■ 命を革める ■

命を革める
「命を革める」と「生き残るために利口になる」の二つの課題

1978年1月3日/小冊子

2006年5月13日
掲載にあたって
28年前にまとめた小冊子ですが、わたしの人生の分岐点となった大切な文章です。
この種の文章は初めて書きましたし、その後もこの種の文章は書いていません。 また、今後も書かないでしょう。
この文章を書く切っ掛けとなったのは、1977年11月、ヤマギシイズム特別講習研鑚会を受講したことにあります。
その直後、自分の考えを整理し、「後援会の仲間と勉強会を開くためのテキスト」として、まとめたものです。
論旨が曖昧ですし、説明不足は否めませんが、ほぼ冊子のとおり掲載することにしました。

小冊子               1978年1月3日

 命を革(あらた)める 
   「命を革める」と「生き残るために利口になる」
   の二つの課題について
                    渡久地 政司

(はじめに)
1 「命を革める」と「生き残るために利口になる」は、昭和54年4月の豊田市議会議員選挙の直前、候補者であった私が言い出しましたが、この二つの課題について、私が「どのように命を革める」のか、また、「生き残るためにどのように利口になる」のか、についてみなさんに何一つも話しませんでした。率直に申し上げて、私は、この課題の持つ意味や、重さ、深さについて、よく考えもせず、思い付きで言葉にしていました。まったく無責任、いいかげんでした。
この反省に立脚して、この二つの課題を最初に私に問い、私はどうなのか、をここ数か月間、このことを考え抜きました。そのことをここにまとめました。みなさんにしらべてもらうこと、批判なり意見を得たいこと、そして叶うことならば、私と共にみなさんも一緒に、 この二つの大きな、身近かな課題に、真剣に立ち向かい、結果、みなの血となり肉となれば嬉しい。よいことは、みなでおこなうことが一番よいからです。

2 これまでの私は、他人が悪い、世の中が悪い、と原因を他に
求めることから全て出発していました。これからは、自分はどうか、まず徹底的にしらべ、考え、自分の本性みたいなものを観究めることから出発します。このことが、命を革める基本ですから。率直に、真面目に、自然に、気張らずに命を革めることから出発し、次に対人関係、対社会関係、それらの仕組みの不合理さを、どのように改革すべきか、それらをしらべ、考え、真実を把握し、その課題にどのように対処すべきか、の方法を観つけ、実践する。このように私の発想と行動の出発点、立脚点の変更します。

まとめますと、全ての事柄をまず自分に問い、自らの命を革めると
ころから対人、対社会関係に対処していく、と言うことです。

3 次に、「生き残るために利口になる」、その方法について具体的
に考えてみます。
幾千年来培われた常識では、この社会は弱肉強食の社会、生存競争
に勝ち抜くために一人でも多く他人を蹴落とす奸智にたける、そして「金のある者が勝つ」と言う言葉が、言葉以上の説得力と凄みを持って存在し、冷厳な事実ともなっています。
 そして、弱肉強食、生存競争に勝つために人間は努力し、そこに人類の発展があるのだ、と言う考えが、古代から現代まで、現存する資本主義世界、共産主義世界であれ、五十歩百歩の差こそあれ、表流の考え、となっています。どの国家、権力が発刊する歴史(国史)でも、この常識の反映、と理解してまず間違いありません。(この常識、後日、改めて考えます)
 表流となっている国史、王朝史に対し、本当はどうなのか、をしらべてみますと、表流となっている国史、王朝史はごく一部の人物の歴史であって、底流には絶対多数の人民がおり、人民の犠牲の塊がほんとうの歴史であることがわかります。そして、この絶対多数の人民の歴史は、記録としてほとんど残っておらず、その生き様、死に様の記録はほとんどありません。ひどい国史ともなれば、一将軍の率いる軍団が参戦し、兵士十万が戦死した、とだけ記録されています。兵士の喜び、悲しみ、思い、そしてそれをとりまく女や子供、老人たちの話はほとんど記録されていません。 今世紀初頭の日露戦争がそのよい例です。
 この「生き残るために利口になる」、の課題を推進することは、とりもなおさず人民が歴史の表流になることを意味します。そして、いましばらくは底流であっても、図々しく生き残ってやるぞ、国家の権力を把握している連中には騙されないぞ、と言う積極的な意味を持っています。
無論、食料、エネルギー、病気、そして生活の知恵等も生き残るために利口となる運動の一部ではあります。

4 さて、「命を革める」と「生き残るために利口になる」、の二つ
の課題について、どのような心構えで対処すべきか、について次に述べることにします。
 歴史的に常に犠牲に犠牲を強いられてきた絶対多数の人民は、生活の、生存の知恵として、本心のところ三分を隠す、いわゆる七三(しちさん)の構えで対人、対社会関係に対処するのが一番無難であることを知っています。しかし、自分の「命を革める」と「生き残るために利口になる」、については、七三の構えではいけません。全力を尽す。曖昧さ、不徹底さ、消化不良は一番いけません。自分の命のために、骨惜しみなく、率直に、真面目に、全力を尽すことが肝心です。

自分と真実を観(み)、探求すること
T 観(み)るのは誰か?
課題は、自分と真実を観(み)、探求することです。

  (註)この課題を考えるにあたり、観ると言う漢字を使ったわけを説明します。みると言う漢字には、7〜8種ありますが、普通使用されているのは、〈見・看・視・観〉の4文字です。  見るとは、ちょっと目にふれることです。
 看るとは、これは当て字なのですが、目の上に手をかざしてよくみる。
 視るとは、気をつけてよくみる。
 観るとは、視るより更に念入りにみる、即ち意識的にみる、と言うことです。

 真実を意識的に、積極的にみる、と言うことで、ここでは観る、と言う漢字を使います。

そこで、課題の”真実”の言葉を後回しにして、自分を意識的に、積
極的に観るのは誰か?を考えて下さい。「あたりまえでないか、自分だ」と禅問答みたいな問いに即答する人が多いでしょう。そう、自分です。正解は、「自分だけ」なのです。自分を、他人の目をとおして考えるのも一つの方法と言えば言えるのですが、他人の目、他人の声、他人の動作、それによって自分が他人にどのように思われているかによって、自分を観、自分をしらべようとしても、それでは、自分をその本性のところまで観究(みきわ)めることは不可能でしょう。自分だけで、孤独な作業として、念入りに観て、しらべ、それも曖昧さのないように、徹底的に、時間をかけ、自分の本性・真実までしっかり識(しり)抜かねばいけないのです。

   (註)ここでこれから使う識(しる)、と言う漢字について説明しておきます。しる、には、〈知・識〉の2文字があります。
知る、は感覚的にとらえてしる、と言う意味です。
識、はみわける、を意味します。課題の「自分を識」は、自分を感覚的に、ムードでしるのではなく、自分を分析してしらべ、観究める、と言うことです。

まとめますと、自分をよく識(しる)、それも徹底的に識。自分の本性・
真実を観極めるのは、自分だけであって、他人ではないのです。
 そして、識のは自分の方が、他人より先なのです。ですが、中国の孫子に〈知彼己者、百戦不殆−彼(敵)を知り己を知れば百戦殆うからず〉があります。彼(敵)を識ことが先ではないか、と言う人もいるでしょう。ですが、私は、彼(敵)を先に識よりも自分のことを先に識方が勝る、と思います。なぜなら、自分のことをよく識っていないなら、彼(敵)も観えないし、ましてや識こともできないからです。自分が色眼鏡をかけて観ていないか、 自分が透明な、確かな目で他を観ることができる状況にあるか、これらを最初によく徹底的に観、しらべておかないと彼(敵)が観えませんし、その本性・真実など把握できないからです。

 最初に、自分だけで、自分の本性・真実を観究め、把握したうえで、他人や社会を観究め、探求し、その真実を把握する。
 以上のことを、実践するにあたって、心しなければならないことを、次に考えることにしましょう。

U 真実の探求の心構え
 真実を観究め、把握する、と言えば、簡単なようですが、実はこのことはなかなかどうして、極めて難しいことなのです。次に真実の探求の心構えを5点あげます。

@ 心不在焉…
中国の古代の書物『大学』に、心不在焉、視而不見(心焉に在らず、

視れども見えず)とあります。心が、そこにないならば、目にうつっていても、心にはとまらない、と言う意味です。写真を撮り、それをキャビネ版に引き伸ばし、よく観ていると、自分がシャッターを押した時、目にうつっていたはずなのに、気付かずいた風景・事物があちこちにあることに気付きます。写真は決められた条件の範囲で、物理的に、固定化した事実を提供してくれます。その固定化したキャビネ版の写真でも、意識的に観究めると、びっくりする真実に出会うのですから、まして動いている物体、目には直接わからない人の心の動き、そして歴史の本当の真実、また、現在進行中の世界や日本社会の動向、その真実を観究めるには、かなり意識的、積極的に努力しなくてはなりません。そして、例え心にとまっても、それが何を意味するのか、また、どのような意味を持っているのかを分析する能力を持っていなければ、心にとまっただけで終わってしまいます。分析する能力、そのことを次に考えてみましょう。

A 独断
学問は、真実を観究めるための有力な武器であり、道具です。複雑
多岐にわたっている現代社会にあって、 自分だけで経験することには限界があります。そのためには、歴史をしらべ、学問をおこない、他人の多くの経験を直接間接に識、それを自分の脳裏に蓄えます。
 殺人者や、売春婦、ヒツトラー、スターリンからアメリカやフランス、ロシアや中国、そして日本の各地で生活した人々の体験等々を、歴史書や文学書、体験談等々の多くの記録や作品により追体験にし、自分の知識にすることは、自分の体験だけの独我論に陥入らないために大切なことです。
 この他人の経験なり他の知識を自分の知識として脳裏に蓄えるにあたって、最初に自分だけで、自分を観究める訓練を徹底的に行っていないならば、知識が偏ったものとなり、この借り物の知識、思想が頭の中で空転し、イライラし、苦しみ、悩み、まつたく無駄な精神と肉体の消耗をします。なまじ記憶力がよく、頭の回転が速く、才能に恵まれて生れた人ほど一旦このドロ沼に足を突っ込んだら最後、この現象が激しくなります。
 学問で知識を得る場合でも、先入観、既成概念、色眼鏡で観て、決めつけたり、独断で決定してはいけません。自他が観えないのとまったく同じように、知識を学ぶ側がきちんと自分を観究め、謙虚さと同時に常に疑問符を付けて受け入れる、この作業をかなり意識的におこなわなければなりません。
 学問による知識は、真実を探求し、観究めるための不完全な道具であって、その道具は常々調整し、磨きをかけておかなければなりません。そしてこの道具を活用する者も、まったく同じ意味で、常々調整し、磨きをかけておかなくてはならないのです。自分が不完全な道具の使用者であることを、意識的に識っておくことが肝心です。

B 昂奮と鬱屈
人は感情の動物である、と言われています。感情のたかぶりや逆に
しずみ、それらが確かに存在します。この感情というか感性というか、この微妙な心の動き、昂奮と鬱屈が、自分と他人、 社会の真実を観究め、把握することをより困難にします。
 人は、このことを古代から気付いていました。中国の古代の政治家であり詩人の屈原は「衆人みな酔いわれひとり醒めたり」と言っていますし、仏教の真髄を究める訓練の一つに「無心になる」がありますし、自分の心と自然との一体化のところに精神をおく試みは、東洋思想の多くの分野に散見することができます。 勿論、西洋においても客観的にみる、と言うことが古くから行われています。
 この昂奮と鬱屈でない精神状況になるためのいろいろの訓練を人は古くから試しております。仏教の修行における断食や、座禅や滝にうたれ、山頂に座し、雪景色の中に自らをおき、自らと自然の一体化から自然のうちに自らの精神をおく。そして、無とか、空気みたいな存在とか、零位とか、無心とか、をごく自然に考える。
 精神を昂奮と鬱屈でない状況や技術、訓練は、言葉や文字になじまないもので、直接体得するより方法がありません。
 精神を昂奮と鬱屈でないところにおき、そこから自分を観究め、他人を、社会を観究めていく。そしてより大切なことは、この刺激の多い、ストレスのたまりやすく、他から危害がすぐ加わるこの複雑多岐にわたる現代社会にあって、瞬時に精神を安定させ、すばやく的確にものごとを判断する訓練を、これも意識的におこなわなければなりません。

C 勇気
真実を観究め、把握することは、勇気のいることです
。 具体的に「死」について考えてみましょう。
自分が悪性のガンにかかり、確実に死ぬことがわかった時、自分自
身、死と言う事実にどのように立ち向かうだろうか。

  (註) 死の問題については、これだけでも大きな課題ですし、死をしっかり考えぬいておかねば、極言すれば、このことをしっかり識っておかねば、全て観えないと同じことですので、後日、改めて考えることにします。

 死についての真実を観究めることは、大変勇気のいることがおわか
りいただけることと思います。
 勇気のいることの逆は、恐ろしい、です。人は、怯え、悩み、恐
怖します。そして、そこから逃れたい、助けてもらいたい、救われた
い、と言う心から信仰とか宗教が発生したのではないでしょうか。
 ですから、勇気を持って自分の心の裡の真実、世の中の真実、自然
界の真実を事実として、はっきり観究め、把握すれば、それをきちん
とやり抜けば、神も仏も、恐怖も消滅してしまうのではないでしょう
か。

D 真実かどうかの判断
真実を観究めるのも、真実かどうかの判断も、自分だけにしかでき
ません。
この真実を探求して行く一つの方法を次に述べることにします。
真実には、普遍の真実もありますし、不確実さと測定不能の真実も
あります。とくに心のこと、社会のことについては、不確実さと測定不能ばかりだ、と言っても過言ではありません。ですから心のこと、社会のことについては、真実ではなかろうか、とそこでひとまず区切りをつけて、次に移ることにするのがよいでしょう。真実がわかるまでは、次には進まないでは何ごとも進みません。時間はまってくれません。いろいろと経験し、知識を得たりしてゆくうちに、その真実を修正したり、その内容をより豊富なものにすることもできます。勿論、真実でないことが判明したならば、ためらうことなく訂正する。
 ものごとを観究めてゆくのに、この「真実ではなかろうか」とひとまず区切りをつけ、棚上げすること、そうすることにより、複数の真実探求が可能となります。

 V 真実からの出発
 真実だけを観究めておけば、後は「どうすればよいか」の課題だけが残ります。 そして、この課題について、その方法、指針なりを考え、発見し、試し、実践することです。
 全て真実から出発します。日々刻々、自分をしらべ、常に具体的な課題を設定して、真実の探求をおこなうのです。現実社会においては、日に幾度となく課題がぶつっけられてきます。瞬時に判断を求められることもあり、時間をかける場合もあります。真実かどうかの判断がつかない場合は、そこで区切りをつけ、棚上げして進むことです。
 真実を観究めることをやめると、人は怠惰、いいかげん、いいかげんな生き方、いいかげんな人間になってしまいます。そして、ちいさな困難に遭遇しても慌てふためき、疑心暗鬼となり、恐怖に陥り、その反動で強がりを言い、腹をたて、大声をあげます。
 真実からの出発は、どんな事態に遭遇しても決して動じない、 人生を諦めない、より積極的に事態を打開し、真実世界を発見し、実現のために努力することを意味します。

  こんな人間にまず自分がなり、こんな人間を自分の周囲につくってゆく。 常に自分から出発しますので、まわりくどいのですが、それをみなが始めたら、意外に早く大きな輪になります。
真実から出発するのですから、これくらい間違いの少ない確かなことはありません。
そして、真実のことだけをやっておれば、気持ちが楽になり、しかも穏やかになり、こんな結構なことはありません。

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