■ 11959-02- 加茂民衆新聞 沖縄で見たこと」 ■

沖縄で見たこと
渡久地(toguchi)政司v  1959年
新聞は紛失・原稿(下書き)で再現

   昨年(1958年)8月、沖縄に行った時、ハーバービュー広場で那覇市会議員当選者歓迎会の集会に遭遇する機会に恵まれた。
かねがね、瀬長亀次郎氏の演説を聞きたいと思っていたので、このことを新聞で知るや、従兄弟に「ハーバービュ広場に行かないか 」と言ったところ、従兄弟は暗い顔をした。熱心な人民党支持者なのに不思議だな、と思った。「実はわれわれも歓迎会に行きたいのだが、 人民党主催の集会に軍作業関係に従事する者が参加すると首になるのだ。メーデーに、Kさんが参加したので、首になったくらいだ」 とさびしそうに言った。ぼくは沖縄の軍政の恐ろしさをまざまざと知らされた感じがした。それで、瀬長氏の演説を聞くことを諦めることにした。
 夜10時過ぎ、国場組の事務所の前を通った時、拡声器から何やら聞こえてきた。「あそこがハーバービュ広場ですね」とみれんがましい声を あげたので、Kさんが「せっかく沖縄に来て、瀬長さんを見ないで帰るのは残念でしょう、行きましょう」と言った。「大丈夫ですか」と言いつつも 歓声の聞こえて来る方に足は向いていた。
 広場は熱狂する市民で埋まり、歓迎会は、まさにクライマックスに達していた。アメリカの悪口は、みな方言を使っているようだ。「アメリカ」 の声の後は、必ず爆笑と拍手が起きた。舞台の近く、明るいところは、老人、女、こどもらが占領していた。若者たちは、暗がりに立ち、スパイの 眼を逃れながら聞いていた。暗闇で聞いている人は、かなり多数いるようだ。
 カメが出た 出た カメが出た 那覇の市長にカメが出た あまりカメが強いので、さぞやアメリカ怖かろう サノヨイヨイ
 で聴衆はドッと湧いた。ヨォ!まってました、との声とともに人民党の議員が浪速節をやりはじめた。
 蝶とイモ虫とトンボ の話である。蝶がイモ虫に恋をするなら泥ンコ(日本)としないでトンボ(アメリカ)としなさい、と親切に言う。 蝶は美しい羽根を翻し、トンボと恋をし、食べられるが、イモ虫は泥ンコをはっていたので助かった、大地をはって祖国日本の土地を守る 、土地と恋をするイモ虫の勝利を面白おかしく語った。この人が兼次佐一氏であったように思うが、確かめていない。
 暗がりを利用しながら瀬長氏が見えるところまで近づいてみた。市民に守られた瀬長氏は、モーゼのように思われた。
 チュウの五条の橋のワビ/ウヒナのイキガの弁慶が/ナガサヌなぎなたふりあげて/牛若めがけて切りかかタイ……
 沖縄方言で牛若を瀬長、弁慶を当間(米軍)で歌いはじめるや、市民は拍手と歓声をあげた。
 時計は12時をまわっていた。南国の夜空は美しい星でおおわれ、お盆の月は、瀬長氏を祝福しているようだった。とうとう瀬長市長 が舞台にあがった 。市長は、隠し芸を披露してから、次のような演説をおこなった。
 「那覇市議会選挙で瀬長派が勝利したのは、沖縄県民の勝利と共に、日本の勝利である、…四原則を守ろう!われわれは決して奴隷 にはならない。それはこの選挙が示している。みなさん一緒に、海に向かって叫びましょう。いまは小さなこの声も、八十万県民が声 をあわせれば、必ず日本に届きます。そして、この声は、やがて九千万国民の声となり、世界中に響きわたるでしょう。さあ、声を合わせて 叫びましょう。沖縄を日本に帰してください!
 ぼくは、この時の瀬長市長と市民の声を忘れることはないだろう。  敗戦の時、わけのわからない天皇の雑音だらけの声を忘れないように、この声は、大衆の、そうだ、真理の声だ!
 「瀬長が追放されたのは、米軍が強かったからではない。弱くなったからだ。犬を見なさい。弱い犬は、まあ、よくほえることでしょう。」
 1月14日の市長選挙での兼次佐一氏の勝利は、沖縄県民がいかに民族の独立の重要性を認識しているかをよく示している。

  40数年前の記事です。わたしが初めて沖縄に渡ったのは、1958年夏でした(21歳)。翌年2月ごろに書いたものです。掲載した「加茂民衆新聞」の 切り抜きは、さがせば出てくるでしょうが、今は手元にありません。たまたま、書類を整理していたところ、下書きが出てきましたので ここに掲載することにしました。
 瀬長氏を見たのは、これが最初で最後でした。