■ 2001-11-17 清田 和夫 お別れのことば(弔辞) ■

お別れの言葉
渥美ロマンとは、どのようなものであったのか、に思いを馳せながらお別れの言葉を語らせていただきます。

今から40年程前の1960年、安保闘争のころ、「日本共産党はもうダメだ」とさかんに言われておりました。わたくしは、「渥美細胞がまだある」と最後の期待を渥美細胞においておりました。しかし、その渥美細胞も、日本共産党に愛想を尽かしてその年の秋、集団脱党をして渥美新民主主義協会として再出発をしました。わたくしも清田和夫さんたちの方向を目指しました。安保闘争後の左翼運動全般が虚脱状況にあった中で「渥美のように、地に着いた運動を行いたい」という決意で、わたくしは豊田市に就職しました。

昭和38年・1963年4月7日の晩、わたくしは清田和夫さん宅を訪問し、世界的企業のある豊田市で市会議員選挙に立候補したい、選挙をたたかう意味があるでしょうか、また、選挙とはどんなものでしょうか、など教えを請いました。清田和夫さんは、「おもしろいからぜひ立候補しなさい」と激励して下さいました。幸いわたくしは、選挙で当選したものの、そこはまったくわけのわからない恐ろしい政治の世界でした。わたくしも仲間も「清田和夫さんのような議員活動」をお手本にして運動をおこないました。困った問題に直面した時は、清田和夫さんならどうするだろうか、と常に考えました。その後、幾度となく渥美詣でを行いましたし、また、豊田市に清田和夫さんたちにお越しいただき、アドバイスや激励をうけました。

そんな中、1966年6月、杉浦明平先生が「解体の日暮れ」を発表し、清田和夫さんを批判しました。わたくしにとり驚天動地の出来事でした。ここには「政治を行う者が宿命的に背負わされた十字架のようなもの」が、未解決のままに存在しています。

わたくしは、杉浦明平先生と清田和夫さんというお二人の傑出した巨人をセットにしてその足跡を、業績を考えていく中に、あの輝いていた渥美ロマンを21世紀に継承していく鍵があるように思います。その鍵について、杉浦明平先生も清田和夫さんも語らないままにお亡くなりになってしまいました。

わたくしは、渥美ロマンをどのように総括し継承していくか、考え続けてゆくことをお誓いしてお別れの言葉とさせていただきます。<
清田和夫さん、さようなら、ありがとうございました。
2001年11月17日
渡久地 政司