U 沖縄への想い
4 聞書き
 吉橋弘二さん

■ 沖縄戦--首里陣地攻防から摩文仁まで ■

沖縄戦--首里陣地攻防
から摩文仁まで

敗戦を信じず9月まで戦いぬく

話す人:吉橋 弘二さん(83歳)豊田市平戸橋在住
聞く人:渡久地(toguchi)政司
 新三河タイムス・2004-8-19・掲載
   第2中隊300名中、生還者はわずか3名
 第2次世界戦争が終結して59年、今や戦争の記憶が風化し消えようとしています。こんな中、あの大戦で最も激烈な戦いが行われた沖縄戦で、昭和20年8月15日の玉音放送後の9月までアメリカ軍と戦い続けたという稀有な体験をお持ちの吉橋弘二さん(83歳)に、沖縄戦を語っていただきました。「忘れようとしていた沖縄戦だが、59年たった今も閃光のように蘇ってくる」と語る沖縄戦とは、どのような戦争だったのでしょうか。    (T)

  では、吉橋弘二さんの沖縄戦体験を出発のところから辿ってみることにしましょう。

吉橋弘二さんは、大正10年7月17日、西加茂郡猿投村大字越戸(現在の豊田市平戸橋町)で生まれました。太平洋戦争勃発した昭和16年12月、現役兵として入営。昭和17年1月10日、福井県鯖江連隊に入営します。ここに10日間いて、広島県宇品港から朝鮮、満州を経て中国北支派遣軍独立歩兵第22大隊(石4283部隊)第2中隊所属となります。半年の教育を受けて京漢作戦に参加、アメリカ軍装備の中国最強の蒋介石直属部隊と対戦、破王城の戦闘では部隊の半数が戦死しました。吉橋さんの部隊は山西省太原まで進出、そこで部隊の再編があり、北支から中支と転戦します。階級は兵長に昇進していました。昭和18年夏、蘇州から揚子江を下り南方へ、輸送船団は沖縄、台湾を通過した時、硫黄島玉砕。アメリカ軍の魚雷をさけるため船は大きく蛇行、ギィギィと音をたて船がふたつに割れると思いました。アメリカ軍の艦載機から攻撃をうけ、南方への前進は不可能となり、Uターンして沖縄那覇港に上陸します。吉橋さんは、沖縄は日本語の通じる内地勤務と同じ、とホッとしました。

しかし、やがて始まる史上最悪の地上戦・沖縄戦に巻き込まれます。
所属は独立歩兵第22大隊第2中隊(松田克巳中隊長)の兵長・軽機関銃の射手でした。

沖縄では、古都首里城北方の稜線沿の大名(おおな)で陣地構築に参
加しました。沖縄県民の老人から若者まで多くが塹壕工事に参加しました。壕の内部をジグザグに掘削し、入口は草木で覆いました。缶詰の空き缶を利用した照明器具をつくり、その灯を照らしながら、さんご礁の岩に穴をあけ、ダイナマイトを挿入、5カ所くらいを一度に爆破して洞窟を掘削します。吉橋兵長は、この点火作業を指揮しました。 壕の入口のところに松田中隊長の部屋があり、全員が壕内で寝起きしました。

昭和20年4月1日、空爆と艦砲に援護されたアメリカ軍が上陸してきました。そして、4月下旬、強力な戦車部隊を先頭にしたアメリカ軍と大名陣地の西方1.000メートルで吉橋兵長の所属する部隊が最初に激突しました。昼間はアメリカ軍が攻め、日本軍は夜襲をかけ応戦しました。5月初旬、日本軍の糧秣庫がアメリカの艦砲射撃で破壊されてしまい、食料の補給はなくなります。夜、食料を確保するのが大仕事でした。海岸でカニを採ったり、大きい「でんでん虫」を食べたり、砲弾で壊されていても「さとう黍」や「さつま芋」は、食べることができました。しかし、それも底をつき、空腹と飢餓が始まります。

今、吉橋さんは、『沖縄戦史』に目を通しながら、戦闘の状況を説明してくださいました。
5月中旬の戦闘で独立第22大隊第1中隊は、戦力が5分の1となりました。吉橋兵長の所属していた独立第22大隊第2中隊は、5月18日から20日、大名陣地付近でアメリカ戦車部隊と白兵戦をまじえての激戦となります。松田中隊長の巧みな陣地配備によってアメリカ軍を陣内に誘致し、急襲して撃退しました。いわゆるタマリ戦法です。アメリカ軍側前面陣地は擬装陣地にして、アメリカ軍に第一線陣地の頭上を越させ低地に誘致し、第一線陣地は背後から、第二線陣地は正面から急襲しました。しかし、戦闘に参加していた一兵士としての吉橋兵長にとっては、全体がどのようになっているのかを知ったのは、今『沖縄戦史』を読み初めて知りました。吉橋兵長の記憶では、第22大隊第3中隊は、機関銃を装備した部隊でしたが、 第2中隊の下方に壕の入口があり、その入口をアメリカ軍に爆破され全員生き埋めとなり全滅しました。

このころの日本軍の戦術は、毎朝、数人の兵士が10キロの急造箱爆雷の箱を抱え、アメリカ軍戦車の通過する道の両側にタコツボを堀り、待機、アメリカ軍戦車に飛び込む自爆攻撃でした。
5月20日ころの朝、吉橋兵長は、名前を呼ばれました。いよいよ自爆攻撃命令が来たのです。ところが4人の兵士には急造箱爆雷が渡されましたが、吉橋兵長には、首里陣地の第64旅団司令部勤務が命じられたのです。『沖縄戦史』によれば、所属していた第22大隊は、残存兵力200人を結集して21日夜、夜間逆襲攻撃を敢行して全滅しています。

首里陣地の第64旅団では、弾薬庫の警備が命じられ、地下壕に入りました。壕内には糧秣や弾薬はかなりありましたが、それらを前線に届けるすべを失っていました。ある日突然、第64旅団が解散し、南に下る、と告げられました。吉橋兵長は、途方にくれ、原隊の松田中隊に戻ることにしました。手榴弾2個、弾丸30発、小銃と缶詰を所持して深夜、照明弾の明かりの下、原隊のあった場所に戻ります。しかし、そこはすでに松田中隊はおらず、日本兵の遺体が散乱していました。沖縄島北部の国頭(くにがみ)に行くことも考えましたが、第64旅団司令部が南に下る、といっていたことを思い出し、照明弾の明かりをたよりに南をめざしました。途中、腐乱死体がゴロゴロしていました。ハエが乱舞し、顔にくっ付いてきます。数日後、吉橋兵長は、運よく松田中隊と出会うことができました。しかし300人もいた松田中隊は10人ほどになっていました。それも沖縄島最南端の摩文仁(まぶに)海岸に到着した時には、わずか3人になっていました。

32軍司令部は、沖縄最南端、摩文仁に本営を設置、残存兵力を結集して背水の陣を布き最後の抵抗をおこないます。生き残りの将兵の多くは傷つき、足を、手を失い、血にまみれ、泥につかりながら南に下りました。もはや退くに地なく、背後は死の海が横たわっています。すでに戦うのに武器もなく、施す術もない状況です。吉橋さんの写真帳には「鉄血の雄図空しく屍を築くのみ、屍は顧みる人とてなく、哀れ路傍の草露と消えていった」と書かれてありました。

ある時、吉橋兵長は、岩影に平伏す母親と背中で泣いている赤ん坊を見つけました。近づいて母親を見るとすでに死んでいました。赤ん坊を母親の帯びから放してあげるしかできませんでした。沖縄の住民は、砲煙弾雨の中をさまよい、子は親を失い、妻は夫と別れ、子をかばう母親の痛ましい姿が随所でみられました。

吉橋さんは、昭和53年6月、33回忌で沖縄を訪問しています。最後の激戦地となった一帯には「魂魄の塔」が建っていました。日米両軍、軍民関係なく3万5千人の戦死者が祀られていました。
沖縄島最南摩文仁の断崖の直下は、波で浸食され、深くえぐられており、そこには真水が噴出していました。おいしかった。しかし、やがてその泉も戦死者で埋まるようになります。
摩文仁にたどりついたのは松田中隊長、吉橋兵長、渡辺(他の中隊の兵・静岡県清水出身)の3人でした。
摩文仁には、第32軍の司令部がありました。ここで吉橋兵長は、第64旅団の斎藤参謀長の伝令もおこなっています。伝令は、速く走れるようにするため武器を携帯しません。照明弾の明かりの下を必死に走りました。

ある日、第32軍牛島満中将(最高司令官)、長参謀たちが、軍服を脱ぎ、白衣姿で壕内を頭を下げて通って行きました。その日が自決した6月22日だったのだろう、と吉橋さんは推測します。後日、ゴツゴツした石を積みあげたところにアメリカ軍が建てた看板がありました。そこにはローマ字が書かれてあり、英語を理解できた松田中隊長が「牛島閣下の墓だ」、と語りました。

第32軍が解体した後、残存の兵士の多くが自決しました。吉橋兵長は、静岡県出身の有賀常一初年兵が「おかあさんー」と叫んでから岩頭から飛び込んでいった姿を今でもよく覚えています。
松田中隊長は、旧制中学の元教師で、胆力、決断、戦術とも優れた指揮官でした。「死ぬのはいつでもできる、死に急ぐな。敵を一人でも多く殺して死ね」を口癖にしていて、舌を噛み切って死ぬ方法まで教えてくれました。

吉橋兵長はこんな体験もしています。6月末、アメリカ海軍の高速艇
が沿岸に接近してきたので、岩礁にへばり付きました。吉橋兵長の体の上に幾人もの兵士が重なるような状態となりました。アメリカ海軍高速艇は、火炎放射器と黄燐弾で攻撃してきました。黄燐弾は付着するととれません。苦しい数時間後、静かになってから覆い被っていた焼死体をはねのけました。そこで助かったのたった2人だけでした。

こんな体験もしています。白兵戦となり、岩影から窪みに飛び移った時、アメリカ兵から狙撃され、左足に弾丸が貫通しました。また、地雷で骨が出るくらいの負傷を負いました。
後日、傷口にウジがわきました。夜、傷口を海水で洗うとヒリヒリしましたが、後が気持ちよかったので、 海水で洗い傷を治しました。今でもこんなに傷口が残っています、と見せてくださいました。

松田中隊長ら3人は、食料をどうしたか。こんな荒っぽいこともしています。  アメリカ軍を襲撃して糧秣を奪ったのです。松田中隊長の作戦で、夜間、アメリカ軍車両を3人で襲撃したのです。急カーブの先端で待ち伏せをし、アメリカ軍車両の横腹を攻撃するとアメリカ兵はみな逃げてしまいました。残された車両から糧秣や武器を奪ったのです。

また、アメリカ軍の幕舎を襲撃したこともありました。幕舎間が約100メートルくらい間隔があり、その間を2人が這って前進し、1人が幕舎めがけて撃ちまくると灯っていたガス灯が一斉に消えました。そこを2人が幕舎に忍びこんで糧秣を手探りで探します。両手で持つだけですから知れていました。食べることなら何でもしたとのことです。

ところで3人は、月日はどのように判断しのでしょうか。
7月、8月は、月齢(陰暦)を数えて判断しました。
アメリカ軍も飛行機から投降を呼びかけるビラを幾度も撒きましたが、 そのビラを最後まで信用しなかった、それは最後の一兵まで戦う、という覚悟ができていたから、と吉橋さんは語っています。

摩文仁海岸の西側に大度(おおど)海岸があります。1852年1月3日、ジョン万次郎がアメリカから帰国した海岸です。
この大度海岸の近くに爆撃で破壊された集落跡がありました。三方が自動車道路になっており、頻繁にアメリカ軍車両が通過していました。海岸の洞窟にいるよりここに潜んでいたほうが安全だ、との松田中隊長の判断で、そこに竪穴を掘って3人は、隠れ住んでいました。
そして、月齢から9月に入ったことを知りました。
いよいよ最終段階に入ります。
ある朝、アメリカ軍に包囲され、「出てこないと焼き殺す!」と英語で放送しています。松田中隊長は、英語が少し理解できたのでしょう。「オレが出てこい、といったら出てこい」と竪穴から出て行きました。30分くらいしてから松田中隊長が「出てこい」といったので吉橋兵長ら2人は壕から出ました。

捕虜生活中、吉橋さんは、トヨタ自動車(昭和13年8月8日入社)で覚えた電気・ガス溶接技術を生かしアメリカ兵の自動車の修理をして重宝がられました。また、輸送船の荷降ろし作業などに従事して過ごしました
。 いよいよ帰国(帰郷)です。
昭和21年12月29日、米軍支給のアメリカ軍軍装で無蓋のアメリカ軍上陸用舟艇に乗って名古屋港に帰還しました。入営する時は、灰宝神社が埋まるくらいの人々に送られましたが、国敗れ、名古屋港に入港した時は出迎える人もなく、生きて帰ってきたことが申し訳なく、みじめな姿とこころで帰還しました。

吉橋さんは、沖縄を出航する時、島影に向って「33回忌には必ず会いに来るからな」を誓いました。
翌朝、国鉄岡崎駅から市電に乗り替え、大樹寺駅からトヨタ自動車への出勤者と一緒になり、工場が存続していることを知りました。名鉄越戸駅から線路伝いに灰宝神社に入り参拝、再び線路伝いに家に向かい、裏口から「今帰ったぞ」といって引き戸を引きました。母親が驚いて、口もきけなくなったそうです。しかし、吉橋さんは、生きて帰ったことが申し訳なく思った、そうです。
数日後、トヨタ自動車の人事に行き、帰国を報告したところ、「明日から出てこい」といわれました

33年後、吉橋さんは、約束を果たします。
吉橋さんは、奥さんを伴って昭和56年6月、33回忌に沖縄にでかけました。1週間、ハイヤーを借り切って、壕や戦闘がおこなわれた場所を歩いて参拝しました。大名の松田中隊のあった壕の入口に立った時、涙があふれ出て止まりませんでした。日本軍終焉の地摩文仁の丘では、吉橋さんは、長靴を履いてカマで草や木を伐り、岩や窪み、岩礁などを、ひとつひとつ確認しながら一巡しました。


来年(2005年6月)は60回忌、最後のお参りとお別れをしてきます、と吉橋さんは、遠くを見詰めるようにしていいました。