■ 沖縄渡航手続きを拒否して ■

渡久地 政司 
―1986年10月号「思想の科学」NO.80
v   拒否行動を起すまで

ここ二ケ年間で、沖縄からの客を、三度も神戸港まで出迎えに行った。神戸港中突堤で、 沖縄航路の船が入港してから三〜四時間は待たされた。私はイライラしながら、「税関は早く通せばよいのに」 と腹を立てた。
そして出迎えに行くたびに、沖縄と本土を切り離している渡航制限をぶちこわす方法はないものか、と考えた。 だが、その腹立たしさも市会議員としての多忙さの中で忘れがちだった。忘れたころに神戸港に出かけることになり、 また思い出す。そうこうしながら、渡航制限手続き拒否行動を起すことを決め、 昨年末、前進社の陶山健一氏に計画をもちかけ、同行を求めた。陶山氏は、その気になり身分証明書の交付申請 を行ったが、交付は拒否された。 そこで杉並区議の長谷川英憲氏が代わりに交付申請を行った。だが、長谷川氏は、今年 三月の王子闘争で逮捕され、交付は望みうすとなった。私は、億劫になりかけた。その 私を単独でも渡航手続き拒否行動をしなければならぬ、と決断させたのは、次の二つの行動だった。 四月、たまたま私は、豊田市役所の秘書課にいた。そこへ、「赤旗」を配達している共産党員を先頭 にして五、六人が胸にゼッケンを付けた男たちとともにドカドカと入ってきた。汗ばんだ日焼けした 男の鉢巻には"沖縄返還"と書かれていた。共産党員の男が秘書課の係長に奉加帳を渡して、「いつ ものものを頼む」とふてぶてしく言った。そして一行は、助役室に入って行った。係長は、前回の支 出額を調べて、「うん、二千円だ」と言って熨斗袋に千円札二枚を無造作に入れた。私は、奉加帳 をめくってみた。豊橋市長、議長、豊川市長、議長、岡崎市長、議長…。ようするに各自治体の長と 議長、そして議員が「金××円」と記入されていた。沖縄返還の行進団が、私とは無縁のところを、 ただ奉加帳とともに走り去って行く感じであった。 それから二週間くらいたったころ、私は、豊田市役所に用事で出かけた。市役所の玄関先に「沖縄返還」 と書いた街頭宣車が停まっていた。顔見知りの社青同の人や労組の幹部がいた。私は、用事を 済ませてから市長室に行ってみた。社会党の市会議員が黄色の袈裟をはおったお坊さんを含め十名ほど を引連れ市長室に入っていった。そこには、私など立ち入るスキはまったくなかった。街頭宣伝車が 「沖縄は祖国から切り離されて…」と訴えていた。私には、シラジラしく聞こえた。 この二つの沖縄行進は、共産党と社会党系の運動であった。この行進は、政党や組合の活動家によって、 きちんとした日程とスローガンと計画にもとづいて豊田市にやって来て、去っていった。それはプロ 集団によっておこなわれた運動であった。
十年ほど前、初めて沖縄行進が豊田市に来た時の、あのみずみずしい感動を私は忘れることが できない。行進して豊田市役所に到着したら、市長はじめみなが玄関先まで出迎えてくれた。そこには、 真心があった。新鮮な連帯感があった。婦人会や青年会の代表も参加していたし、みなが参加 できる雰囲気があった。アマチュアの運動であった。ところが今、二つの強力な語調を 使用する沖縄返還運動は、何の感動も残さずに消え去った。政党員も労組幹部も「お役所仕事」を 無事すませてホットしていることだろう。 私は、どうしても沖縄渡航手続き拒否をやらねばなぬ、とこの時、決断した。

日本国沖縄から帰って来た

七月十五日午後六時三十分、ノースウエスト機に搭乗直前、私は、豊田市の仲間に「決行」の電話 を入れた。羽田空港での手続き拒否行動を控えているだけに、初めて乗る飛行機に対する感激とい うものは全然湧いてこない。飛行機の中程に座り、静かに物思いにふけっていた。突然、機内の スピーカーが私の名前を呼んだ。私服の男が「旅券を見せてほしい」と言う。私の身分証明書 を見ながら、「渡久地政司さんですね」と念をおす。私が搭乗したことを確認しに来たのにちがい ない。
 後日、わかったことであるが、七月十五日の午前中、豊田市の友人たちが、単独渡航手続き拒否 行動は、密室になると隔離されるか検挙されるのではないか、と心配して、マスコミ等 への手配をしていたのだった。
出入国管理官や警視庁、ノースウエストも私の行動を察知して準備をしているはずだ。 羽田空港では、混乱を避けるため、一番後に機内から出た。タラップの下には報道関係者が待機 しいた。写真のフラッシュがまぶしかった。質問に対して、はっきりと渡航手続き拒否を伝えた。  羽田空港での関門は三つある。検疫(厚生省)、入管(法務省)、税関(大蔵省)である。このうち、 検疫と税関には応じることとした。入管については、「入国(域)手続き」、即ち、身分証明の 提示を拒否する、が計画・行動のすべてであった。
 検疫と税関に応じたのは、公衆衛生から、と外国製品が個人的利益になる、と権力側から逆宣伝 されることを避けるためであった。  まず、検疫官にコレラ等に関する書類(イエローカードと呼ばれていた)を渡し、検疫関門を 通過、税関の検査にも応じた。そして、いよいよ入国管理のゲートである。  入管の検問所の職員に、私は次のように言った。
 「私は、今、沖縄から来た。沖縄は日本の国内だから、日本国内から日本国内への移動なので、 入国手続きとか身分証明書の提示は納得ができない。私は、日本国籍を持つていることの証明 として自動車運転免許証を提出してここを通過したい」
 係官は、あわてて私の前に立ち塞がって言った。
 「ちょっと待ってください。そのようなむつかしいことはわたしはわかりませんので、あちら の部屋に行ってください」
 「なぜ行かねばならないのか、あなたはなぜ私の通過を阻止するのか、その法的根拠を示してほしい」
 「すみません、ちょっと行ってください」
 「ちょっと行く、ということは、強制なのか、任意なのか」
 「法的に、と言われても…任意ですので、ちょっと…」
 「任意なら行きましょう」
任意でも行かぬ、と頑張るという方法もあるが、私は出来るだけ議論を行って、彼らの強制力 の限界を知る、というところに力点を置くことにして、入管事務所の横にあった部屋に行くことに した。私が入って行くと、そこには椅子が用意されていて、三人の係官が入って来た。一人が 私の話に応対し、一人はそばで聞き、一人がノートにメモをとった。
 私は、次のように切り出した。
 「あなた方は、私を調査するのか、それとも私の言分を聞くのか」
 「調査ではありません。あなたのお話を聞いて、身分証明書の提示をお願いしたいのです」
 「では、私はまったく自由ですね」
 「そうです」
 「それでは、私の言分を述べよう」
 そう言ってから、入管検問所での主張をくりかえした。係官は、つくり笑いをしながら言った。
 「どうか身分証明書を見せてほしい」
 「私は日本人だ、自動車免許証を見せよう。日本人であることが確認されたのだから私は、 ここを通過する」
 「自動車免許証では、日本人としての証明にはならない」
 「自動車免許証で日本人であることが確認できないならば、日本国内の道路交通法体系はむちゃくちゃになる」
 「ドロ棒がドロ棒をしないといっても確認…」
 「ちょっと待ちなさい!ドロ棒云々とは何事ですか!沖縄に対する最大の侮辱だ!あなたとは話を しない。あやまりなさい!」
 「取り消します。すみませんでした」
 「日本人であることが確認されたのだからここを通過する」
 「あなたは身分証明書をお持ちでしょう」
 「持っている、しかし見せたくない。入国手続きもしない」
 「持っていて見せないでは、通すわけにはいかない」
 「どういう法律で通さないのかをはっきりさせなさい。法律にもとづかずに、私を通さないのは、違法、 越権行為です。ところで、あなた方は、私を通過させるかどうかの決定権があるのですか」  「課長と連絡をとっています」
 「では、課長と連絡をとりなさい。私は、トイレに行きたい」
そう言ってから部屋をでて、トイレに行った。別にトイレに行く必要はなかったが、自分が自由に行動 できるか、を確認しておきたかった。  「税関に手荷物を預けてあるのでとりに行く」 そして税関にノコノコとでかけた。入管の職員があわてて付いてきた。私は、税関の領域を歩きまわった。
戻ると、入管の職員が言った。
 「課長と連絡がとれませんが、帰国証明書を発行します」
 「帰国証明書を発行するか否かは、あなた方のことであって、私には関係のないことだ。私は ここを早く通過したいだけだ」
 「ここの出入国記録カードに記入してほしい」
 「この出入国という文字が気にくわない。私は記入しない。書きたければあなた方のほうで勝手に やればよい」
 職員は私の自動車免許証を見ながら作成した。
 「ここに(出入国記録カード)サインをしてほしい」
 「サインすることはできない」
 「このカードは、氏名、年齢、職業を確認したいだけだ」
 「では、別紙に書こう」
そして、私の名刺の裏に、氏名、住所、年齢、本籍、職業は、間違いない、と書いた。
 私は、入管の検問所を手続きをしないで通過した。

                 ×××
  ゲートをくぐると新聞記者が多勢やってきた。私は、沖縄を語り、身分証明書の不当性 をやや興奮気味に語った。質問のうちにはいやらしいものもあった。私は、わかってほしかったので、 うんとしゃべった。
  終わりころ、沖縄の新聞社の記者が、「よくやってくれてありがとう」と言った。 面識のあったマスコミの政治部記者が「沖縄病にかかっていない羽田空港の社会部記者連中には、 沖縄問題はわからないよ」と言って出迎えてくれ、その夜はこの記者の自宅で泊めていただいた。
 私は、計画どうり入管の関門を突破した。身分証明書を提示しなかったし、帰国手続きの一切を しなかった。私は、自動車運転免許証にもとづいて氏名、住所、本籍、年齢、職業を確認した だけで、入域することができた。
 沖縄奪還のささやかな行為ではあったが、身分証明書を提示しなくても入管を通過できることが 確認された。
 数日後、全国各地の、主として沖縄出身者から手紙をいただいた。そこには、例外なく次のように 書かれてあった。
…第二、第三、第四…と無限に「渡久地方式を実行しょう」と。
 八月二十二日、鹿児島港でベ平連を主力とする十人が、翌二十三日、東京晴海ふ頭では、沖縄 闘争学生委員会の十七名が入管のカベを突破して強行上陸に成功した。
私は二十三日には、晴海ふ頭にいたが、十七名の行動者を出迎た数百名のデモがウズのなかに巻き込んだ 瞬間を生涯忘れることはないだろう。
 この瞬間、沖縄は、日本人民と結合したのだ。

                                        [了]

2003年6月28日
35年も前の記録。
当時、書くことができなかったことが幾つかあった。
そのうちの一つに、学者・弁護士(専門家として)、そして体制側職員からの協力があった。
沖縄闘争は、左翼だけの闘争ではなかった。これらの方々の協力がなかったら、みじめな失敗になっていただろう。
未公表の資料も幾つかあるので、順次公表していきたい

写真はわたし(渡久地)が撮影しました。
入港するひめゆり丸。
甲板で垂れ幕をあげ、携帯マイクで演説をする。
出迎えの人々。
NHKテレビニース=入管職員ともみあう・パスポートを燃やす。