■ 独断専行のドン 神谷 長  KAMIYA TUNE■




2006年08月31日 初出筆

2008年03月20日 追加記入

2014年11月10日 固有名詞など訂正  
(はじめに)
イエスや親鸞、日蓮のような偉大な宗教家の行動には、強烈な個性、しつこさ、孤立をおそれない頑強な精神が感じられる。他人と相談したり、他人に決断を委ねたりはしない。独断専行、時には宗教家らしからない暴力行為で突っ走ることもあった。それ故、イエスは処刑され、親鸞、日蓮は流刑にされた。結果、彼らの周囲にいた者は、多大な迷惑、苦しみを強いられた。目先の損得を物差しにして、成功・失敗を判断する者からするとイエスや親鸞、日蓮は失敗の人生と評価されるだろう。しかし、彼らは、歴史に残る実ある偉大な成果を残した。
宗教家を例にあげたが、発明家、実業家、革命家、市民運動家、芸術家など、実のある事業を成した、例え成就しなくとも、彼等の行動には、よく似たものがある。
わたしがここで言いたいのは、実ある事業を成した偉大な人物は、行動を起こすにあたり、孤立をおそれず、多数を無視し、断固独断専行を実践した。即ち、非民主的、良し悪し含めた意味での独裁者・ドンであった。
わたしは過去50年、多くの「市民、平和(反戦)、消費者、救援、労働」運動に参加してきた。この運動の一つ一つを検証し、成功と失敗などを精査する時、成功した運動の大半が、独裁者・ドンの強烈な個性と執念、非民主的独断専行が運動を持続し成功させた、ことに気付く。
1956年から1970年ころまでの間、わたしは、挙母平和を守る会、挙母原水爆禁止協議会、60年安保闘争、帰郷運動、挙母市民講座、黒川君を守る会、市議会議員選挙、鞍ケ池ゴルフ場化反対闘争、議員報酬引き上げ反対闘争、市長選挙などすべてにかかわってきた。わたしは、常にこの運動の中心にいて、ある時は事務局を担っていたが、この運動の意味を明確にし、支え、担い、推進したのは、わたしではない。この運動を強力に推進した独裁者・ドンは、神谷長(かみや・つね)であった。
独裁者・ドン=神谷長(ペンネーム 中村敏郎)とのエピソードから書き始める。

@ 原稿
ビラの下書きの大半は、わたしが書いた。神谷長は、ビラの下書き・支離滅裂な原稿を読む前に事件を物語風に語ることを要請する。そして嬉しそうに、何やらイメージして微笑む。
それからの数日間、神谷長は、昼夜関係なく原稿を書く。そして、原稿を取りに来るように電話してくる。細かく指示がある。原稿を名古屋市のオカダ印刷に持参し、支持どおり説明する。原稿を印刷所に「郵送したい」、と言ったら烈火のごとの怒る。ゲラ刷りも取りに行き、神谷長に手渡す。再度、校正した原稿を届ける。印刷所は間違いなく訂正してくれる。ところが再校正を確認し、再校正のゲラと元原稿を貰って来い、と指示がある。この指示は強制であった。
わたしが神谷長のやり方に耐えたのは、ビラを書くために神谷長は、体を壊すくらい心血を注ぎ、その苦労、苦痛は大変なものがあることを知っていたからだ。できあがったビラは、強力な宣伝力があり、誤字脱字はなく、わかりやすく、名文、的確に問題点を突き、完全完璧な文章であった。神谷長は、原稿の一字一句、句読点の位置まで全部記憶していた。

A 文章・フィクション
神谷長の文章には、フィクション・ウソもあった。わたしが言わないことが大げさに書かれているケースも多々あった。ゴーストライターなので、矢面に立たずに済むことをよいことに、面白おかしく、相手を茶化したり、バカにすることもあった。このことは政治宣伝ビラでは、相手に打撃をあたえることに有効だった。しかし、相手と常に顔を合わせている(対峙している)わたしにとっては、大変な重圧となって跳ね返ってきた。
渥美町の作家・杉浦明平さんのルポルタージュに登場する田舎政治家の馬鹿げた振る舞い、それをこらしめる清田和夫町議のパターンをイメージしての文章には誇張が多かった。
その1例。豊田市議会の東京陳情のおり、たまたま佐藤保豊田市長と宿(台東区本郷の和風旅館)が同じになった。佐藤市長が風呂から「ふり金」て゛出てきた。その話を神谷長にした。神谷長は面白がってそのことをビラに書いた。それをビラにしてはいかん、といくら言っても聞く耳をもたなかった。このビラのことを佐藤市長は何も言わなかったが、同僚の市議会議員や市職員はえげつない、と言った。わしはえげつない、とは思ったが、「何を言ってけつかる」と開き直った。

B 気遣い
長男政治(まさはる)が4歳くらいの10月、神谷長がこども用のまつりハッピを買ってくれた。それまでのわが家の文化には、誕生祝いやおまつり文化はなかった。また、それをおこなう経済的余裕などまったくなかった。それだけに政治は大変よろこんだ。神谷長は、わが家の細かところまで気遣ってくれた。
わたしは、豊田市議会議員に立候補することを、両親には言っても詮無いことだ、と思い告げなかった。地方新聞は「散票をとるのがせいぜい」と酷評した。近所の有力者たちもそんなうわさをしていた。母親が心配して泣いていることを知っていたが、ほっておいた。後日、知ったことだが、神谷長は、わたしの母親と夜明けまで話しこんでくれた。以後、母親は神谷長を絶対的に信用していた。このことを神谷長は、わたしには一言も言わなかった。

C 無理難題
選挙では、神谷長は昼夜なく実を求めて動いたが、それを恩着せがましく言うことは絶対になかった。そんな神谷長の性格を知っていたから、神谷長からの無理難題には耐えた。また、耐えなければならない、と思った。
わたしが何を考え、悩んでいるかも神谷長はお見通しであったが、そのことは口にださず、無理難題を敢えて強制することがしばしばであった。無理を強制する自分自身のこともよく承知していた。無理難題の強制は、神谷長自身へも返り血となっていた。

D 生活
神谷長がやろうと思えば、ゴルフ、パチンコ、マージヤン、海外旅行、歓楽街での飲み歩き、金銭の大判振る舞い、ギャンブル、女遊び、成金の道楽のすべてをやれた。しかし、そんなことは微塵もなかった。常に自転車に乗り、きちんと洗濯された作業ヅボンをはき、夏はゲタ、冬も足袋とゲタであった。お金のあるブルジュアとして行うことの唯一の贅沢は、本を買うことだけだった。定価を見ず、欲しい、必用とする本は、すぐ買っていた。その本について、すぐに解説してくれた。
E 読書
太宰治を全集で全部読んだ。その切っ掛けは神谷長だった。神谷長は、太宰の「津軽」「女学生」「満願」など暗唱していた。それを幾度も聞かされた。スノー、スメドレーなどの中国ものから久保栄『登り窯』や本庄睦男『石狩平野』、柳田国男『遠野物語』など多数。神谷長50歳前半に勧められたが読まなかったものに内田百閨A井伏鱒二がある。理由は、わたしが、内田百閨E井伏鱒二のような「醒めた・枯れた」人物の作品を読む心境になかったからだ。

F 日本民謡・シャンソン・歌謡曲
津軽三味線のすばらしさを神谷長の口三味線で教えられ、後日ほんものを聞き、納得した。東北から岐阜、多くの盆踊り歌を神谷長からおそわった。ただ、わたしは、それを歌うことができなかった。若いころに歌う習慣がなかったし、その機会を逸していた。
神谷長は、ロシア民謡もじょうずだったが、シャンソンはとりわけうまかった。それもフランス語で歌った。イブ・モンタンが好きであった。ラ・マルセーユもよく歌っていた。
歌謡曲も実によく知っていてよく聴かせてもらった。歌いはじめると、かならず3番までをきちんと諳んじていて、丁寧に歌った。企業のお座敷には、絶対にあがらなかったが、お座敷唄も得意だった。軍歌は少年時代の青春歌なので、これもよく知っていた。

G 鈴村鋼二の市長選挙始末
1972年初冬、故矢頭_太郎氏に豊田市長選挙立候補を要請したが、失敗した。直後、鈴村鋼二が「こうなったら、オレが(犠牲になって)立候補する」と思い詰めて叫んだ。そこで豊田市政研究会の会議を召集して、立候補を決めた(このころ、神谷長は組織から離れていた)。わたしは、地方新聞社のN社長に供託金などの選挙資金をつくってほしい、と頼んだ。準備し、豊田市役所で立候補の記者発表までおこなった。それを知った神谷長が烈火のごとく怒鳴った。「バカ、鋼チャン(名前の頭文字)がやれると思っとるのか」と一喝された。その一声で、数日間の準備作業は粉砕されてしまった。わたしは選挙資金をN社長に返還した。

H 「釣り」
幾度も誘われたし、釣りの現場にも数度同行したが、わたしはどうしても釣りをおこなう気が起きなかった。釣りをしている時間があったなら、他にやることが沢山あるのに、と不満であった。そして、わたしがじっとできずにイライラしているのを気付いていて、釣りを強制はしなかった。

I メモやハガキ、手紙など

神谷長からの指示(連絡)メモ、ハガキ、手紙などは、多くの書類の中に混ぜて保存しておいた。議員活動を中止して20年になり、心の整理もでき、書類の山を整理しはじめた。8割方、処分した。神谷長からの指示(連絡)メモ、ハガキ、手紙など50点近くを机に並べた。見慣れた文字を目にしながら気付いたことだが、すべて語り口調であった。そこから神谷長の声が聞こえてきた。言葉は簡潔にして丁寧、少し口篭る。
神谷長は、57歳で逝った。今、わたしは、69歳なのに、神谷長は、兄貴みたいな存在で、声がはっきり聞こえてくる。わたしの体の中にしみこんで生きているのだ。

2008年3月20日 追加掲載

遺作集『人生日々飄々』―神谷 長(ベンネーム・中村敏郎)作品集 ―が出版されたのが1994年9月。
著者略歴には、1934年(昭和9)、刈谷市に生まれ、1991年9月13日肝臓ガンのため逝去。
そして、行を代えて次のように記載されている。
趣味は釣り、読書、映画、落語。とくに米大リーグ野球については大ファンで、マニヤックなほど豊富な知識を持ち、熱を入れていた。また、映画「寅さん」シリーズ(山田洋二監督)の限りないファンでもあった。
ここに記載されていることに間違いはない。しかし、これは一部であって実像ではない。だからと言って、実像を正確に語ったり、描くことは、わたしにはできない。なぜなら、神谷長にとってわたしは、「疲れる」存在・人物であった。神谷長を「癒してくれる」存在・人物は、濃度と温度差はあったが3〜4人ほどいた。わたしは、1958年ころから1980年ころまで約20年間、神谷長のそばに居続けた。そして、神谷長を一番悩まし、苦しめた。だが、神谷長を「癒してくれた」人々を全部足し算してもわたしが一緒にいた時間のほうが多いはずだ(家族はのぞいて)。遺作集『人生日々飄々』は、「癒してくれる」人々を語ることで、神谷長を支え、生きるエネルギーにした作品集だ。「癒してくれない、父・神谷繁太郎や渡久地政司」を消した作品集なのだ。遺稿集の表紙の巻紙には、次のように書かれている。
諧謔にとむ滑稽譚!作家や思想家など古今東西の知賢から吸収した博学、熊さん、八っぁんら庶民から学んだ多くの智恵、そして諧謔。自動車王国トヨタ城下町に住み、57歳で忽然と逝った"挙母の神谷長さん"が遺した数千枚に及ぶ私小説的作品の中から、ウィットにとむ数編を選んだ。
「神谷長さんとこへ行くと、つねに帰りは夜中の2時、3時だ」と言いながら、それでも友達たちは彼の家に出向き、その長広舌に吸い寄せられた。上林暁や井伏鱒二や太宰治が好きで、文学論あり、政治談議あり、民俗学、講談・落語・釣り談義、歌謡曲論。はては"寅さん"の実演までつづいた。とは言っても奇人とは違う。いや、隠れた異才の行くところ、つねに逸話の種はつきない。その片鱗をこの作品群はあますことなく語っている。

(T) わたしは、神谷長の最悪の弟子だった。神谷長が釣ってきた川魚のテンプラをいただきながら、居眠りをした。「オイ、起きろ」と起こされることも度々だった。いつも仏頂面をして釣りの話しを聞いた。香嵐渓の巴川や稲武の名倉川にに連れて行ってもらったことがあるが、見ているだけで釣ろうとはしなかった。釣るヒマがあるのならやらねばならないことがたくさんあるはずなのに、という気持ちが先立ってイライラしていた。神谷長は、イライラしているわたしを見ぬ振りして、無視(我慢)した。神谷長と付き合いはじめた1958年から40年間くらい。わたしは住居は、トヨタ自動車本社の西のトヨタの社宅であった。一方、神谷長の住居は、トヨタ本社の南側にあった。神谷長が下町(挙母)に自転車に乗って出かける時は、ほとんど一緒だった。そして、夜明け前の2時か3時ころ、あれやこれやの話をしながら帰ってきた。わたしが睡眠不足になるので早く帰宅したい、との素振りをみせると神谷長は、話題を面白くさせ、引き止めにかかる。そんな動作と心理的駆け引きが常であった。
神谷長の下町のコースは、最初に書店にはいり、本をさがし、店主と雑談をし、ここで閉店までいて、それから鈴村鋼二宅か野々山紀彦宅にでかける。このころ鈴村は不在が多かったので大方野々山宅であった。野々山は、わたしと正反対の性格をしていた。包容力があり、しかも理解力、忍耐力があった。決して人の悪口をいったり、批判したりしなかった。なによりも神谷長の話す一切のことを吸い取り理解し、共鳴した。神谷長の疲れを知らぬ長広舌をイヤな素振りを見せずに聞いていた。神谷長が一番「癒される」人物であった。鈴村鋼二も新見幾男も神谷長のよき弟子であった。彼らは、精神的悩みなど神谷長には率直に話していたし、それに対して神谷長は真剣に聞き、解決策をみいだし、処理した。
自尊心の強い鈴村鋼二は、バカ呼ばわりされ、それに必死に抵抗し応戦するのだが、神谷長にはいつも勝てなかった。神谷長の「バカ」には、愛情が含まれていたので、鈴村も新見も精神的危機を幾度も救われていた。神谷長自身も野々山、鈴村、新見から「癒される」存在だった。わたしは、どういう存在だったか。人物としての包容力も知的理解力もなく、更に「祭り文化」「社会的常識・知識」が、育った環境から欠落していた。唯一の取り得は、左翼的言動があっただけ。たまたま、誰もがイヤがる役を大根役者よろしく演ずることくらいしか出来なかった。イヤがる大根役者に演技を強いるのだから、演出者としての神谷長は、細かいところまで気配りした。
神谷長はサービス精神が旺盛だった。だが、サービスすることで自分も癒されていた。「いた」と断定的に書くが、オーバーないい方ではない。以下、エピソードを挙げ、そのことを証明したい。
神谷長がサービス精神を提供しつづけたのは、野々山紀彦、鈴村鋼二、新見幾男らであった。だが、同時に神谷長自身が救われてもいた。
野々山は、喚くことを決してしなかったし、どんなに多忙であっても、連絡なく突然訪問してもイヤな顔をせずに受け入れた。海のような、というオーバーな言葉がピタリする包容力があった。神谷長だけでなく独りになることをいつも怯えている鈴村も包み込むだけの器だった。複雑な彼らの行動、言語をも理解し受け応えできる頭脳を持つ器だった。
神谷長は、野々山と会っている時、一番嬉そうだったし、彼をだれよりもかわいがっていた。1960年安保闘争のころ、野々山は働きながら受験勉強(大学受験資格試験)をしていたのだが、デモの前と後は、野々山宅に集まっていた。
野々山、鈴村、新見は、3兄弟みたいだった。お前とは絶交だ!といってケンカをしても数分後には仲良く話しこんでいた。神谷長は、鈴村や新見を「バカ」とどなりつけることがたびたびあったが、この「バカ」には愛情がこめられていた。鈴村や新見の個人的な問題にも真剣に取組み解決のために時間と体力と知恵を「消耗」していた。
こんなエピソードがあった。N君が好きになった女性を神谷長さんが自宅で「庇護」した時など、N君から暴力をふるわれ、首筋を痛め、湿布をしていた。「あのバカが…」といったが、どのようにバカなのか、を同年のわたしには話さなかった。話し好きで、男と女の話になると脚色してオーバーに話すのだが、身近な存在のN君の精神を貶めるようなことはしなかった。
1965年(昭和40)8月1日、神谷長、鈴村、故竹内洋治、Fとわたしの4人による「本多鋼治と市政研」録音テープが残っていた。劣化して聞き取りにくいのだが、神谷長節を彷彿とさせる。また、1960年代末の幻のテープがあるはず、そこに神谷長の歌声もある(捜査中)。
女性を「女は菜っ葉や葉っぱ」と言う時もあるが、これは逆説的な表現なのだ。神谷長くらい女性の気持ちがわかり、女性の扱いに長けている男をわたしは知らない。女性に対し実に丁寧、親切、それが演技ではなく、ほんとうに真心をこめられたものだった。だから少女から老女まで、神谷長のファンは実に多かった。
先にも書いたが、わたしの母は、沖縄の山原(ヤンバル)の森の貧しい叔母の家で育ち、小学校に通うことができず、まつたくの無学な女であったが、人間に”真心があるのかどうか”を見抜く力だけは長けていた。1963年4月、わたしが無謀にも市議会議員に立候補を決めたことで母は毎日泣いていた。神谷長は、無口な母から夜明けまで泣き話しを聞き、納得させた。以後、母は神谷長を信仰に近いくらい信頼していた。
神谷長の工場で働いていて退職した職人、その一人暮らしの妻(軽い痴呆にもなっていたが…)の悩みを聞き、その老女の問題を解決せよ、と指示があった。どこにもある家庭内の不和であった。老女は、神谷長を絶対的に信頼していた。
鈴村や新見の母親も神谷長のファンであった。一緒になって息子についての軽口(愚痴)を叩くのだが、いやらしさがまったくなかった。
Nの弟のH君が彼女に振られた、ことを知った時、真剣にその話を聞いていた。わたしは、「不介入」を決め、二人のそばから離れ、本棚にあった楽譜を手にとり、フォークダンスを鼻歌にしていた。その時、神谷長がわたしに向って「やめろ」と怒鳴った。
サービス精神旺盛なことは、著書『人生日々飄々』の各所にみられるが、「ああ歌謡曲(P328から)」で遺憾なく発揮されている。「…鏡台の鏡掛け…友禅模様…」の話しは、気味悪いぐらいだ。

U 飽くなき攻撃精神
その神谷長のもう一つの強烈な側面は、飽くなき攻撃精神である。黒川君を守る運動での荒川板金のS委員長(挙母中学の同級生・洞泉寺末寺住職)、H校長(戦時中の挙母小学校4・5年担任ー『人生日々飄々』P72〜73)、息子の小中学校の担任教師(著書『人生日々飄々』P62から)、そして「標的」となった多くの人々。標的となった彼らがとりたてて「悪人面」をしているわけでもなく、ごく普通の人たちなのだが、神谷長の神経に過度にふれ、神谷長が標的と決めると強烈な文字の「弾丸」が撃ち込まれる。同時に、神谷長自身も猛烈に傷つくのだった。
標的にされた人たちは、地獄を経験させられるが、その標的を攻撃するための「駒」にされた人物も、これまた地獄を体験することとなる。

 神谷長の工場に働いたS君は、仕事上のこと以外での強制指示で「どうしてオレが苦しめられるのか、今もってわからない」、と当時を述懐していた。
『人生日々飄々(P56〜)』に登場の、工場のリフトカーの運転手も、工場のためおこなった善意がなぜ神谷長を苦しめるのか、と理解できないだろう。
このようなことをくだくだ書いたのは、次のことを言いたかったからだ。野々山や鈴村、新見は、神谷長の「弾丸」ではなかった。
それでは、渡久地政司はどうだったのか。

V 「弾丸」にされた渡久地政司
わたしは、神谷長さんから過剰なくらいサービスをうけ、精神的な庇護をうけ、危なっかしい「壊れモノ」として大切な扱いをもうけた。しかし、それは、神谷長の「標的」を砕くための「駒・武器・弾丸」としてであった。
幾つかエピソードをあげたい。
神谷長の指示は、有無を言わせないものだった。抵抗すると、100倍はねかえってきた。無理難題が多かった。

○ 1967年夏、原田屋書店( 月刊市政研(記載)原田屋とトヨビルのエレキ)の屋上のエレキバンドは喧しい、書店文化にエレキとは何事か、あのバンドをやめさせよ!と指示があった。わたしは、「原田屋さんと神谷長さんは、親しい仲なのだから直接話しをしたら」、と言ったら猛烈に怒った。この時、わたしは、沖縄の渡航制限撤廃闘争を計画していたので、豊田市にほとんどいなかつた。後日、このことをきちんと覚えていて、原田屋のエレキをやめさせることを放棄して沖縄闘争へ「逃げた」と指摘してきた。

W 神谷長の異常指示
○ 神谷長の自宅北側の県道歩道改良工事の騒音がやかましい。やめさせよ!の指示があった。『人生日々飄々(P106〜)』の「トヨタ病院」を読めば、どんな経緯か想像がつくが、これは痛ましいものだった。わたしが苦しんだのは、この工事を請負ったのが、神谷長が経営している企業だったからだ。わたし(過激派市議の悪名を轟かせている渡久地政司)が名乗り出て、阻止行動を起こすことで生じる騒動、そのリアクション。気乗りはしなかったし、結果をおそれて介入を避けた。このことを神谷長は、嘆き、悲しみ、怒った。結果、神谷長を孤立無援にさせてしまった。
○ 神谷長が長男・太郎君に長髪で中学に登校させることを知った時、震えを覚えた。わたしは支援の仕方で迷いに迷い、市議会一般質問で取上げ、教育委員会・学校を生徒の人権問題として厳しく糾弾した。しかし、神谷長は、アリバイづくり、お茶を濁した、と言った。この闘いでも神谷長を孤立させてしまった。
○ シッペがえしは、身内から起きた。その話しをそばで聞いていた長男・政治(まさはる)が中学入学にあたって長髪登校をすると宣言をした。わたしは政治に、市会議員が自分の息子のことで学校とわたりあい、介入することはできない、と妙な屁理屈を盾にし、「支援はできない、覚悟を決めてやれ」、と突き放した。息子は、入学式で重圧に潰され、失神した。入学後、学校ファシズムの嵐が舞った。学校・PTAは後方にいて生徒会・親衛隊の女子生徒を操り、陰湿な「イジメ」にでてきた。また、わたしの地元後援会の有力者が、トグチの後ろ盾の長老・矢頭_太郎氏のところにでかけ、「長髪をやめさせないとトグチの支援はできない」、と申し入れた。頭髪問題が市政研究会でも検討された。その時、鈴村鋼二が「親の人格とこどもの人格は違う。こどもが決めるのならそれでよい、親が決めることではない」と東大生的正解・人権民主主義の理屈を披歴し、鈴村の息子は「丸刈り」で登校した。わたしは、言葉を失い沈黙した。
○ 1970年前後、神谷長の要請(エレキ騒音、道路騒音、長髪)に応えることができず、悶々とした日々がつづいた。「無理だ、できない」、とは言えなかった。
○ 高校新設運動(1967年)で、神谷長は「普通科、男女共学、小学区制」の3原則を打ち出し、この路線で運動をはじめた。3原則は、わたしは理解でき、正しい、と思った。高校新設運動の論理は、1970年代になって、市政研内で異論が出て論争となった。そのころ神谷長は、市政研と距離を置いていた。3原則を主張してわたしは孤立した。
○ 議員報酬引き上げ反対運動で引き上げられた部分の受け取りを断固拒否せよ、を最初(1964年〜)に決定し、指示したのは神谷長だった。この路線を堅持し闘いを続けていたが、1970年代に入り、市政研内の多数は、受理せよ、であった。神谷長は、この論争にも加わらなかった。
○ 衆議院議員選挙・太田一夫(社会党)支援をめぐって市政研内に意思疎通による不手際が生じた。このことで鈴村から責められ新見が市政研を去った。
○ 1960年代の高校新設運動や議員報酬引き上げ反対運動までは、神谷長がかかわっていたが、1970年代から少しづつ市政研運動と距離を置くようになっていた。
○ 1970年代後半、神谷長と新見が去った後の市政研を鈴村鋼二君が仕切った。高校学区制・議員報酬などで市政研内部では議論だけは盛んになった。

X 1991年9月 神谷長とのお別れ
○ 神谷長は、市政研運動から距離を置いていたが、「神谷長一家 = カミヤ・ファミリー」は健在だった。神谷長を核にして野々山、鈴村、新見らは、関心の軸を「矢作川浄化・魚」に移行させた。わたしは不器用だったので、この移行を拒んだ。
○ 1990年 新見幾男とわたしは、トヨタ病院に神谷長を見舞った。神谷長には、例によって、病名を語らず、世間話で「煙」にまかれてしまった。
○ 1991年(平成3)夏、神谷長が「末期ガン患者」として名大病院に転院したことを知り、妻と一緒にお見舞いに行った。体を起こし、かわいい看護婦がいかにバカな振る舞いをしているか、面白おかしく説明し、見舞い客との立場を逆転させ、わたしを喜ばそうとした。わたしは、例によって仏頂面をし、お見舞いの言葉もろくすっぽ言えずにその場を離れた。それが最後の「おわかれ」となった。
○ 告別式・洞泉寺境内、「9月13日(金)だが、キリストとは関係ないな」、と無駄口をたたき、「雲ひとつない青空がこんなにも悲しくひろがることもあるのだ」、とまぶしい大空を仰いだ。



この稿未完成です。