見山オト    1884年(明治16)生まれ→1962年(昭和37)(80)
   豊見山菊     1905年(明治38)生まれ→1993年(平成5)(88)
      安健(父)、オト(母)

  基礎資料 V 家族

  長男  太田守男  1926年(大正15年11月3日)生まれ〜1994年(平成)逝去(68)
      昭和22年、名古屋市:エルモ社に入社。名古屋工業大学卒。
  次男  太田守人  1936年(昭和11年1月1日)生まれ。昭和30年初期、名古屋市中村区の坂野家を訪問、坂野芙沙子と面識、愛知大学卒。
  長女  太田安子  1929年(昭和4年5月26日)生まれ。

基礎資料 W  太田守人氏から歌集の贈呈をうけた。

                   平成20年(2008)2月
○  『塔のかげり (太田守松遺歌集)』(昭和46年12月・発行人太田菊子)

基礎資料 X   写真・資料  2008年3月15日、 太田守人氏より提供をうけた。

以上 T〜X までの基礎資料をもとに検討を試みる。

(T) について―
手紙は3枚、この「注書き」は、「わたし(母:芙沙子)のことは、この人に聞きなさい」
と言う意味がこめられている、とわたし(渡久地)は推測する。  2001年、芙沙子の長女・岩田緋紗子(ひさこ)は、「滋賀県彦根市にお住まいの、夫が学校長
をしていた女性とは、文通をしていた。その女性がどのような方かわからないが、母が文通
をしていた数少ないうちの一人です」と語っていた。(渡久地政司)
 太田菊子と芙沙子は、「いとこの子」まではわかっているが、どのような「いとこ関係」か
は、現時点では不明。菊子については、この後で再び検討する。
(U) 「遺歌集」から

● ここに収録されている歌及び「序文」「後記」から久志芙沙子に関係する箇所は発見できなかった。
● 菊子がどのような家庭環境で育ったか、を推測できる歌がある。
昭和27年の歌。
○ 贅沢に育ちし妻が一人娘をこの貧しさに如何に育てむ

同じ年の歌に、聖母会病院
○ 肺切除すすめし医者を甚しく吾は憎めり処女のために

  長女安子(23)が聖母会病院に入院、肺切除の大手術をうけた。このころの経済的困窮につい ては、後に触れる。ここでは、「贅沢に育ち…」に注目したい。
久志芙沙子の女学校時代は、父が商売に失敗、貧困生活を強いられた、と本人も書いている。しかし、当時の女学校に進学、教育をうけることができた。芙沙子の父は事業に失敗したが、親戚・一族にはそれなりに資産家がいたのではないだろうか。豊見山家とはどのような家系なのか、解明がまたれる。
菊子の母・豊見山オトは、昭和37年2月、太田守松・菊子と長年同居してこの年亡くなっている(80)。
● 豊見山オトについて
昭和19年
  ○ 疎開船に乗りしと母の報せありて既に幾日消息を絶つ
 ここの母は、豊見山オト。守松の実母(ナベ)は、昭和9年に亡くなっている。
昭和36年
○ 炬燵に居眠る多くなし母沖縄に帰りたいと云はなくなりぬ

●  昭和8年  渡名喜守松・菊子は、沖縄にもどるつもりでいた?

○ 安物の机本箱買ひ来しも直ぐ売り払ふ心にてありき
○ この町に何時まで斯くて暮すやと妻はきくなりあてもなき吾に
○ 八年を勤めて来つれいつ迄も田舎教師にありたくはなし
○ いささかの金に屈託せぬ程の商人に吾はならむか
○ 座敷まで商品積みてゆとりなき父母の家に帰り来りぬ

後日、守松の歌に次ぎのものがある。

昭和28年
○ 商人を税吏の如く卑しみて教師となり疑ひもせず
商人を税吏と同じ卑しいものという若い正義感があった。昭和初期、守松・菊子夫妻は、いつかは沖縄に戻りたい、という願望があった。渡名喜守松の実家も昭和10年ころまでは、裕福であったようだ。昭和9年母なべ逝去(57)、昭和16年6月、父・守重(71)逝去。この歌から、このころ沖縄の渡名喜家の財産は、底をついたように思われる。後で触れる太田姓への改名の一因か。

昭和17年
○ 石をもて追はるる如くふるさとを追はるることも清しからむか
○ つきつめて思ふ時にし人間はいずこの土となるも寂(しず)けし
○ ある時は身に過ぎし金使ひしが今も惜みて思ふことなし
○ やや金にあかして暮したまひける父の晩年はむしろ寂しき
そして、昭和28年の歌に
○   一代にて名をあげし父の生涯を敬ひ思う齢となりぬ
○ 昭和十九年十月十日の空襲に父母の家も町も燃え果つ

●  昭和万葉集に2首 掲載された。


○ 黙って殴られる手はないだろうと再軍備論を説く馬鹿もゐる"塔のかげり"P184確認 昭和28年作『昭和万葉集』第10巻 P16 確認
  ○ 内乱を防ぐだけと云ふ自衛力の限界を誰が守り徹すか"塔のかげり" P184確認 昭和28年作『昭和万葉集』第10巻 P16 確認

  次の2首は調査すべき
○ 沖縄に帰る日を恋ふと云はざれどさびしき時はした思ふなり"塔のかげり" P142確認 昭和23年作『昭和万葉集』第8巻  ○○○
○ 戦場に死にたる者は忘られて死なせたる天皇万歳をうく
 "塔のかげり"未確認 昭和27年作『昭和万葉集』第3巻 (未確認)

● 沖縄・琉球への思い
昭和28年
○ 琉球に生まれし事を若き日の吾は卑下して悲しみたりき

● 昭和22年に渡名喜姓から太田姓に改名。このころの歌は、
○ もの売りて月々しのぎ来りしが教師何ぞと怒る思ひあり

● 昭和23年、守松(45) 彦根市立西中学校長。師範学校出身でなくしかも45歳の若さは異例の出世とみてよい。
● 昭和26年、彦根城の天守
○ ほの暗く天守の壁に月照りて古りたるものは寂しくもあるか
精神の充実した歌が続く。守松・菊子夫妻の幸福な時代といえよう。

● 沖縄の土地を売る
昭和30年

○ 土地を売る依頼の手紙書きてをり時間をかけて丁寧に書く
○ わが手紙金にふれゆくあたりよりやうやく文字が乱れ始めつ
○ すこしばかり金の入るめどつきたる時吾の暮しの活気づきたり

年譜によると昭和28年、守松(50)、彦根市立西中学校長、国際ワイズメンズクラブ協会彦根クラブ会長、彦根YWCA創立理事長、気がかりだった病弱の長女安子結婚、長男守男に孫誕生と生涯一番充実していた。背景に、沖縄の父の土地を処分、そのために沖縄に帰郷した。

  ● このころ久志芙沙子は―
  基礎資料V 家族
    守松・菊子の次男・太田守人氏は、このころ名古屋市にある大学生であった。守人氏は、名古屋市中村区太閤の坂野医院に坂野芙沙子(久志芙沙子)を訪問した。
菊子も芙沙子も人生において一番安定した時期だったと推測できる。
……………………
● 故郷沖縄
 戦後15年、ベテラン中学校長でもあり、長女は結婚し、生活は安定、そこで沖縄にある土地処分を兼ね、墓参と親戚、知人を訪ねた。

昭和31年

  ○ 榕樹の若木は風に光りつつ亡ぶるものは亡び去りたり
○ しぶきあげて降り来る雨の中を行くすでに父母なき故郷の町

昭和34年

○ 酒のまぬ吾と酒のみの弟が遠くより来て一夜を語る
○ 弟も吾も他国に住みつきて父母の国に帰ることなし

昭和37年

○ わが父の栄えし店の跡さへや荒野となりて瓦礫の中の草
○ わが叔母が煮し豚肉のあつものを吹きつつ食ふ吾も老いつつ
○ 父母を葬りて遠き琉球に吾が子らは遂に行くことなけむ

● 昭和22年  渡名喜姓から太田姓への改名

    改名について
@  「郷里琉球が米国のものになった以上、自分はその下に居るを潔しとしない、隋って旧姓の渡名喜を太田とし…渡名喜は、琉球での名族、阿氏と…」(「跋」高橋荘吉) A 昭和10〜15年ころには、沖縄の財産は土地を除いてなくなっていた。 B 沖縄戦で壊滅。虚脱感。
C 子の就職など、戸籍謄本の入手への煩雑。
D 終の棲家を彦根にすることの決断。

●  貧困暮らし

昭和15年
○   妻の指輪売りたる金は足袋を買ひ子らの襯衣買ひたちまちむなし
昭和22年
○   もの売りて月々をしのぎ来りしが教師何ぞと怒る思ひあり
○   帶売りてゆとりありしは暫しにて月の半ばをはや銭のなし

● 山之口獏(詩人) との交流

山之口獏(1903〜1963)那覇市東町に生まれる。父の事業が失敗し、沖縄1中を中退、上京。職業を転々としながら詩作にふける。戦後、再び詩作にふけった。詩集『思辞の苑』『定本山之口獏詩集』など。高村光太郎賞。

昭和26年
山之口獏
  ○ 子が病めば子の病むうれひ山之口獏の嘆きも金にかかれり
○ 貧しき詩人の故に心かよふ山之口獏の詩を口ずさむ
○ いささかの金を送りて山之口獏が喜ぶ顔おもひゐる
○ 自立なき民となりたる悲しみを貧しき今日の吾が思ひをり
○ 丈たかきハウスマン君は歩幅広く自転車の吾と並びて歩む
○ 結局は彼も守銭奴のたぐひにて少き友の列伍より落つ
○ 友は友なりに吾は吾なりに生くる外なしと思ひて再び云はず
○ 金持ちて金に汚きかの友も所詮さみしき人とあはれむ
○ わが憂ひ消すとにあらず灯の下に金儲けて人の遊ぶ見てを
○ あはれあはれすべなき人の悲しみは金を賭れつつ争ひ止まず
○ 椅子によりてものこそ思へ術もなくうすらに苦き煙はきつつ

 
守松(1902年10月生)と獏(1903年9月生)は、両者とも生誕地は、沖縄県那覇市東町、沖縄1中で同級生か1年違い。生まれた場所が近くだったので幼少のころから行き来があった と思われる。互いに知りすぎると仲が悪くなる。
 昭和26年ころは、山之口獏はまだメジャーな詩人ではなかった。戦後早くから両人には連絡があったと思われる。しかし、このころ守松は獏とは、歌から推測すると「絶交」状態になっていたのかもしれない。

● 冒頭の歌

昭和3年 ○ 年経りて帰り来し吾を母君は国言葉もて迎へ給へり
○ 吾妹子の心は如何に離り居て文さへ来ねば嘆かふ吾は
○ 待ち疲れ心いらだち憤る時をし妹は急ぎ来にけり

歌集の冒頭の歌。この「国」は沖縄・琉球。「吾妹子」、「妹」など「万葉集」の影響を感じる。ただ、以後の歌に、沖縄の海はひんぱんに出てくるが、琵琶湖(近江の海)は出てこない。全作品をとおして、自然を歌うことは少なく、自分の心うち(気持ち)を正直に吐露し、表現する作品が多い。

資料 X
  ● 太田守人氏からの聞き書き(渡久地政司)
   2008年(平成20)3月15日、彦根市グランド・デュークホテルにて
○  父について  これ以上の資料は存在しない。
○  母・菊子について
  1 父の葬儀の日の写真。坂野(久志)芙沙子も写っている。前列左側の人物には心当たりがない。


写真説明
前列右から 安子、守人、菊子、守男、右?
後列 右から安子の夫、坂野(久志)芙沙子、安子の息子2人
2 豊見山家に関する書類4点(お墓を移転する時、沖縄から持参)
3 沖縄第一高等女学校(ひめゆり同窓会)の写真。裏側には名前が記入されている。

4 坂野芙沙子さんとの交流については知っていたが、どのような関係かはわからなかった。1960年(昭和35)ころ、名古屋市中村区太閤の坂野医院を一人で数度訪問した。家族の人とはお会いしていない。兄・守男は訪問していない、と思う。芙沙子さんと話しをした。
5 母菊子は、晩年、短歌を父の手ほどきで詠んでいたが作品は未発見。
6 井伊家の文子氏と父は短歌(アララギ)などをとおして面識はあったが、母との交流については、よくわからない。
7 守松・菊子との会話は標準語であったが、母豊見山オトとの会話は沖縄方言であった。オトの両手にはいれずみがあった。
8 沖縄第一高女を卒業し、更に東京の女学校を卒業させるくらい裕福な家庭に育った財政的背景はわからない。母・豊見山オトを1944年(昭和19年)疎開船で引き取った。戦前、オトは一人暮らし、那覇市の繁華街で雑貨店を開いていた、と聞いている。
9 両親とも沖縄音楽、三糸などには関心はなかった。
10 守松が先に、菊子が後にキリスト教に入信した
。 11 彦根市内の沖縄関係者とは交流があった。
高江洲輝子→小田輝子(約80歳)、輝子さんは彦根文化連盟に所属、絵画。
エピソード
〈父(太田守松)の葬儀の日の写真〉を坂野芙沙子(久志芙沙子)の3男・坂野興氏に問い合わせたところ、次のようなメールをいただいた。
さて、写真の件ですが、この中には坂野に縁のある者は写っておりません。太田さんのことについては母から聞かされており、私も小学校の頃と記憶しますが、弟と共に母に連れられてお邪魔したことがあります。守人さんにもお会いしたはずですが、お姉さんが大変に綺麗な方で、子供心にもどぎまぎしたことを記憶しております。その時には、母が太田さんの家にありましたヴァイオリンをお借りして、照れくさそうに突然弾き出して、驚かされたこともありました。太田家のことについては詳らかには承知しておりませんでしたが、守人さんもお元気の由、宜しくお伝え下さい。
                               坂野 興