■ K 市議会議員考・顕在ー潜在意識から考査 ■

08-07-09 初掲載


14-11-10 訂正


市議会議員考・わたしのケースを分析、検討する


                  

渡久地 政司


                     (元豊田市議会議員)

リチャード・バレットは、マズローの欲求5段階とインド哲学のアーユルヴェーダを統合して7段階にまとめた。この7段階は、人間の欲求のレベルを示すとともに潜在意識の開放と連動している。 人間の意識は意識している顕在意識と意識していない潜在意識に分けられる。いやなことは潜在意識に封印されていて、潜在意識のなかにある恐怖が無意識に防衛的行動をとる。安全な状態ならば、ストレスがかからず高い次元の欲求を満たすことができるが、ストレスがかかる日常では、潜在意識に封印されている恐怖に支配されているので、低次元の欲求しか滿ことができない。欲求は、階層構造になっているので低次元の欲求を満たしてからでないと上の欲求を満たすことができない。
(長山宏氏のレジメ参照)

わたし(渡久地政司)のケース



市会議員であったころの渡久地政司を7段階説の手法をもちいて検討する。

@ 安全―当選欲求
A 人間関係―有権者等との関係
B 尊厳―当選・自負心
C 自己成長―自己研鑽
D 意義―理念・議員活動の意義
E 貢献―社会貢献
F 奉仕―ギブ アンド ギブ


@ 安全・当選欲求

―選挙に立候補するからには、当選をめざす。当選することにより生活は4年間保障され、安全は確保される。わたしの場合、最初に立候補した時(1963年・25歳)は、当落を考えなかった(立候補を4月7日に決め、立候補受付まで1週間しかなかった)。自己生存・安全を考えずに、唐突に立候補した。2期目(1967年・29歳)の立候補は、当選しなければ生活・生存が危ぶまれ、当選しなければならない、という顕在意識が働いた。3期目(1971年・33歳)と4期目(1975年・37歳)は、一緒に立候補した小林収候補の当選を優先させる、という使命・責任感が働いた。5期目(1979年・41歳)と6期目(1983年・45歳)は、落ちるなら落ちてよい、と落選への恐怖心はほとんどなかった。「有権者が候補者を選ぶように、候補者も有権者を選んでもよいのではないか」、と覚めた発言をしていた。そして、7回目(1987年・49歳)の選挙では落選した。落選した時も、生活への恐怖感はなかった。他人の事のような、無責任な、夢みる思いだった。当選して悪夢のような議員生活を続けることから離脱できてホッとするところもあった。 生活不安―1963年〜1979年までの選挙と活動は、簡易耐火第2種の2LDKの県営住宅で1男2女のこどもと共に生活した。また、ここが議員活動と闘争拠点でもあった。狭い室内だったので息子の寝室は、押入れの中で、わたしたちは雑魚寝をした。惨めさはなく、若さと「気負い」が勝っていた。1975年ころまでは、将来への不安と恐怖は、「社会変革」への意義と「議員としての社会から認知されている」という自負心・尊厳で克服していた。しかし、怯えが無かったか、と言えばウソになる。 それは、外からでなく革新運動の仲間内の変化・各人の動きにあった。仲間の言動に気を遣い、気になっていた。次にそのことを検討する。

A 人間関係

―人間関係を内と外で検討する。内は家族、一族と革新運動仲間。外を有権者と闘争相手。
家族は先にも書いたが、1男2女と妻の妹、それに妻の兄弟・姉妹が生活圏のファミリー構成であった。そして、わたしの両親と兄弟が経営する食肉店が近くにあった。生活圏のファミリーは、未解決な問題を多々かかえていたが、わたしを苦しめる程のものではなかった。むしろ、困難をバネとして前進しなくてはならない、という連帯意識が強くあった。わたしは、ファミリーには生活上の困難を敢えて強いた。また、活動にも参加することを強制した。機関誌の印刷、綴じ込み、配布をやらせた。幼稚園児であった末娘にも少数だがパンフレットの配布をさせた。
 親兄弟の親族とは価値観を異にしていた。だが、生活の糧の一部と選挙で支援を得なければならない、という負い目を常に抱いていた。親族の方も支援しているのだから、と言う傲慢な要求もあった。しかし、これらもわたしを苦しめる程のものではなかった。何とかなるだろう、と親族への甘えと「犠牲」を強いることを敢えてした。
革新運動仲間は、豊田市政研究会と労働組合であった。豊田市政研究会も初期(1960年代)と中期(1970年代から80年代初期)では、そこでの人間関係には変化があった。初期は、中村敏郎さんが理論・行動方針のほとんど決めていた。わたしは闘争の準備と参加、後始末をしておればよかった。このころの人間関係には少しも不信感はなく、未来へのロマンであふれていた。中期、同僚の小林収市議と行動を共にした。彼はバランス感覚に優れ、考えもしっかりした「優等生」であった。彼は1度目の選挙では失敗し、2度目の選挙ではわたしは責任を感じていたので、彼の選挙体制への気配りに終始した。中期は、日本の「新左翼(市民)」運動にも大きな変化があった。反映して豊田市政研究会にも変化があった。中村敏郎さんが運動から身をひき、わたしと同年の鈴村鋼二君が采配をふった。このころからわたしと豊田市政研究会内の人間関係はすこしづつ険悪となった。原因の多くは、わたしにあった。社会変化に適合せず、過激な行動と唐突な計画をたてていた。過激派との腐れ縁も切れておらず、一方、大正行動隊=筑豊企業組合や静岡商工会のような生活活動拠点として印刷工場を建設する構想を十分調査もせず、しかも担う人物の資力・能力を考えずに強引に牽引した。個人経営でも困難な印刷業を豊田市政研究会の内部なのか別なのかをもあいまいにして設立する誤りを犯した。
労働運動では、1期目は、社会党系の労組の選挙支援をえた。豊栄労組(後の三河地区自動車交通労働組合)との交流が活発となり、市民運動や労働運動の間に相互に闘争支援があった。2〜3期目、60年代後半から70年代前半には、三菱自動車、豊田自動織機製作所内の活動家、三河地区自動車交通労働組合の闘争支援などを新左翼運動と連動しておこなった。後、過激派とよばれる新(革命)左翼組織とも直接・間接接触があった。 危険なことから身を守る、は本能である。不安・怯えは誰でもが抱く。政治闘争は、その不安・怯えをかかえながら、未知への闘争の理念に意義の比重が少しでも移った時、前進することができる。わたしは市会議員として、乗り出した舟、トコトンやってみるさ、と割り切っていたが、過激派との連帯と支援闘争は、革新運動の仲間には重荷となった。彼らの妻や家族は、わたしとの接触に不安・恐怖を感じた。当然のこととして革新運動の仲間は、安全で楽な運動になびいた。その口実として、わたしの欠点を闘争の真っ最中に執拗に指摘した。「後ろからの鉄砲の弾はあたる」。わたしにはなすすべもなかった。革新運動の仲間がわたしから離れてゆくのは自然であった。
 わたしの選挙運動の支援者は、1期目は豊田市政研会員と社会党支持者が比較的多かった。2期目はそれにプラスαして、宮口上の居住地の有権者票を確保したので第2位で当選した。3期目は、小林候補と共に立候補し、豊田市政研究会票は小林へ集中させたが、労組票はわたしが確保した。4期目は小林候補に、わたしの親族票までも移動させ、根こそぎ小林票とした。 4期目からのわたしの運動員と支持者の構成は、市外から事務能力のある人に長期滞在してもらい、わたしの住む地域の有志が選挙運動母体であった。この有志は、通常の国政・県議選挙では、自民党候補に投票行動をとっていて、わたしの主義・主張と関係なかった。選挙運動員の意識を変えることができなくて、どうして多くの市民の意識を変えることができるのか、と言う矛盾を抱えていた。 冒頭の欲求7段階説、意義の項に相当することは、わたしに適用すれば平等社会=社会主義=市民社会である。その理念を支持者や運動員に理解してもらう努力が不足していた。1〜4期目までは、その努力をほとんど行なわなかった。行なったことは、市役所は非効率で反市民的なことばかりしているので、異議申し立てを行なう。そして、運動員と支援者の生活上の困難・阻害要因の克服・解決に役立つことは行なう、は伝えた。
4〜6期目は、生活改善や心の問題にも取組んだ。きっかけは山岸会の研鑽会にわたしが参加し、そこで得た手法を仲間の中で実践してみた。1ケ年くらい山岸会の「いかり研鑽」の手法で学習会を毎週試みた。支援者が変わらない限り市民・平等・社会主義など夢のまた夢でしかない、と真剣に考えた。しかし、目に見える成果は得られなかった。 意識改革で一番困難だったのは、親族であった。親族は、身内から市会議員が出た、そのことが社会的ステータスと誤解していた。とくに父親と長兄はそうであった。このことを制御することは不可能であった。  議員活動では、人間関係が一番むつかしい。その人のため、と思っておこなったことでも、結果がマイナスに作用するとその跳ね返りがひどい。それをいちいち弁解していたらきりがないので、問題を抱えたまま時間がたつのを待たねばならなかった

B 尊厳

―当選、自負心
市会議員は、ステータスであるという意識が社会一般に存在する。この市会議員の特権や議員意識をぶち壊すことが一期目にわたしにあたえられていた任務・使命であった。市会議員は「特別な存在」という意識が支援者にも親族の中にも色濃く存在していた。「特別な存在」意識をぶち壊すのだから、特攻隊員のように自爆覚悟でやらねばなない。議員特権の象徴の「議員バッチ」をつけなかった。議員特権の飲み食いを攻撃することは、有権者にわかりやすかった。これを潰すのに一朝一夕にできることではない。まず、自分から公費での飲み食いをしない。議員視察の温泉旅館での宴会(芸妓をよんで)は禁止。これは1年目で実現することができた(食料費裁判では、部分勝利の判例をつくった)。議員野球への公費支出も中止させた。特権意識の最たるものは、お手盛り報酬引き揚げであった。引き上げに猛反対した(第3次闘争まで展開、与党議員の自宅周辺にビラを貼りまくり、議員と家族を恐怖に追い込んだ)。与党議員が「引き揚げられたら受け取るのだろう」、と逆襲してきた。わたしは引き上げられた部分の受理を拒否し、市会議員であった24年間、この姿勢を貫いた。だが、豊田市政研究会でのお手盛り議員報酬引き上げ反対闘争の結末は悲惨であった。4〜5期目、鈴村鋼二君の「決まった以上受理せよ、活動資金に使用すればよい」という提案をわたしは拒否した。「多数決で決まったら受理するか」、と迫ったのを拒否した。豊田市政研究会内民主主義を蹂躙した、として全員一致で除名処分となった。
議員一般への尊厳とは、信頼される、ということにつきる。市議会闘争の場合、言行一致の姿勢をとることで、一般市民からいくらかの信頼を得ることができる。わたし自身もそこで生まれた信頼を自負心=尊厳と理解し活動の糧としていた。資金も地盤も組織も小さいわたしにとって有権者から得る信頼こそが唯一の財産であった。それが損なわれることに同意することは、できなかった。 冒頭の欲求7段階の@安全 A人間関係 B尊厳 の3つは、切り離されて存在していない。有権者の信頼を失うことは、有権者との人間関係を悪くする。そして、安全・生存を脅かす。この@〜Bまでは、自分自身の顕在意識がかかわる問題でもあった。

 この@〜Bまでを踏まえて、自己研鑽・自己成長について検討してみよう。自分が知識として学んだ「共産主義・社会主義・市民主義」を自己研鑽・自己成長をとおして自分の血肉にし得たか。結論から言えば、その学習、訓練をおこなわないままに社会・市民運動に飛び込み、市会議員となり、闘争に明け暮れた。こんな状態だったのでわたしの活動は常に支離滅裂、破綻は必至であった。
そのことに気付かせてくれたのが山岸会(特別講習研鑽会)であった。山岸会への疑問は多々あるが、学ぶことも大きかった。まず、自分の意識(心のありよう)について、山岸会に出会う前は、まったく考えなかった。山岸会の係りのYさんからミハイル・エンデ著『モモ』と吉本隆明著『最後の親鸞』の2冊を紹介された。以後、10余年、エンデと宗教家の本を数多く読むきっかけとなった。豊田市政研究会との別れもここから始まった。自己実現・達成・成長は、イモムシが蝶に変身するように、格好よくいえば、止揚ということなのだろうが、心の研鑽には完成がなく、生涯にわたって続けなければならない。この気付きは重い。 欲求7段階では、利他の境地として、意義、貢献、奉仕をあげている。
市会議員は、常に意義、貢献、奉仕を直接言葉にし、それの実現に努力するのだが、@〜Bまでの利己から離れることができない。いくら利他を言葉にしても選挙という利害関係が発生すると、利己は元の木阿弥になってしまう


   

利他 D意義、E貢献、F奉仕


 大学を卒業する時(1961年2月)、ゼミナールの山本二三丸教授が「あなたがたにマルクス主義を教えたが、政治活動に参加するならば、お前のマルクス主義はキライ(受け入れられないが)だが、お前はいい人間だから、お前のためなら人肌ぬぐ、という人を5人つくってから行ないなさい」と言った。そして、戦前の地下活動期、日本共産党の若き幹部・伊藤律の場合をあげ、「律へのカンパを集めてまわった時、律の考えや主張は支持しないが、人間・律とその政治活動を支持するとしてカンパを得ていた」と語った。わたしは、体制側の地位のある方からカンパをいただいた時など、このエピソードを思い出した。
市会議員に当選して3期目(12年間)までは、わたしの議員・政治活動を認めての支持やカンパがあった。だが、4期目ころからは、肝心のわたし自身が自己実現・自己成長のための「変換」(欲求7段階)・止揚を成し得ず、雑多な活動の日々に明け暮れていたのだから急速にカンパは縮小、やがて消えた。

このことを更に検討してみる


議員活動の4〜6期ころ、票になるかどうかを基準にしている自分の気付いた。そして、選挙に直結することかどうか、効率のよい活動かどうか、を計っていた。生活相談において、とりとめのない長話には付き合えない、と思うことが度々であった。ギブ アンド テイク(票になる)が基準となっていた。そうなると有権者の方も目に見えない理念よりも現実的かつ具体的な利益を要求するようになる。運動員が金銭貸借の保証人になることを強要してきた。また、お金を借りにきた(大半は寸借サギ行為)。それも露骨になった。わたしは運動員・有権者を、こんな意識の持ち主に育てたのか、と自己嫌悪に陥った。自分がおこなっている市民への貢献・奉仕活動は、結果的には自分の選挙・有権者獲得なのだ、と割り切ってしまうのも一つの解決策だが、割り切りが日常化すると、有権者獲得の手段になってしまう。選挙直前には、選挙に有利か否か、選挙に役立つかどうか、に徹底しないと時間とエネルギー効率が悪くなる。理念は単なるスローガンとなり、せつかく身に付きかけたよい習慣も消滅してしまった。 議員でなくなって20年、今なら素直な気持ちで社会的意義を考え、邪心なく貢献・奉仕を行なうことができる。おこなう以上、経費は他に頼らず全額自己負担。ギブ アンド ギブで行なえる。議員である限り、「意義・貢献・奉仕」を純粋に遂行することきは不可能である。

71歳からのスタート


24年間の議員活動の「垢」を洗い落とし、議員体質から身と心を開放するのに20余年かかり、今、螺旋状に一巡した。
71歳となり、今、新たなスタートラインに立っている。

 これまでのことを簡潔に総括する


 まず、有権者について考えてみる。量→質 有権者が「量」として存在している。ここから自分に投票してくれた人を「質」としょう。まず、量としての有権者の大半は、既成政党支持者か政治・選挙ぎらいか無関心、そしてなんらかの利害関係にからまっている人々である。
ここから自分に投票してくれる可能性のあるのはどのような人々なのか。そしてどのような人々をターゲットにして自分の考え、主張を訴えるか。また、それが可能か。 わたしの場合、革新運動の仲間がいた。そして、豊田市で育ったので同級生がいた。親・兄弟と親戚がいた。県営住宅と農村の集落があった。1期目は、革新運動の仲間と親族、居住地から当選に必要な「質」の40%くらい獲得をめざし、あとは全地域ひろく訴え、集票をめざした。そして、30名のうち11位と中上位当選を果たした。この獲得票の「質」の分析では、確証はできないが、わたしは獲得票の半分は把握不可能だと思った。2期目の選挙では、第2位高位当選だった。革新運動の仲間の士気はたかまった。そして、3期目は同志・小林収君と複数立候補だった。革新運動の仲間の票(労組票を除く)は全部小林票としたが、小林君は惨敗した。わたしは、小林君は農村地域の名士の家柄出身なので獲得票の半分は地縁票と推測した。4期目、わたしの親族票までゴッソリ小林君に移動した。そして、小林君・渡久地ともに中位当選を果たした。わたしは、小林獲得票の50%は、地縁票だ、判断したが、革新運動の仲間は、自分たちの成果だ、と強調していた。
候補者も運動員も、「量」の有権者に働きかけて「質」にするには、「信用されているかどうか」が全てである。平等社会、社会主義社会実現の理念をいくら語っても「馬の耳に念仏」、票にはならない。「量」の有権者が抱いている不安・恐怖・困難を具体的に「除去」する方策を提示し、自分はどれとどれをどのようにして解決してきたし、解決する、と約束しないかぎり、「量→質」の転換はなされない。わたしは、革新運動の仲間のうち、2〜3人しか「社会的信用がない」と思っていた。また、自分の選挙運動員の大半が、わたし以外の選挙では、自民党系に投票行動をしていることを知っていたので、わたしの4期〜6期、そして7度目選挙では、運動員と有権者を「だましだまし」サーカスの綱渡りのような選挙を行なっていた。
次に一番大切な、候補者のわたしが、人間として、「量→質」へとの向上、自己実現、自己成長がなされたか、を検証してみよう。
1期目(25歳)は、ソヴエット・スターリン体制は間違っている、と考えていた。しかし、中国・キューバに期待したし、ヨーロッパではイタリア共産党のトリアッチ思想、イギリスのニューレフトが希望の星であった。日本共産党の宮本体制は間違っていても渥美半島(愛知県)には作家・杉浦明平さんと有能な活動家・清田和夫氏たちの運動があった。三菱重工長崎造船所では長崎社研、九州筑豊では詩人・谷川雁率いる大正行動隊の労働運動と文化運動があった。豊田市にもこれらを参考にして、運動を構築して実現しょう、というロマンがわたし自身にも仲間にもあった。この姿勢は、1〜4期目1980年代まではあった。しかし、このロマンは、やがて消滅した。わたし自身も、雑多の情報と雑用に振り回され、精神分裂の状態となっていた。人間磨きより先に雑用処理に悩まされていた。睡眠をとるため酒を飲んだ。酒をうまいと思って飲んだことは一度もなかった。革新運動仲間も似たり寄ったりだった。
議員をやめて1〜3年間、社会復帰のリハビリ期間であった。水道工事の雑用や街路樹清掃人夫、鉄工場で鉄板に穴をあけていた。 こんな体験を積んだが、24年間の議員体質(マイナスの)は消えなかった。ただ、このころになってプラスの議員体質もあるのではないか、ということに気付いた。自分には調査能力がある。これを活かそう。 沖縄関係調査で、昭和初期琉球レコード盤が名古屋で制作さたことの調査。次に作家・久志芙沙子調査。そして愛知県下での沖縄関係調査では、数々の小さな発見をすることができた。 反戦平和の闘いにおいても、他組織・人の土俵でおこなうことを意識して避けた。行なう場合、自分でしかできないことを自分の金で行なう。自分流のやり方で行なうことにした。 わたしは、市会議員のマイナス面をプラスに転化する方法を見つけた。

60歳、還暦を機に酒をピッタリ断った。
64歳、パソコンを4ケ月習い、ホームページを開設した。
71歳(08-07-09)、市会議員で得た体験・「利己」を制御し、「利他」の ギブ アンド ギブ を実践する。
人生、これから始まる。