沖縄雑文録
T わが内なる沖縄
2005年8月17日掲載

■ 1  天津市の沖縄社会 ■

T わが内なる沖縄
1   中国・天津市の沖縄
(1946年3月末まで)

幼少のころの、微かに繋がっている記憶の細糸から、時間をかけて手繰り寄せてのことであるが、沖縄を最初に意識したのは、いつ、どこで、どんなことだったか。あの出来事が沖縄、あるいは沖縄的なことなのだろう、と後で追認したことが最初の記憶だ。

3歳か4歳ころ(昭和14年〜16年)、挙母町(現在の豊田市竹生町)に住んでいた時代、「たけ姉さん」「とし姉さん」と呼ばれていた少女がわが家にいたらしい微かな記憶がある。しかし、顔の記憶はなかった。名前は、姉と兄がしゃべっていたので、事後的に知った。知ったのは、中国天津市で、昭和17年前後、私は5歳くらいだったろう。「たけ姉さんは、従姉」「とし姉さんは、叔母」にあたるのだが、このことを知ったり、お会いしたのは、10数年後になってからだ。そして、2004年現在、「たけ姉さん」は、古堅たけさん(沖縄県本部町山川)。 「とし姉さん」は、金城トシさん(沖縄県那覇市宇榮原)で共に健在だ。

この「たけ姉さん」と「トシ姉さん」が、わが家にいたことが、きわめて沖縄的なことなのだ。この二人の「姉さん」が、わが家に居候をしていたころは、私の両親は、30歳前後、そして、わが家には、乳幼児も含めて4人もこどもがいたのだ。そこに、10代後半の少女が一緒に住んでいた。沖縄では、親戚の年長者は、名前を先に付けて、○○ねえさん、○○にいさんと呼ぶ習慣がある。そして、親戚の少年少女が親戚の家に同居するケースは、沖縄から出稼ぎに出て来た少年や少女のお決まりのコースでもあった。だから、私にとって沖縄的な出来事との最初の出会い、といえよう。

中国人街の一区画をトヨタ自動車の社宅になっていた。社宅は数ケ所あって3度ばかり引越しをした。国民学校に入学する前、姉と兄は学校に出かけると残されたのは、母と私と2つ歳下の弟となる。自然、母と会話をすることになる。母は、絵本をよく読んでくれた。「金の斧」はよく覚えている。

母は、14〜15歳ころまで沖縄県国頭郡国頭村で生まれ、育った。そして、本土の紡績工場に働きに出た。沖縄では、名護も那覇も知らない。知っている(経験している)のは、山原(やんばる)と呼ばれている沖縄島の北部の山地だけなのだ。後日、私が知ったことだが、母は山原の、鬱蒼とした密林の中、キムジナーと呼ばれる妖精の棲むところの風土にどっぷりつかって育った人だった。「何」を「ヒーン」といった。その母から私は日本語と多くの仕草を学んだ。

国民学校2年生(小学校)の時、学校で教科書を読まされた。「自動車と道路」の発音の区別が出来なかった。また、ポケットがホケットになっていた。耳垂れをミンザイと沖縄語で覚えていた。仕草の多くが母の影響を多く受けていた。何よりも、キムジナーの棲むヤンバルの精神風土を潜在意識として多く摺り込まれたに違いない。

昭和19年ころだった。日本人居留民のこどもたちは、天津市の各地に駐屯している日本陸軍の兵舎(基地)に遊びに行ったものだ。30人くらいの小部隊で、私の名前が渡久地だと知った帝国陸軍兵士が、本部(ほんぶ)に「渡久地曹長(兵長かもしれない)がいる」と言った。私も兄もびっくりして、父親に知らせた。ある日、この帝国陸軍の渡久地曹長が軍服姿でわが家に現れた。当時のこどもたちにとって帝国陸軍軍人は、偉大なる大スターであった。私は渡久地曹長に抱きついた。そして、得意だった。この渡久地曹長は、何と、沖縄県本部(もとぶ)渡久地の本家筋の方であった。お会いしたのは、これが最初で最後であった。数ケ月後、悲しい知らせがあった。渡久地曹長が戦死した。父と兄、姉が葬式に参列、そのことが邦字新聞に写真入りで報道された。私は、その読めない新聞をいつまでも眺めていた。

沖縄という言葉の最初の記憶は、中国天津市の日本租界の繁華街にあったS洋行という薬屋の2階であった。その家の主みたいな老婦人のそばに座らされ、姉が私の頭を抑えて、強く下げさせられた。その時の屈辱と恥ずかしさ、身が縮む思いは今でも鮮明に覚えている。私は7歳ころ(昭和19年ころ)だった。

これも事後的に知ったことであるが、この家は、という沖縄にしかない苗字で、沖縄県那覇市出身の資産家の邸宅であった。この家の主(男)は、亡くなっているらしく、長男が商売を仕切っているらしいのだが、私は一度もお会いすることがなかった。この大家族集団(これもきわめて沖縄的なのだが)を仕切っているのが、SEのハンシーと呼ばれている老婦人であった。いつもデンと鎮座するように座っていた。この老婦人には、数回お目にかかったが、その内の一度、薬ビンのようなガラスの容器の中に美しい貝殻が入っていたのを老婦人が私に見せて、「沖縄の海にある貝殻だよ」とでも言ったように思う。沖縄と貝殻とを結びつけて、このことを鮮明に記憶している。

今、いくら思い出そうとしても、この老婦人の容姿と顔については、その存在と姿は記憶にあるのだが、ぼやけていてはっきりしない。ただ、典型的な沖縄の、しっかりした老女であったように思う。最近、沖縄生まれの女性作家・故久志芙沙子の写真を見た時、こんな感じの老女だったような気がした。

老女は、正文のハンシーと尊敬語で呼ばれていて、オバーとは呼ばれていなかった。

SE家には、山城姓の天津中学の少年が居候していた。そして、私の姉もこの家に居候して松島女学校に敗戦の8月15日まで通学していた。このSE家にも姉より年上の女学生がいた。また、この屋敷の次男の嫁さん(京都から嫁入りした)もいた。この屋敷で知ったお名前と同一の女性が琉球大学の音楽(声楽)の先生をしていた。同じ人物ではないか、と思うのだが、確認はしていない。このSE家の先代か長男なのかはわからないが、アヘンで大儲けをした、と大人たちが話ていた。

ある日、父がラジオの前で、沖縄が危ない!と言った。それがどのような意味なのか深い意味はわからなかったが、沖縄には、父の母、ハンシーさん(実は老女の尊敬呼び)という名前のおばあさんがいるらしい、そして、沖縄が父と母の生まれたところらしい、そこにアメリカ軍が上陸して来たらしい、ということまではわかった。しかし、日本軍には、浮沈母艦大和があるから、戦艦大和が出撃したらアメリカ艦隊は全滅する、と大人たちが言っていた。沖縄と戦艦大和を結びつけて、鮮明に記憶している。

戦中戦後、このSE家が天津市の沖縄社会の中心となっているらしく、ここを経由でわが家にも沖縄関係者が頻繁にやってきた。

幾つかのエピソードをあげてみる。

敗戦後、外モンゴルから引揚げてきたこども連れの沖縄家族に、わが家では、白米の飯を炊いて提供したことがあった。私と同じ年頃の男の子がガツガツ凄まじい勢いで米のメシを食べた。あまりの勢いに私たちは大笑いした。直後、彼らは便所にかけこんだ。よほどひもじかったのだろう。

また、ある日、今思うと20代後半なのだろうが、沖縄の大人がやってきて、「沖縄はアメリカのものになった。お前たちは、英語を覚えないといかん」とひどくまじめな顔をして言った。そこで、私たちは、ABC…を歌にして覚えた。

また、「沖縄には帰れない、帰るところがない」という話も伝わってきて心細い思いをした。

上里忠明さんは、沖縄那覇市出身でSE家と遠縁にあたる。戦中、天津トヨタの守衛をしていたが、現地召集、戦後現地除隊となり、わが家に戻って来た。そのころわが家の主・父は、ある事件に巻き込まれ不在であったので、上里さんは、わが家の守り神みたいな存在であった。

ある夜、上里さんに連れられてある中国人婦人宅を訪問した。子ども(私)を連れて訪問することが安全と考えてのことだったのかもしれない。

幼児と乳飲み子を抱えた中国人の女性が裸電球の部屋にいた。上里さんがこの女性にお金を手渡した。中国人女性は、何か言って泣き叫んだ。後日、SE家長男の中国人の嫁さんと赤ん坊だ、と大人たちが話していた。この子は、中国に置いていかれるのだな、と私はひどく心を痛めた。

SE家に居候をしていた天津中学生だった山城さんは、ひとまず内地に引揚げ、その後、沖縄に戻り、知念高校を卒業、その後、密航して東京へ。アルバイトをしながら千葉大学工学部を卒業した。この山城さんと私の兄は、戦後まもなく、アメリカ映画「東京大空襲」を天津市の映画館で観ている。得意になって映画の話をしている兄を羨ましく思った。

SE家は、一旦内地に引揚げ、後、沖縄に再引揚げをし、SE家のハンシー(老女)の晩年はお気の毒であった、と伝え聞いた。先にも書いたが、琉球大学で声楽の先生をしていた方が、私の知っている方と同一人物なら、この方に聞けば、SE家のハンシーさんの晩年がわかるかもしれない。

昭和21年正月前後、SE家はじめ沖縄社会を構成していた人々、上里さんまでもが日本に引揚げて行った。私達家族だけが、真冬の中国人街の一角に取り残された。

ある朝、街頭の露天で中国人から話かけられた。「どこに帰るのか」とでも言ったようだ。

そこで、地面に地図を描いて、中国、台湾、日本を描き、沖縄の位置を指し示した。片言の中国語と、身振り手振りも交えてのことであった。

中国人は、嬉しそうに、「そこは琉球だ、琉球は中国の領土だ。お前は、中国人だ」とでも言ったように思う。俺達は中国人にされてしまう、とひどく驚いて家に戻り、このことを両親に報告した。両親が何と言ったのか、記憶にない。沖縄が、琉球と呼ばれ、中国と何らかの関係があるらしいことをこの時知った。

日本人には、帰るところがあった。在所というところらしい。そこは、長野県であったり熊本県と呼ばれている。しかし、私たちの在所、沖縄県には、帰れない。どこに帰るのか、を父親は迷っていたが、ひとまず愛知県のトヨタ自動車に戻る、ことになった。だから、帰国先の住所は、愛知県西加茂郡挙母町大字前山 とトヨタ自動車の住所になっていた。

引揚船や収容所のことは、ここでは触れず、不思議なエピソードをひとつ書いておきたい。

1946年4月2日か3日の夕方、佐世保の収容所でのことだ。日本海軍の水兵服の兵士が私の名札を見て、父親のところに案内するように、と言った。この水兵が渡久地政春さんだ。何と、沖縄県国頭郡本部町渡久地の渡久地家直系の方であった。そして、天津で戦死した渡久地曹長ともかなり近い親戚であったのだ。

私は、2003年5月末、渡久地政春さん宅を訪問した。少年であった私との出会いを、昨日のように記憶していた。

先祖の霊などは信じない私ではあるが、世の中には、まったく不思議な、考えられないような出会いがあるものである。