■敗戦直後の台湾での沖縄人■

2014-10-17




J・H・カー著 『裏切られた台湾』

p189〜190 沖縄人と他の厄介な人達

公式にはアメリカ領事館は、台湾に在住していた他国籍の人々の問題は、アメリカ合衆国の関知しないことであるという立場をとった。1940年にはそれでよかったかも知れなかった。しかし、1946年、マッカーサー将軍は在台湾日本人の大量の送還を指令していた。その中には1万4千9百6人の沖縄人が含まれていた。基隆港から遠い地方に住んでいた沖縄人は、住居は勿論のこと、家財道具を売ったりあるいは隣人にあげたり処分して台北と基隆に集結してきた。全体の約3分の1が沖縄に送還された時、マッカーサーからは残りの沖縄人は台湾に残留させるようにという新しい命令が来た。ひどく戦禍を受けた沖縄は、これ以上彼らを収容することが出来なかったのである。
そのためホームレスの沖縄人8百人は総督府の焼け跡に何ケ月も住み、他に何百人かは公園やその近くに原始的小屋を建ててキャンプした。彼等は道端の消火栓の水を飲料水として使い、道端の下水溝を便所として使わざるを得なかった。アラン職員の調査によると2千人以上が飢餓状態にあり、病気の罹患率は上昇し、老人と乳幼児の死亡も増えつつあり、そして彼等の主な生活の道はこそ泥と売春になりつつあったとのことであった。職のない青年層の間には絶望のあまり、過激な動揺の兆しが現われていた。わりと年配の沖縄人指導者達―中には私の戦前からの知人や医師や教師達もいたーが、困っている同国人のためにアメリカ領事館へ援助を求めてきた。中国人は相手が日本国民であり、敵国人であるので、問題は日本政府に責任があり台北政府のあずかり知らないことであるという立場を取り続けていた。
5月27日、沖縄人代表がアメリカ領事館を訪問し、連合国総司令部が沖縄人送還の交渉を再開したという噂があるがその真偽はどうかと確かめに来た。彼等は絶望的になっており、もし帰国がもっと遅れるのであれば、人口の多くない地方に散らばって住家や食料を探すつもりであった。
領事は連合国総司令部の計画の噂について、自分は何も知らず、アメリカ領事館は公務の上でこの問題に関心を持っておらず、沖縄人の運命は軍首脳部の問題であるとはっきり申し渡した。領事館には何らの指示も受けておらず、東京の軍司令部の注意を喚起する公式ルートがないことは領事館の落ち度ではないということを了承してほしいと付け加えた。沖縄人はその足でアランに向い援助を乞うた。担当者は最小限度の救済処置を講じ、東京の方から送還の許可が下りるまでの間、彼等の困難も切り抜けさせることが出来た。
8月、「外務服務規程」に従って、私は慣例になっている社会・経済・政治状態に関する中間報告を本国に送った。沖縄人の問題に関しての批判の呟きがワシントンに届くといけないので、私は次のような慎重な言葉で綴った管掌事項以外の一節を挿入することを指示された。 以下省略