■ 伊藤茂吉殺害事件など
I 安永川物語・採録 ■

安永川採録(1962年)

2006年03月31日掲載

『安永川物語』採掲載にあたり

 (2006-3-30記入)

昭和47年夏、豊田市北部地域を襲った大災害時、わたしは、長興寺の向山(鵜ノ首)の岩の除去を主張した。その時、二人の長老市議会議員から次のような批判をうけた。
一つは、矢作川下流地域の水防は、鵜ノ首によって護られている。鵜ノ首の除去は、下流域住民の同意が必要。
二つは、挙母盆地は、鵜ノ首によって発生する洪水によって歴史的に(数万年かけて)形成された。
わたしは、この二つの批判・指摘を受け入れた。

近年、豊田市街地域を流れる矢作川河床の縦侵食がかなりのスピードで進行し、地下から堤防外への漏水が深刻となっており、近い将来、堤防の崩壊は必至だ。
わたしは、昭和21〜25年ころまで、矢作川で水泳をしていた。その時から50年の記憶では、矢作川の河床は、間違いなく約5メートルは下がった。この調子で縦侵食が続けば、50年後には、地形をも変えるだろう。縦侵食の原因の一つは、上流域での砂防ダムにより土砂の補給がとまったことにある。

自然への対応では、完全と言うことはない。完全に砂防を行うと、河川は縦浸食をおこし、海では白砂青松の砂浜がなくなる。例えば、「あばれ天竜」が吐き出す土砂によって、渥美半島が歴史的に形成された。今、天竜川の土砂の流失がとまり、渥美半島太平洋沿岸は、深刻な侵食に襲われている。

豊田市街地は、矢作川氾濫による深刻な大水害からは、47災害を除いて、免れているが、 堤防の決壊寸前の危機には幾度も遭遇している。近い将来、矢作川の堤防は、間違いなく決壊するだろう。

豊田市もそのことを気付いているが、堤防の管理は国、国は財政難、防災工事は、亀足歩行が続いている。

45年ほど前、長興寺共有山売却事件を取材した過程で、安永川をめぐる「伊藤茂吉殺害事件」を知った。それを<豊田今昔こぼれ話(8)安永川放水路物語>としてまとめた。渡辺善次著『七州城沿革小史』の「安永川起源」「伊藤茂吉」の存在を知らずに書いたので、事件の表面を撫ぜただけだが、わたしにとり、最初にまとめた記事なので思い出が深い。



豊田今昔こぼれ話(8)安永川放水路物語  1962年

 豊田タイムス紙(新三河タイムス紙)

豊田市とその周辺の学校の校歌には、必ず「矢作川の清流」の歌詞があるように、矢作川とこの地方の結びつきは強い。

その矢作川が明とするなら、暗の役目を担っているのが安永川である。その安永川は、今、腐った流れとなっているが、挙母市街地の住民にとっては、きわめて大切な川なのだ。暗を明に、安永川に清流を取り戻す、そのためには、安永川の大切さを挙母市街地の住民は理解し、腐ったドブ川にし続けていてははいけない。

挙母市街地を猿投山麓の標高50bから70bの丘陵地が北部から西部、南部から包つつみ、小さな盆地を形成している。ここの唯一の排水河川が安永川だ。現在の安永川の源流は、挙母盆地の上流梅坪町、平芝町から発し、旧挙母市街地を南下、長興寺を横断、矢作川右岸に沿って隋道を潜り、水源頭首工下流で矢作川に注ぎ込んでいる。

安永川は、安永2年(1773年)、挙母藩主内藤政文の時代に起工、 工事は難航を極め、中断したかが、明治19年(1886年)愛知県知事勝田稔の時、県費補助金によって113年の歳月を経て完成した。

安永川の排水工事は困難を極めた。それは、地形が盆地であり、東側に流れる矢作川の河床は、堤防の外の地形より高い天井川であった。江戸時代、現在の久澄橋付近に鉤の手堤防があり、長興寺北の竜宮町と向山の北、長田川(おさだかわ)の2か所に樋門を築いて排水をしていたが、常に樋門付近から堤防は決壊し、挙母盆地に逆流したようだ(「豊田史誌総集編参考」)。安永川は、挙母の住民にとっては、生命線であるが、樋門を設置された長興寺農民にとっては、迷惑このうえもない施設であった。両者の利害は対立する。

長興寺の地理についても説明しておこう。長興寺は、挙母盆地の最南端の矢作川右岸に位置する。矢作川は長興寺の南側で、右岸に向山、左岸に野見山の両岩山の渓谷を流れ抜けて南下している。この狭い場所を「鵜の首」という。

 挙母盆地は、この「鵜の首」によってひきおこされる洪水によって堆積した土砂で形成されている。「鵜の首」は、挙母盆地の生みの母なのだ。

安永川の樋門をどこに設置するかは、挙母の住民と長興寺住民の利害は対立する。徳川幕府政権が倒れ、 明治政府の力が確立していない一種の無政府状況下で、挙母と長興寺住民の対立は激化した。

この対立の「落とし子」として長興寺“伊藤茂吉殺害事件”が発生した。



茂吉を殺害

長興寺内山に住む伊藤茂吉は西尾の殿様の家来であったかが、明治となり、武士廃業となり、石工の「大将」となった。腕ぶしは強く、男気の快男児で大いに男をあげていた。

安永川開鑿で挙母と長興寺住民との対立が激化した時、茂吉はこの紛争をひきうけ、現在の善宿寺西側に土俵を積み、長興寺地内を流れることを拒否した。挙母側も腕ききの強い男衆を送り込み、茂吉をやっつけようとしたかが、手も足も出ず蹴散らかされてしまった。

この茂吉の働きに長興寺住民はすっかり惚れ込んでしまった。茂吉は、「安永川放水路を沈ガ淵から矢作川のおとすこと」「長興寺地内を通さないこと」の委任状に署名と捺印を求めた時、長興寺住民は何の疑いも抱かなかった。

ところが書類は2通あった。

この快男児は、喧嘩も強ければ、イロの道もなかなかの豪傑で、 岡崎の遊郭でさんざんの豪遊をし、東京の金貸しからジャンジャン借りまくっていた。その借用証書に長興寺住民の印鑑が使用された。

ある日、長興寺に衝撃が走った。身に覚えのない巨額の請求書が舞い込んだのである。その金額は、何と3800円。

長興寺の庄屋、役員は毎晩集まり相談を重ねたが、よい考えが出ない。茂吉が死んだら、借財もいくらかは減るのではないか、という思惑と、生かしておいたら今後何を仕出かすかわからない、と言うことになり、茂吉殺害計画となった。しかし、いざ殺害となると、誰が実行するか、でなか決まらなかった。

時は明治初年、殺したものを匿う、バレた時は、その家族の面倒を部落が責任をもつてみる、との謀議が成った。

明治18年、3人の男が安永川に架かる木橋の草叢に身を潜め、猟銃で茂吉を撃ち殺した。死体は翌朝発見された。めったに殺人事件のないこの地方の住民は驚いた。警察は総力をあげて調査をしたが、犯人はわからない。長興寺の住民のうち臭いメシを食わなかったものはいないくらい片つ端から引っ括られ、拷問をかけらた。3年後、犯人3人があがり、北海道の監獄に送られた。北海道開拓で罪人の扱いは言語を絶する過酷なもので、2人は死にNだけが廃人同然の状態で帰郷した。借財の返済は10数年にわたっておこなわれた。差押人が長興寺にやって来た時は、底のぬけた釜やガラクタを並べ、貧しさを示すなど涙ぐましい行動をとった、と長老は語る。



当時最高級の技術を駆使

長興寺の混乱を機に、挙母住民と愛知県知事勝田稔は、県費補助により、明治19年(1886年)に、開鑿から113年の大事業は完成した。

幹線総延長2680b、改修勾配3000分の1、底幅4.6bに拡張、水深2b、法の石積み護岸を施して旧形に取り付けた。堤防を設けず、新設排水路の第1、第4、第5拝水路は、安永川と同一断面とした。高さ2.5bの五分法の石積み護岸を施し、左岸堤防は、矢作川洪水位以上1bとしたので、総深4b〜8bとなった。

この工事は、きわめて高度の技術をもつてなされたりっぱな工事で、長興寺から平和町にかかる隋道は、その勾配1200分の1、底幅3b、上幅3.3b、総高1.5b、内上部は半径1.6bの半円拱となっており、底部は拱矢15センチの反仰拱、通水深さ2b、暗渠勾配1200分の1という当時最高級の技術で施された。

(伊藤力三郎さんから聞き書き、“豊田市史”を参照)