■ 岩月義光さんのこと■




渡久地政司

 



 誠実に頑固を貫いた農士
 岩月義光さんのこと

(はじめに)岩月義光(1917年5月〜2007年3月)=享年89歳。
 参考資料:「農民運動を推進―岩月義光」・杉浦正美 記、『あいづま人物誌』逢妻史跡研究会・平成13年12月刊。
 岩月義光さんは、1917年(大正6年)5月、豊田市緑ケ丘(挙母町大字土橋字東田)で生まれ、1944年2月ニューギニア島に南方戦地食料増産隊・軍属として上陸。敗戦後、誤認戦犯としてオーストラリア戦犯収容所に10カ月。1946年復員、47年第1回農地委員・小作代表(現農業委員)に当選、日本農民組合小作委員会に加盟、農地解放に尽力(小作からは感謝されたが地主からは恨まれた)。1951年緑ケ丘開拓入植、日本農民組合愛知県支部常任理事として農地紛争解決のために尽力。市名変更反対、警職法改正反対、小牧基地拡張反対など農民・市民運動に参加。
(出会い)
 岩月義光さんとの出会いは、鮮明に記憶している。1960年末、場所は名鉄上挙母駅南の製材工場の長屋・Oさん宅だった。集まったのは、守山自衛隊演習地(猿投町御船山之神一帯が候補地)阻止の相談であった。わたしたち(挙母平和を守る会)は、全員20歳代、基地・地域闘争は初めてであったので、基地闘争の経験をもつ渥美の清田和夫町議(伊良湖射撃場阻止の実績を持つ)を招請、知恵を借りる集まりであった。暗やみの中から清田さんが岩月さんを連れて現れた。岩月さんは、茶色の軍服のような服装をして、日焼けした精悍な眼差しだった。今、逆算してみると42歳、わたしたちは、頼もしい100万の援軍を得たような気持になった。しかも、わたしの住んでいたトヨタの社宅から西方1000メートルくらいのところに住んでいた。
 以後、10余年行動を共にするのだが、岩月さんは、常に大人としての配慮ある行動をとり、わたしたちを支えてくれた。
(新聞記者時代)
 1960年から63年まで。4件、記憶にある。1つは、自衛隊基地阻止闘争への助言。2つは、農民組合が主体となった「二重田植え事件」―農民組合がムシロ旗をかかげて豊田市役所に押しかけ団体交渉をおこなったのを、地方紙記者として写真を撮り、記事にした。3つは、長興寺入会権事件(これはわたし独自の支援活動だった)―岩月さんに弁護士を紹介してもらった。また、多くの助言を得た。4つは、黒川君解雇事件の助言。
(選挙)
 1963年4月、わたしたちは、豊田市議会議員選挙に候補者を擁立して闘うことを決めた。決めるにあたり、渥美町の清田和夫さんに相談したが、豊田市では岩月さんと矢頭_太郎さん(当時50歳)が相談相手であった。
 先にも書いたが、わたしたちは全員20歳、2〜3人は30歳そこそこの若さ。選挙も世間もサッパリわかっていなかった。
 選挙の街頭宣伝車は、岩月さんのかなり中古の軽トラック(排気量350cc)をお借りした。街頭演説の最中にバッテリーが幾度もあがり、車を押してエンジンをかけること数回、とうとう車を放置した。
 農業委員選挙を2度おこなった。黒川種治さん(樹木町)を候補者に、1度めは落選、2度目は、無投票で当選させた。街宣車は、岩月さんとわたしが主に運転し、放送した。蒲郡市の石原辰蔵市議(日本農民組合愛知県支部長)も応援にかけつけた。農協本部ビルに向いかなり激しい批判をおこなった。
(農協と豊田市を巡る疑惑)
 豊田農協幹部から豊田市助役に送り込まれた田村重三(やり手であったが、農協でも「お荷物」だった)の数々の疑惑、その情報を引き出してきたのは、岩月さんだった。農協内部の岩月シンパから得た情報(土地登記簿謄本・貸付金額など)だけに、裏付けがしっかりしていた。
 新明工業跡地疑惑の資料
 1963年6月及び9月市議会一般質問でわたし(渡久地)は、新明工業跡地買収疑惑を追及した。豊田市西町にあった新明工業の跡地を豊田市助役田村重三が個人名で購入、土地購入資金を豊田農協から借りる時、個人が借りる上限を越えて借りていた。それが可能にしたのは、豊田市助役という肩書きがあったからであった(田村助役が「開発公社」的機能を個人としておこなっていた)。わたしは、内部資料をもとに田村助役を追及した。田村助役は「公共の用に寄与するために個人名で購入した」と答弁した。そこで長坂市長に本当か?と問うたら、長坂市長は真っ赤な顔をして「わたしは知りません」と叫ぶように言った。農協は、豊田市助役に貸した、豊田市は知らぬ、には与党内部でも問題となり、トヨタ出身の秋本正太郎市議が、「田村のクビを切る」とわたしに言った。
(県有地払い下げ・鞍ケ池ゴルフ場闘争)
 1963年6月〜8月、豊田市有地を無償で豊田市が民間ゴルフ会社に貸与することに反対、署名運動をおこなう。発起人のお一人に岩月さんになっていただいた。また、瀬戸市の森林公園ゴルフ場を岩月さんと調査に行った。
(議員報酬引揚げ反対闘争)
 1963年12月〜64年8月、第1次議員報酬引揚反対闘争、引き上げられた報酬部分の受け取り拒否を行い、直接請求署名運動をおこなった。闘争主体団体に天野義男(労組)、岩月義光(日農)、渡久地政司(市政研)の3人がなった。
(出版社争議支援)
 東京大学安田講堂攻防戦直前、安田講堂に匿われていた大量の出版物がトラックで運び出され、一時関西で保管されていたが、そこも危なくなり、わたしたちが預かることになった。その出版物を保管してくれたのが岩月義光さんだった。危険を承知の勇気ある行為だった。
(忘年会の後始末)
 ある年、岩月さん宅の作業小屋を借りて忘年会を開いた。そこは10畳ほどの広さがあり、大声をだしても周囲には迷惑がかからなかった。宴会は深夜2時〜3時ころまで続き、多くは泥酔して帰宅した。最後は、わたしだけとなり、後始末をはじめたが、疲れていし、酔いもあり、明朝やればよいか、と安易に考え帰宅してしまった。翌朝、岩月さん宅に出かけて行ったところ、汚れた宴会の後はきれいにかたずけられていた。
 わたしは、赤面した。恥ずかしかった。
 運動、闘争の後始末ができなかったこと、不充分なことは、力量のなさから少しは大目にみてもらっても、自分たちが食べ、飲み、騒ぎ、楽しんだ後の始末は、これは絶対やらなければならない。それを行わなかった、ことは弁解の余地はない。
 豊田市政研運動は、所詮、ガキ共の運動にしかすぎなかったな、と岩月さんは悟ったに違いない。
(疎遠)
 岩月さんは、少年時代から、誠実に頑固に生きてきたので、裏切りに出会うたび、深い絶望感に襲われたに違いない。大人だから怒りを口に出したり露わにはしなかったが、内心は絶望と怒りで煮えたぎっていたに違いない。
 1つは、日本国家に対して。お国のために命を差し出すつもりで志願した「南方戦地食料増産指導隊・軍属」。ニューギニア島での敗戦と戦犯として抑留。
 2つは、農地解放に尽力、地主に憎まれ・小作によろこばれる、と頑張ったのに、解放が成就したら、小作たちは去った。
 3つは、開拓農民として、養鶏・ニューカッスル病(鳥インフルエンザ)を克服するも養鶏環境の悪化、農作業が不可能に。
 4つは、中国文化大革命。岩月さんは、文化大革命期に訪中、農業が主体の国づくりへの期待があった…?
 5つは、わたし・(豊田市政研究会)への期待が大きかっただけに愛憎の振幅も大きかった。ただ、岩月さんから、直接、抗議なり批判はなかった。
1980年ころから岩月さんは、まともに話しに応じてはくれなくなった。虚ろな、冷ややかな語り口になり、取り付く暇もなくなった。わたしは議員を辞めてここ20年間、年賀状を差し出しても、戴くことはなくなった。岩月さん宅の周囲は著しく変貌、工場と独身寮が林立した。10年ほど前、森当さんの農民文学賞受賞・出版を祝う会に出席した時(この時がお会いした最後だった)に、久しぶりにお声をお聞きしたが、往年の張りはなくなっていた。
 (お詫び)
 2007年4月8日(日)、岩月義光さんの祭壇にお詫びとご冥福を祈った。奥様の春江さんに、義光さんには、生前に数々の不義理を言葉にしてお詫びをしておかなければならなかったが、行いそびれてしまった、と言葉にしてお詫びした。
 誠実に頑固に生きたが故に、歴史に翻弄された「農士」だった。