■藤森節子著  「少女たちの植民地」■

2015-01-25



『少女たちの植民地―関東州の記憶から』
著者 藤森節子
発行所 平凡社ライブラリー
発刊 2013年7月
価格 1470円

中国から租借された植民地「関東州」に四姉妹の末として少女期を過ごした著者が、その甘くかつ苦い記憶を通して、具体的な細部がともにある植民地経験の意味をえぐり出す。


渡久地政司流の雑感(著者への手紙 抜粋)
『少女たちの植民地』丁寧に読まさせていただきました。あなたと年齢が5歳違いですが、同時期の経験があり、「そうだったのか」と相槌をうつ箇所がいくつかありました。
○ わたしは、中国天津市、国民学校2年生の時、敗戦。
○ P76 P307の悪口・囃子言葉。
わたしたち天津では、
ニイレ ショウトル ガンホウマ ヤアメンソウハデ サンピンケ    と記憶しています。3年ほど前、中国人の学生に「ハツオン」をして意味をお聞きしましたが、 通じませんでした。    当時、わたしたちのかつての解釈は、    オマエはドロボウしただろう、ケイサツにいいつけると ナグラレルゾ    わたしの住んでいた家は四合院で、 中国人のこどもたちに向かって、日本人の悪ガキどもが大声でハヤシたて、四合院に逃げ込むことを繰り返していました。    あなたの本で初めて意味をしりました。70年の歳月が流れています。

○ P130泥鰌」の話し。
わたしは、信じていました。中国時代に兄たちと実験しましたがうまくゆかず、 また、日本に帰国してからも、トウフをいろいろ切ったり、崩したりしながら、泥 鰌を放し、温度をゆっくりたかめたりしましたがいずれも失敗、やり方がまずいの であり、工夫したらできるのではないか、と今まで信じていました。また、帰国後、 豊田市の小学生の同級生にも、トウフと泥鰌の食べ方の一つとして教えてあげもしていました。

○ P227「協和粉」は、ハツオンに記憶があり、敗戦後、室内に閉じこもっていたころ、 質の悪い「粉」で、わけのわからないゴテゴテしたものをつくつて食べていました。 「メリケン粉」とか「南京豆」「南京…」と知っていた固有名詞が沢山ありました。

○ P166 歌 には、共通するものが沢山あります。戦中と引揚まで、実に沢山歌を唄っていました。意味がわからないままに、記憶しています。P 201「兵隊さんよありがとう」を同級生3人で唄った時、3番に「皇后陛下のおかげです」を歌った時、一人が「キョウツケ」をしました。当時、「天皇陛下」という言葉が出た時、咄嗟に「キョウツケ」をすることになっていました。わたしは、「皇后陛下」までしなければならないことを知らなかったので、ポカーンとしていたら「叱られ」、そこで、彼に「オマエは皇后陛下、呼び捨てにした。非国民だ。皇后陛下様」というべきだ。彼は、「陛下」でいいのだ、と言い、言い合いになりましたので、その場面を鮮明に記憶しています。その歌が、つい最近「兵隊さんよありがとう」であったことをインターネツトで知りました。 あなたの本のどこかに掲載されている(わたしの読みおとし)のかもしれませんが、 戦中・戦後「歩くうた」をこれは本当によく唄い、兄弟やガキどもで行進しました。「歩け 歩け 歩け、歩け 東へ 西へ…  道なき道を 歩け 歩け」 インタネットで歌詞と曲を取り寄せることができましたので先日から歌っています。
○ 映画・歌について書き始めるときりがありません。
○ 「空襲警報聞こえてきたら ぼくたちまだまだ小さいから 大人のゆうことよく聞いて 走っていきましょ 防空壕」。今なら災害や交通安全の替え歌になります。 この歌を鮮明に記憶していて、今でも唄えるのですが、帰国後、同級生に聞いても誰ひとり知りません。
○ この他にも「あひるのおばさん 赤いくつをはいて おしりをふりふりおでかけなさる おばさんどちらへ となりのまちへ ゲェゴゴゲゴゴとおつかいでござる」 も今でも唄えるのですが、これも帰国後同級生に聞いてもだれひとり知りません。 「あひる」が道を行進する姿は中国大陸的なので、中国版の音楽の教科書だったかもしれません。教科書は、大陸のものと内地のものとは違っていました。これも10年ほど前、確認したのですが…。 わたしが習った国語教科書には   「ニシハ夕(ゆう)ヤケ アカイソラ」がありました。同級生が「夕」の漢字を「た」と発音したので 大笑いになったので、記憶しています。この記述は「満州の平原」を説明したものだろう、と推理しています。読む本に飢えていたので、国語の教科書は全部暗唱していました。
○ 姉たちが「孝女(皇女かも)白菊」や「楠正成(正義が負ける、ことが信じられません でした。)」などの絵本を読んでくれ、聞きながら涙が出そうになるのを堪えていた ことも記憶にあります。