■ よみがえった歌声 幻の琉球民謡レコード発見 ■

渡久地(toguchi) 政司
 沖縄タイムス・1993年6月26日掲載

        昭和初期のレコードが、米国から里帰りしたのに続いて、大正時代の琉球民謡レコードが長野県松本市で発見され(本紙4月8日朝刊社会面)、南風原文化センター に寄贈された。製糸工場で働く女工の辛い日々も垣間見えるSP盤である。発見の経過、背景、戦前のレコード出版事情などを書いてもらった。

                  1993年正月、長野県松本市の松南高校教師、二反田武治君から年賀状が届いた。賀状には、「戦前の琉球民謡のレコード盤9枚入手しました」と書いてあった。         二反田君は、愛知大学時代の親友で、「学園祭で一緒に”沖縄展”を開いたことを思い出し、レコード盤を買いました。それが古本屋でした」と彼は言う。 「どのような物か知りたいので、資料とテープを送ってほしい」と私は言った。

          名古屋でプレス

          1月12日、録音されたテープと「琉球音譜目録」のコピー、そしてレコード盤(ツル印琉球レコード)をプレスしたのは、株式会社アサヒ蓄音器商会」(名古屋) で、この会社は、大正9年から5ケ年間存在していたという資料が送られてきた。
        テープと資料を持って、私は、大阪市大正区の関西沖縄文庫(金城馨代表)に出掛けた。そこで、10人余にこのテープを聞いてもらい、この種のレコードは 別に珍しくもないのか、などをお聞きした。
        祖堅学君が、沖縄民謡の歴史と資料をきちんと調べていて、南風原文化センターにアメリカから里帰りした琉球民謡のレコード盤が30枚あるとして、同文化 センター発行の「昭和初期のレコード目録」と沖縄タイムス紙の記録などを見せてくれた。         南風原文化センターに30枚もあるならば、松本市にある9枚もかなり重複しているだろう、と私は気落ちした。         自宅(豊田市)に帰って、南風原文化センターの「目録」と松本市にある「目録」とを調べてみた。         驚いた!1枚のみ重複していて8枚が新発見だった。  

        どうして松本市に

        3月13日、私は松本市に出掛けた。二反田君とは30余年ぶりの再会であった。レコード盤と資料は、私が預かり、南風原文化センターに「長野県南安曇郡穂高町牧  二反田武治寄贈」として届けることを決めた。

        どうして長野県に琉球民謡のレコード盤があったのか。彼の案内で、慶林堂書店=長野県松本市中央2-2-15を訪問した。         私は店主にお聞きした。「あなたがお売りになった琉球民謡のレコード盤は、戦災に遭った沖縄にとって、たいへん貴重なものです。入手先を知りたくて 愛知県豊田市からまいりました」と。         「そのようなレコード盤でしたか。私にとってもたいへんうれしい知らせです。でも、申し訳ありませんが、個人のプライバシーと古物商業界の習慣として 、どこから出たものか、お名前をお教えできないのです。ただ、あのレコード盤は、古物市場から出たものではありません。松本市内の旧家が古くなった家を取り壊すにあたり、 古本をとりにきてください、との要請を受け、私が直接出掛けました。古本と一緒に、古いレコード盤がありました。クラシックと日本民謡が主で、そのなかにあの琉球 民謡のレコード盤もありました。クラシックと日本民謡は店頭に出しましたが、琉球民謡のほうは、店頭にださず、倉庫に置いておきました。 信州大学の先生に、琉球民謡のレコード盤があることをお知らせしましたが、反応を示されませんでした。売れない物を所有していても溜まるばかりですので、処分するつもりでいました。 そんなところに、二反田先生が店頭で、SP盤を手にしながら、「このほかにもありますか」とお聞きになれらたので、倉庫から琉球民謡のレコード盤を持ってきてお見せしましたら、 先生 はすぐにお買いくださいました」。

        推理が的中

        私は、これまでだな、と思いながら言った。「よく教えてくださいました。私の推理ですが、この琉球民謡レコード盤は、大正末期から昭和初期にかけて、長野県岡谷 の製糸工場に、沖縄から百余人の沖縄の女工がきております。どうして松本市なのか、と考えるに製糸女工を慰めるために…」と言うのを遮るように、店主が「そうですか。 あのレコード 盤があった旧家は、蚕糸(さんし)とかかわりのある家でした」と。
        私の背筋に電流が走った。七年ほど前、下嶋哲朗著「消えた沖縄女工」(未来社)が脳裏にあったからである。
        琉球民謡レコード盤9枚は、松本市にあるべくしてあったのだ。ほぼ間違いなく製糸工場の経営者が、沖縄からの女工を慰めるために購入したものであろう。 当時のレコード盤の価格は、現在にすると1枚2万円くらいになる高価で貴重な物であった。
        30数年前、二反田君らと”沖縄展”を開催していなかったら、彼の頭に沖縄はなかっただろう。         古書店の店主に、二反田君が「ほかにもありますか」と聞かなかったら、琉球民謡レコード盤は処分されていただろう。         下嶋哲朗氏が「消えた沖縄女工」を上梓していなかったら、私は、「どうして長野県に琉球民謡レコード盤が」と疑問を抱いても、調べなかっただろう。         レコード盤は、通常、古物商の世界を渡るものだが、偶然にも古本屋さんが直接入手してくださったことが幸いした。
        この奇跡を大切にしたい。

2003年7月3日記
もう10年前のできごとです。 その後、つる印レコード(アサヒ蓄音器商会)がどのようなものであったか、このレコード盤に録音されていた歌手の子孫が現れたり、数多くのエピソードがあります。これらも 追って記載していく予定です。
ただ、この時点では、私の推理には、ロマンがありましたが、2001年9月、私は、再度松本市を訪問、事前に旧家の了解を得て、琉球民謡レコード盤が松本市に渡った経緯を 知ることができました。事実は、かなり違っておりました。
昭和9〜10年にかけて、松本市の蚕糸指導員のF氏が、沖縄県下で繭を飼育する指導をおこないました。帰郷にあたり、記念として「琉球民謡レコード盤」を購入したのだろう、 と言うのが、子孫の方の証言でした。
しかし、下嶋氏らは、蚕糸女工を慰めるために、具志堅という口入(労働の仲介人)が蓄音器とレコードを岡谷市に運んだ、と言うことを聞いた、とハガキに書いて知らせて くださいました。 つる印レコード盤探しは、今も続行していますが、糸は切れてしまっています。アサヒ蓄音器商会は、戦後も生き続け、現在も春日井市に「姿を変え」存在していますが、 経営者も幾度も変わり、ここには資料もなさそうです。アサヒ蓄音器商会の関係者のお屋敷が、戦災を免れ、名古屋市東区にあるのですが、お蔵を調べたが、なにもでてこなかった との回答でした。