■ 鈴村鋼二君との出会いと別れ ■

08-03-08 初掲載
14-11-10 訂正

鈴村鋼二君との出会いと別れ

 

鈴村鋼二君との「出会いと別れ」についてまとめる。ここ25年(08-03-08記載)近く「さわらぬ神にたたりなし」、と無視してきた。しかし、鈴村君とわたしは、高校1年(1954)からの約25年間、常に行動を共にし、多くの凝縮した出来事を共有してきた。少年期から壮年期の重要な人生の一時期でもあった。出来事のあれこれの判断を中止して、何があったのか、その事実を並べ、そのことにコメントを加える。

高校時代(1954〜57年)プラス1年



○ 高校1年の7月、鈴村君から「挙母平和を守る会」を結成するから参加しないか、と勧誘があった。しかし、わたしは蓄膿の手術を予定していたので結成には参加しなかったが9月、入会金を支払った。
○ 高校1年、図書クラブで読書会、テキストは野間宏編集『青春と革命』(新書版)であった。
○ 高校1年、鈴村君が原爆禁止のストックホルムアピール、ウイーンアピールの署名用紙を廻してきたので署名をした。
○ 日本共産党の火炎ビン時代(1年から2年にかけて)、鈴村君が党機関紙「アカハタ」を配達していた。彼から勧誘され購読、週2回ほど学校でうけとった。「アカハタ」には、火炎ビンが燃え上がる写真が載っていた。彼の父親がトヨタで製造された軍用トラックが飯田街道を通って新潟港へ。軍用トラックが朝鮮戦争に加担している。それを阻止しなくてはいけない、とアジった。このことを受け、松平の里山に登った時、「イタリアパルチザン」の歌を合唱、パルチザン気取りになっていた。
○ 高校1〜2年生のころ、サークル「木曜会」を結成、読書会を開きモーリス・コンホース著『史的唯物論』を輪読した。また、対学校との「闘争」(東校舎の女子高化反対、歌声運動への弾圧、生徒会役員への立候補など)について「謀議」を計っていた。
○ 鈴村君から非公然共産党の地下出版物『球根栽培法』『○○○』を借りて読んだ。また、戦前の経済学者河上肇の伏せ文字の多い本を借りて読んだ。
○ 雑誌『思想の科学』(第1期)で上山春平先生(当時、愛知学芸大学教員)と鈴村鋼二君の対談が掲載され、彼から借りて読んだ。わたしがまつたく知らないマルクスやレーニンの著書名を、あれもこれも読んだ、と彼が言い、上山先生が褒めているのか揶揄しているのか、「すごいね」とでも言っていた。
○ 高校2年、鈴村君が生徒会副会長に立候補したので応援した。彼が学校の圧力に屈し立候補を取り下げたので文句を言った。
○ 高校1年〜2年、「歌声運動」に参加した。旧役場横にあった市民会館でロシア民謡や中国革命の歌などから童謡などを歌っていた。「仕事の歌」「トロイカ」「ともしび」から「イタリア パルチザンの歌」などを覚えた。教師から弾圧があった。
○ 高校3年生の秋、鈴村君、故S・T君、渡久地の3人で『共産党宣言』を輪読した。(新見幾男君は休学中)
○ 1957年2月、スターリンが死んだ。鈴村君がひどく悲しんだ。同年夏から秋にかけて、スエズ戦争、ハンガリー動乱。秋、サルトルの『スターリンの亡霊』が『世界』に掲載され、スターリンはおかしいのではないか、がうすうす認識された。彼とは、月に1回ほど会っていた。
○ 1957年の秋ごろ(浪人中)、日本共産党愛知県委員の加藤進氏が民団(朝鮮総連)事務所(当時「挙母駅」前にあった)で、「火炎ビン闘争」は間違っていた、と発言したので、わたしは飛び上がるほどびっくりした。鈴村君もいたはずだ。

大学時代(1957年4月〜61年2月)


○ 1958年ころ、リーダーの神谷長さんが多くを語り、雑誌『思想の科学』やその系統の本を輪読していた。鶴見俊輔氏らのプラグマティズムもこのころ知った。神谷さんは、岩波・NHK・講談社を毛嫌いしていた。権威面、権威臭が嫌いだった。読書会のテキストは、マルクス主義の文献はまったくなく、藤田若雄著『サラリーマンの思想と生活』(東洋経済新報社)が記憶に残っている。この本はわかり易く、わたしにも理解できた。

○ 大学1〜3年(1958〜60)にかけて、東大生であった鈴村君がせっせと情報をもたらした。新左翼(トロツキズムを含む)では黒田寛一編集の『探求』も鈴村君から借りて読んだが意味は理解できなかった。社学同の『理論戦線』(1958年12月11日)やブンドの『共産主義』(1959年8月1日)も彼が豊田で販売したので購入した。1958年夏、彼が「青木昌彦というすごい奴がいる」と熱ぽく語っていたので、わたしは青木昌彦の名前を記憶した。青木氏についてはこの後、書く。
○ ただ、鈴村君は同時に、ダンハム著『現代の神話(上・下)』(岩波新書)、ゴルドマン著『人間の科学と哲学』(岩波新書)やJ・ルイス『マルクス主義と偏見なき精神』(岩波現代叢書1959年版)、カ―ル・ポッパー『歴史主義の貧困』(中央公論社)などをも紹介した。
○ わたしは学生時代、挙母高校生(現豊田西高)と読書会を開き、チュターをつとめたが、テキストはダンハム著『現代の神話』だった。ダンハムは今読み返しても、理解可能だが、ゴルドマンは理解不能である。 ○ 青木昌彦氏と鈴村鋼二君について、これはわたしの一方的なまとめであるが、50年ぶりに繋がったので書いておく。2007年末、日本経済新聞の「わたしの履歴書」に青木昌彦氏が30回にわたり書いた。29回の写真には、「CIDEG創立記念パーティーで。渡辺トヨタ社長(中央)と謝清華大副学長(左)と」とあった。この写真を見て、わたしは歴史の捩れを感じ苦笑いした。わたしたちが闘ったトヨタ自動車、そしてシンパシーを抱いていた中国に対し、一時期(1958〜60)同じ戦線にいた青木昌彦氏が50年後、写真にトヨタと中国側とに並び、今、わたしたちがトヨタと中国から一番遠い存在になっている、この対比が滑稽だった。蛇足だが、鈴村君が卒業した中学の後輩(5〜6歳くらい下か?)が渡辺社長(トヨタ自動車)である。青木昌彦氏は、1938年3月生まれ、東大には現役で入学している。鈴村君は、1浪して東大に入学した。入学にあたって彼は、わたしたちに宣言した。「日本共産党綱領を書き換える」と。ところが入学したそこに、同世代の青木氏が既にいた。そして日本共産党批判を理論的に展開していた。彼がうけた衝撃ははかりしれないものがあったに違いない。当時、わたしは、ペンネーム姫岡玲治・青木昌彦の経済論文を読み、同じ世代(詳しくは10ケ月わたしの方が早く生まれている)の男がこんな凄い論文を書くなんて…、と驚かずにはおれなかった。いま、姫岡論文『激動・革命・共産主義』(「理論戦線」)を読んでみると、一国社会主義の破綻、スターリン批判(1956)を成したのに平和共存路線は帝国主義の根を残すものと批判していた。
○ 東大に入学した鈴村君は、多分、日本共産党東大細胞には、怖気づいて入党できなかったのではないだろうか。わたしの経験したエピソードだが、1965年、中核派の北小路敏氏が杉並区から区議会議員に立候補したのを応援に出かけた時、清水丈夫氏(鈴村君は、東大駒場では同じ寮にいた)に会った。「鈴村君と一緒にやっている」と言ったら、すぐに思い出し、「あの日和見が…」とつぶやいた。今、このエピソードを思いかえすと、鈴村君は、清水氏や青木氏に衝撃をうけたのではないだろうか。
○ これはまた、別な観点から考えなければならないが、丸山学派(故丸山真男、石田雄氏ら)の政治学を学ぶことに鈴村君は挫折したのではないだろうか。豊田に逃げ帰る口実として「名大医学部に再入学」したのではないか。当時、彼の心境など理解できなかったわたしは、彼が地域から闘いを構築しなおす。故谷川雁の九州サークル村、大正行動隊、故杉浦明平・故清田和夫の渥美の地域闘争、長崎造船(長崎社研)のような闘いを豊田市(挙母)で起こす、という熱のこもった発言を、すなおに受け入れた。
青木昌彦氏は、先の『わたしの履歴書』で、清水丈夫氏・故北小路敏らとの別れについて「彼らには必要な時には、人生のリスイッチを試みる勇気が欠けていたのではないか」と書いているが、鈴村君は青木、清水氏とも結果的に「よい」別れをした、と思う。

地方新聞社(1960年12月〜63年4月)


○ わたしが潰れかかっていた地方新聞社の記者をしていたころ、鈴村君は名古屋に住み、豊田市を離れていた。だが、鈴村家の彼の部屋で集まり、1962年夏に豊田市政研究会を結成した。このころ彼から「知的刺激」をうけることはなく、リーダーは神谷さんだった。故杉浦明平さんの「渥美」、故谷川雁の「大正行動隊」、長崎造船の「社研」のことを語り、黒川君を守る会(事務局長は渡久地政司)の方針をたてたのも神谷さんであった。鈴村君は、名古屋にいて、黒川闘争の弁護士との取次ぎの役割を担っていた。

市議会議員(1963年4月〜1987年4月)


○ 1963年4月の豊田市議会議員選挙の「裏方」を担ったのは、神谷長さんと新見幾男君であった。2人で7割方背負ったのではないか。見える部分を担ったのは、鈴村君だった。彼が名古屋大学、名古屋工業大学の学生(10人以上はいたはず)を説得して連れてきた。そこに岐阜大学と愛教大の学生が加わった。街宣活動で訴え、演説内容についての方針は、鈴村君に負う部分が大きかった。彼が「30歳以上の票は全部いらない、そのかわり20代の人は全員トグチに投票せよ」と過激に演説した。わたしは戸惑い、何を言っているのだ、と文句を言ったが、選挙演説では「的を絞る」ことが大切なので、彼が正しい。彼の連呼を避け、事実だけをたんたんと語る、の方針も正しい。
○ 1963年夏から約1ヵ年続いた市有地鞍ケ池ゴルフ場反対闘争や議員報酬引揚反対闘争においても鈴村君の果たした役割は大きい。黒川孝夫君の救援活動、ベトナム反戦脱走米兵支援。そして、松下圭一先生の「シビルミニマム」の思想を豊田市の仲間に伝えることなどでは大きな役割を果たした。
○ こんなエピソードがあった。1968年初冬、わたしたちは、社会党員の矢頭_太郎氏に豊田市長選挙立候補を要請したが失敗した。直後、鈴村君が「こうなったらオレが(犠牲になって)立候補する」と言った。そこで、正式な会議を開き、全員一致で民主的に立候補を決めた。わたしは地方新聞社のN社長に供託金などの選挙資金をつくってほしい、と頼んだ。豊田市役所内の記者クラブで立候補の記者会見、発表をおこなった。その直後、このことを知った神谷長さんが烈火のごとく怒鳴った。「バカ、コーちゃん(鋼二名の頭文字)がやれると思っとるのか」と一喝した。その一声で、数日間の準備作業は萎んでしまった。わたしは選挙資金をN社長に返した。
○ 鈴村君は、松下圭一法政大学教授を直接豊田市に招請した。また、著書を紹介した。松下圭一著『現代政治の条件』(中央公論社・1969年)、『シビルミニマムの思想』(東京大学出版会1971年版)。
○ 鈴村君だけでなく神谷長さんも、秋元松代作品を評価していたのでわたしは、『秋元松代全集』を入手、丁寧に読んだ。
保守思想でもきちんと地域なりに根付いた思想を評価し、そこから学ぶ、という姿勢は、鈴村君や神谷さん、そして故竹内洋治(遺稿追悼文集『なくてぞ人は』2003年8月)にもあった。
○ 脱線するが、鈴村君にとって故竹内洋治はきわめて大切な人物だったと思う。「鈴村君と竹内君」については、表層のことしかわたしにはわからないが、両人は表面的には、両極端という感じだが、精神的には「双生児」だとわたしは思う。遺稿集『なくてぞ人は』で鈴村君がまつたく消えているが、彼を抜きにして竹内君を語ることは不可能だ、とわたしは思う。わたしは竹内君とは、彼が高校生のころに会っているが、竹内君とふたりだけで話しはじめたのは、1967年夏からだ。彼から鈴村情報を補完する情報をたくさん得た。例えば、柳田国男は、全集には「前書き」「版注」などが落ちていることがあるので単行本で確かめるべきだ、として『秋風帖』(三河を記載)を貸してくれた。
○ 脱線ついでに竹内洋治君のことを少し書く。鈴村君と竹内君の住まいは、豊田市の都心、直線距離にすると2〜3百bくらい。年齢は鈴村君が上で4〜5才くらいの違い。小中学校は同じ。東大法学部政治学科で先生もほぼ同じ。二人は、地域では秀才で有名。だが二人は、「生活者としての知識」を欠く「奇人」だとわたしは思っている。わたしがこの二人から学んだことは、実に多い。1968年8月、竹内君と二人で飲んだ時、わたしの沖縄観を聞きながら、竹内君が「沖縄こそ日本だ」と言った。彼の指摘は、的をいっていたので、このフレーズは採用してもらった。また、彼が夏目漱石に語りはじめたが、わたしは「ぼっちゃん」しか読んでいなかったので、漱石の何を語りたかったのか、聞く知識がなかった。今、後悔している。二人の違いがわかるのは、チェ・ゲバラが暗殺された時に、二人が書いた小文だ・「月刊市政研」(No○○号)掲載。
○ ベトナム反戦・アメリカ脱走兵をかくまう支援活動で、鈴村君の果たした役割は大きい。わたしは、鈴村君の後方に強力な組織があって、その指示によって彼が動いている、とつい5年ほど前まで思っていた。実は、彼と非公然の2〜3人が中心だった。「脱走兵の話」は、秘密を守ることが要請されるので、秘密めいたことは一切聞かなかった。今、思うと鈴村君にしてはよくやったな、が正直な思いだ。彼は理屈だけは述べるが、実際の活動となると、事務的なことから買い物まで、彼の手足になる人物がいなければ何もできないのだ。非公然の2〜3氏が果たした役割、その苦労は並大抵のものでなかったはずだ。

別れ(1979〜80年)


○ 人間、個性の強いプラスの資質もマイナスとなることがある。鈴村君を高く評価し、崇拝している人もおれば、彼をひややかに軽蔑の眼で笑っている人もいる。公衆の面前に登場させると、彼は間違いなく孤立し、自己破綻をきたす。そのことを神谷さんは一番よく知っていた。鈴村君は、その場を「うまく繕う」ことを「よし」とする俗にいう「政治家」ではない。
○ 鈴村君とわたしの別れも、「非」は彼にあるよりわたしの方にある。なぜならわたしは、彼の主張する「多数決民主主義」を断固拒否したのだから。引き上げられた議員報酬を受諾するか否か、会員とシンパの採決でことを決定しよう、という彼の提案をわたしは断固拒否した。そして、鈴村君は、「渡久地の除名」を提案、多数決で可決した。その後、第三者による政治的配慮から渡久地が「離会届け」を提出する、ことで政治的に繕い、落着となった。
○ このことを神谷さんは、ガキ共のケンカとして大笑いした。
○ こんなエピソードもあった。この騒動を鈴村君にとって師というより「兄貴」と慕っていたN先生(後京大教授)も聴きつけ、心配して彼とともにわが家にやってきた。すでに先客として故村松弘平氏(三河地区自動車交通労働組合書記長)らもいて、アルコールが入っていた。鈴村君も飲んでいた。対立の原因について彼が吐き出す調子で甲高く説明した。わたしは、かなりイヤミをこめて反論した。「鈴村が言うような多数決民主主義などと高尚な話しではない。もっと下世話なことだ。カネ、カネ…」と。そして、鈴村君を口汚くののしり、N先生の前で大恥をかかせた。村松書記長は面白がった。N先生も酔ってはいたが、冷静に「そのようなことを言ってはいけない」とわたしを諌めた。自尊心の強い鈴村君が、深く傷つき、恨みを持ったことは確かだ。
○ ここ25年間、鈴村君が書いた文章を2点読んだ。
@ 東大丸山ゼミOBの同人雑誌に鈴村君が 「内藤國男君への手紙」で近況報告(末尾に渡久地批判、固有名詞を使わず「奴は」)。
 この文章を受けて…故内藤國男氏から渡久地への年賀状。
 (下 写真。元毎日新聞社記者)

  A 雑誌『像』(50号・2004年)で鈴村君は「作家・磯貝治良」批判。
鈴村君の「A」磯貝批判の姿勢、口調、文体は、「@」昔から衰えてはいない。声、所作は聞こえも見えもしないが、甲高く怒鳴り散らしている映像が浮かんでくる。
○ 鈴村君とは、40歳前後、傷つけあって「別れ」た。
マルクス主義が色あせ、革命の時代は幕をおろし、彼とわたしとの「出会いと別れ」は、出会えたことはよかったが、あの時、別れていてよかった、と思う。別れていなかったら悲惨なこと、何が起きても不思議ではなかった。前後してわたしの周囲では4人もの自殺者が発生していたのだから。
○ 今、わたしは「愚かしくも70歳」(08-03-08)になった。本格的なボケが発生する前に鈴村鋼二君との「出会いと別れ」をまとめ、過去を総括し、残り少ない時間を有効に使用することにした。