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2005年8月17日 

 

■ はじめに ■

2005年6月、わたしは68歳となった。
いま、これまで自分が書いてきた沖縄を読み返し、感無量のものがある。
20代でしか書くことのできない乱暴な文章や、30代の気取った言葉遣い、そして必死な行動などが彷彿として蘇ってくる。
これらの文章をまとめてURLに掲載してもよいのだろうか、という思いと、掲載しておかなければならない、という思いが交差する。躊躇するのは、活字にしたものは、格好よすぎはしないか、という心の隅からの疼き。公表すべきは、わたしでしかできなかった沖縄が少しはあった、という証として。

取り返しの出来ない失敗もあった。
このことを最初に書き、詫びておかないと何もかも嘘になる。
今ひとつ、疼くことがある。
もう10余年、消息を聞かないが、復帰前、沖縄から国費留学生として神戸大学医学部学生であったA君が、「渡久地方式・ショックで入管闘争を決断した」とボツリと語ったこと。
わたしの意図と別なところで、多くの若者の人生が狂ったのではないか。
わたしの場合、沖縄の復帰のために、沖縄に寄与できることなら犠牲も惜しまない、という気負いがさせたことだが、今、「浮かれた沖縄ブーム」に踊らされている沖縄人をみるにつけ、自分は一体何をやってきたのだろうか、わたしが巻き込んだ若者たちのその後を想像すると、慙愧に耐えない
。 これだけのことを最初に書いておきたかった。
「琉球レコード盤の出自を求めて」と「久志芙沙子さん探し」は、血わき肉踊るような楽しい調査であった。

このURL『渡久地政司沖縄雑文録』は、『渡久地政司・豊田市で生きて雑文録』と対をなす。
実は、「豊田市で生きて」が本目なのだが、まとめる気持ちになれずに今日を迎えた。しかし、いま「沖縄雑文録」をまとめることが出来、「豊田市で生きて」を2006年夏までには、まとめることができそうな気分になってきた。

2005年8月17日
  孫・政寿誕生の日に。

         渡久地 政司