■稲垣喜代志氏と風媒社の本 ■


2013-05-13

2015-04-03

 
 写真説明からはじめる。写真右側の新書本『はるか なる陽ざし』はわたしの本棚に大切に保存されて本だ。1968年6月10日発行、発行者稲垣喜代志となっている。しかし、わたしが稲垣さんのお名前を知ったのはそれより随分前だ。
 印刷者 岡田孝一となっている。わたしが豊田市議会議員に立候補したのは1963年4月、選挙関係の印刷物一切を印刷してくれたのがオカダ印刷だ。この印刷所を紹介してくださった方が稲垣喜代志さんだった。
  それより3年前、1960年夏には、刈谷市出身で図書新聞記者がいることは知っていた。出会いは、1963年4月以降なのだが、最初の出会いの記憶はまつたくない。お名前だけが先に記憶された。
  『はるかなる陽射し』は、故神谷長さん経由で購入した。稲垣さんと神谷さんは、法政大学時代からの知り合いであった。
  著者の新堂廣志さんには、学生時代、1・2度、新堂さんが伏せた状態のお姿の記憶がある。周囲に人がいたので会話は交わさなかったが、お母さんが付き添っていた。そんなこともあって、購入して読んだことは確かだが、短歌は記憶がない。
  さて、前書きが長くなった。稲垣喜代志氏と風媒社の本 について書くのだが、このことに託けて「わたしの55年くらのことを書いてみたくなった」。
  豊田市のかってのわたしのなかまたであった「挙母平和を守る会」「豊田市政研究会」「その後…」の3時代を、豊田市から30キロ離れた名古屋で「付かず離れず」して50余年、大人の目で見続けていたのが稲垣喜代志氏なのだ。
  今、わたしの50余年のさしあたっての総括は、「わたしとわたしのなかまたちは、まつたくの「餓鬼・ガキ」であって、まともな闘いをせず、とくに後始末 はまったくでなきい「餓鬼・ガキ」であった。稲垣さんは、申し訳ないが、豊田では、風媒社は「今にも倒産する出版社」と口にだして言っていたほどであった が、なんだかんだしながらも出版し続けてきた。そして、豊田市の大半の出来事には、大人としてかかわり助言をしてくださった。  仕事をなしえて発言しつづけてきたのが稲垣さんであった。
  今、渥美ロマンも豊田市の「餓鬼運動」も 過去のまた過去、伝説にも、記録にもまともに残らない状態となりはてたが、稲垣さんは、「渥美ロマン」もその「エピゴーネン・豊田の餓鬼」を客観的に「総括」できる唯一の人、とわたしは思う。
  この項ーー 以後、書き続けてみたい。(つづく)  なお、朝日新聞(2013年5月8日 愛知版)に 稲垣喜代志氏と風媒社の50年の記事が記載された。  同じ朝日新聞(2015年12月○○〜○○日 愛知版)に 稲垣喜代志氏が「愛知に人あり」20回にわたり掲載された。