■ 与那原恵著『首里城への坂道』 ■

2013-10-7


目次
プロローグ
第1章  彼が歩いた坂道
第2章  「沖縄学」の青春
第3章  あやうし!首里城
第4章  夢のような宴―伊東忠太の沖縄
第5章  さよなら麦門冬
第6章  島々をめぐる旅―八百キロの琉球芸術調査
第7章  なちかさや沖縄、戦場になやい
第8章  紅型がふたたび「生まれる」
第9章  けーいみそーち(おかえりなさい)
第10章 よみがえる赤い城
エピローグ
あとがき
参考文献

わたし流の読み方  最初に「プロローグ、エピローグ、あとがき」を読んだ。興味津々、胸騒ぎ、何か「ある」の予感。期待にそぐわず、久しぶりに、読後「読んだ!」という充実感をあじあうことができた。
本の表題は『首里城への坂道』となっている。この表題だけからすると、最初、司馬遼太郎著『坂の上の雲』と同じ「青春の坂」を連想したが、内容はあたりまえのことだが違う。それは、副題―「鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像」―によって明確だ。
この本は、小説ではなく「鎌倉芳太郎の沖縄とのかかわりを詳細に記録しながら、鎌倉が出会った沖縄の人々についてきめ細かく記述」している「近代沖縄の歴史書」といえるだろう。わたしごとであるが、明治から今日までの沖縄関係本はかなり沢山読んできたつもりだ。しかし、そこから得た知識は、断片的で、バラバラであった。鎌倉が出会った沖縄の知識人とそこで暮らした人々がいつどこで鎌倉と出会い、何を話したか、話さなかったか。しかも、その出会った人の出自や業績についてもきちんと記述されている。だから、この本は、沖縄の芸術・芸能・文化についての「入門書」としての価値もあるのではないだろうか。(この項については、後日、追加したい)

さて、本書から脱線した話であるが、次に愛知県に住むわたしにとっての関心事、2点書いておきたい。
1 冊子「愛知の中の沖縄」(2009年3月)に阪井芳貴氏が「佐渡山安勇(初代愛知沖縄県人会長)・安正(陶芸家)・安治(沖縄史研究者)の業
績」で紹介していることを転載したい。佐渡山安勇の妻・良子(末吉安由5女うし1890年生まれ)は、沖縄民族学の基礎をつくった末吉安恭(麦門冬)の妹。また、麦門冬の5女貞子さんとは、2008年、阪井氏とともに東郷町白鳥でお会いし、写真を撮り取材をした。麦門冬ゆかりの方々が愛知県にお住まいだった。

2  これは、関連事項だが、同書のP238、P324、P361に鎌倉芳太郎の妻(旧姓 山内静江)の記事が掲載されている。P238に山内静江が豊田市旧小原村生まれ、と記載がある。2013年9月、現在の豊田市西萩平160にお住いの山内一生氏に直接電話でお聞きしたことを次に書いておきたい。(山内一生氏は、和紙工芸作家で豊田市名誉市民、日展参与として現役でご活躍中)
山内静江は、一生氏の本家筋の方で一生氏は新家。静江の父は、明治期に離村した実業家。静江は大正時代に東京高等女子師範(現御茶ノ水女子大学)で美術を学んだ。戦後、鎌倉夫妻の要請をうけて一生氏が和紙を提供したP324。一生氏は鎌倉夫妻と長男・鎌倉秀雄氏とも面識があり、交流していた、とのこと。詳しくは、近日中に一生氏におめにかかりお聞きする予定。
山内静江は、地元豊田市ではまったく無名の芸術家だが、大正14年、名古屋市に洋画グループ「サンサシオン」主催の第3回展に窓辺で毛糸編みをする少女を描いた作品「無聊」、翌年第四回展に「雪江ちゃん」(名古屋市美術館所蔵)を出品。大正15年、初の女性会員会友に推薦されている。この年、第七回帝展に「夏休み」を出品して入選。昭和二年、六年にも帝展入選を果たした実力ある画家。