■ 1960-12-07 愛知大学新聞「沖縄で考えたこと」 ■

沖縄で考えたこと
渡久地(toguchi)政司
 1960年12月7日
 愛知大学新聞

  「沖縄はどうでしたか」と、いろんな人から質問される。「アメ帝の抑圧に苦しんでいる沖縄住民を解放するには、平和、独立、中立の…」を云々する人達 には、ニヤニヤしながら、不親切に、厭味を込めて、「アメリカ軍の植民地行政は実に上手ですね、植民地支配者としては、史上最上の優れた支配者でしょ うね」、更に「こんなことはありえないけど、いまアメリカ軍が撤退すると声明したら、沖縄住民の90%までが、ワシントンに『駐留していてください』と陳情 するでしょうね」。「日本独占資本…帝国主義者は…プロレタリアートの革命的エネルギーを結集して…」を云々する「革命家」の人達には「ロケット兵器 時代の今日では、沖縄基地の対社会主義圏への価値は半減ですね、いま、金武というところでは、海兵隊の凄い規模の基地をつくっているのですよ。機動力 を持つ彼らは、君らのいう「革命」を含めた革命をつぶすのに大きな役割を演じるでしょうね。キューバの例があるから、そんなに簡単には出兵はできなくても、 心理的な重圧だけでも凄く重いね」。僕は、沖縄を語るとき、逆説と皮肉を含めて、少々自虐めいたニヒリステックな面を無理してもつくってしか語りたくないので ある。以下、僕が”沖縄で考えたこと”、そのことを書くことにしたい。

《ひめゆり根性の破壊を》 ひめゆりの乙女が、白衣の天使が、琉球の物悲しいうたをうたい、傷ついた兵士を介抱し、最南端に追い詰められたら自決した、という話がある。たしかにそのとおり だったろうことは、否定しないけど、彼女らを語るのに、そんな美談だけで説明していいのだろうか?
 負傷、死体、不安、恐怖そして戦場で、ただ自分の生命を救うために、学友を見殺しにした同義的苦痛や日本兵士が沖縄住民に対してとった残虐行為に対する 怒りと複雑さ…。僕は、そんなドロドロしたものをとおしてしか彼女らを語ることは出来ないし、また、語ってはならぬと考えているのである。彼女らの意識は どうであれ、彼女らを死に追いやった奴らのことを併せててしか、「ダマサレテ」「あるいは「しかたなし」に殺されていった死者達のことを語り、霊に額ずく ことはできないのだ。
沖縄には、沢山の戦争記念碑がある。そのうち、死者への冒涜の最たる記念碑が「ひめゆりの塔」なのである。美談…お涙…お金頂戴!のきらびやかな塔であり、 ご遺族の方々の主観とは全く逆な、恐るべき自己欺瞞におおわれた塔なのである。
「ひめゆりの塔」の「装飾」の変遷は、沖縄住民の心を蝕んでいる「ひめゆり根性」とは、奴隷根性の変種であり、沖縄問題を考える場合、いつもぶつかるものである。 「甲子園の砂」や体育大会であまやかされることをいいことに、同情心にすがり、被害者意識を売り物にする根性である。「ひめゆりの塔」を爆破しないかぎり、 一切の沖縄問題の解決は有り得ない。  《つきつめられた怒りの爆発から》

 琉大生のデモに遭遇した。恐ろしいからスクラムをギュと組み、うたをうたわないと、どうも気持ちが悪い、落ち着かない、不安、見ている市民の沈黙がかすんでいる。そんな顔 をした琉大生のデモであった。「若者よ、体を…」、とドキレトギレに、無茶苦茶に、あわただしく、個々バラバラにうたっているのだった。みんな汗でびっしょりであった。見て いる僕の方までオドオドしてしまう。今年の安保反対の時には、僕だってでたけど、そこにはこんな不気味な雰囲気はなかった。僕などは、屈原の「衆人みな酔い 吾れ一人覚めたり」とか「闘いの中にあり、闘いの外に立つ」を意識しつづける余裕を持っていた。しかし、この琉大生のデモをつつんでいる空気は重く、そんな余裕など全然 ないのだ。警官隊がデモ隊にサンドウイッチみたいにくつついており、外車(大型)の白バイが赤ランプをクルクル回しているのである。このデモに遭遇する数時間前 に、嘉手納航空隊の規模に圧倒されていたので、心理的重圧は二乗してのっかかってきた。僕はすっかり狼狽してしまった。
このデモは、浅沼刺殺事件の抗議デモを指導した七名の学生の逮捕に抗議するデモであった。布令撤廃、弾圧反対をスローガンとして、琉大学生大会の決議にもとずいてなされたデモであった。 詳しいことはわからないが、数名の学生に逮捕状が出て、出頭するか否かで、学生大会がもたれ、出頭することは、布令を認めることになるから拒否すべしを主張するグループと 「常識派」(新聞でさすが琉大生とほめられた)のグループが対立、結局、「常識派」が多数となり七名の学生は逮捕されたのである。しかし、抗議デモ提案は、賛成多数 で可決され、この日のデモとなったのである。  七名の学生逮捕を認めた「常識派」学生には、「祖国復帰」の貴い言葉をつかわせてはならぬ。沖縄では、あまりにも安易にこの言葉が使われすぎている。立法院議員選挙 で革新の大敗北の原因の一つには、この祖国復帰という言葉に「あぐら」をかいたためだと、僕は考えている。祖国に復帰したら、確かに良くなるに違いないが、すべてが良く なる式の宣伝がなされ、住民の意識変革と結びつかず、支持を得るために、斯く斯くします、よくなります、を革新がぶっている限り、弁務官資金がばら撒かれれば、革新の スローガンはオジャンである。しかも今度の選挙では、祖国復帰を先頭になって叫んだ人がかなり沖縄自由党から立候補して当選しているのである。
 江戸末期の画家で思想家でもある渡辺崋山は、辞世の言葉として「飢エ死ニスルトモ、二君ヲ持ツベカラズ」といっている。この精神が祖国復帰の精神にならない限り 、運動は空転し、アメリカ民政府のペースになってしまう。僕は政治の手練手管を云々しているのではない。祖国復帰を主張する革新の指導者は、当然のこととして渡辺 崋山の精神を身につけていなければならぬ、といっているのである。 《日本人の顔傷として》

 沖縄で考えたことは、沢山あるが、紙面の都合もあるだろうから、割愛し、最後に本土のわれわれの沖縄に対する態度について一言したい。
甲子園の砂に、もう同情してはいけない。ひめゆりを美談として聞いてはならぬ。被害者の頭をなぜるような態度をとってはならぬ。沖縄は、われわれ日本人がおった 戦争の傷あとである。岡本太郎は、「美ら瘡(ちゅらかさ)」(天然痘のこと)の島(中央公論12月号)といっているが、「美ら瘡」は、岡本式に使用するのではなく、われわれ日本人 の顔の傷と認識すべきだ。そして、自分の顔の傷を語るときは、ためらいを秘めて、どうして傷をうけたのかを、かみしめて語るべきだ。

2003年10月18日記載
40年以上前、わたしが23歳の時の文章です。論旨があいまいで、考えも空転しています。掲載をためらったのですが、23歳のころ、こんなことを考えていたのだ、 と思い直し、掲載することにしました。このころ、谷川雁や吉本隆明などの著作をよく読んでいたので、彼らの文体を真似ようとしています。