A 文章・フィクション
神谷長の文章には、フィクション・ウソもあった。わたしが言わないことが大げさに書かれているケースも多々あった。ゴーストライターなので、矢面に立たずに済むことをよいことに、面白おかしく、相手を茶化したり、バカにすることもあった。このことは政治宣伝ビラでは、相手に打撃をあたえることに有効だった。しかし、相手と常に顔を合わせている(対峙している)わたしにとっては、大変な重圧となって跳ね返ってきた。
渥美町の作家・杉浦明平さんのルポルタージュに登場する田舎政治家の馬鹿げた振る舞い、それをこらしめる清田和夫町議のパターンをイメージしての文章には誇張が多かった。
その1例。豊田市議会の東京陳情のおり、たまたま佐藤保豊田市長と宿(台東区本郷の和風旅館)が同じになった。佐藤市長が風呂から「ふり金」て゛出てきた。その話を神谷長にした。神谷長は面白がってそのことをビラに書いた。それをビラにしてはいかん、といくら言っても聞く耳をもたなかった。このビラのことを佐藤市長は何も言わなかったが、同僚の市議会議員や市職員はえげつない、と言った。わしはえげつない、とは思ったが、「何を言ってけつかる」と開き直った。
B 気遣い
長男政治(まさはる)が4歳くらいの10月、神谷長がこども用のまつりハッピを買ってくれた。それまでのわが家の文化には、誕生祝いやおまつり文化はなかった。また、それをおこなう経済的余裕などまったくなかった。それだけに政治は大変よろこんだ。神谷長は、わが家の細かところまで気遣ってくれた。
わたしは、豊田市議会議員に立候補することを、両親には言っても詮無いことだ、と思い告げなかった。地方新聞は「散票をとるのがせいぜい」と酷評した。近所の有力者たちもそんなうわさをしていた。母親が心配して泣いていることを知っていたが、ほっておいた。後日、知ったことだが、神谷長は、わたしの母親と夜明けまで話しこんでくれた。以後、母親は神谷長を絶対的に信用していた。このことを神谷長は、わたしには一言も言わなかった。
C 無理難題
選挙では、神谷長は昼夜なく実を求めて動いたが、それを恩着せがましく言うことは絶対になかった。そんな神谷長の性格を知っていたから、神谷長からの無理難題には耐えた。また、耐えなければならない、と思った。
わたしが何を考え、悩んでいるかも神谷長はお見通しであったが、そのことは口にださず、無理難題を敢えて強制することがしばしばであった。無理を強制する自分自身のこともよく承知していた。無理難題の強制は、神谷長自身へも返り血となっていた。
D 生活
神谷長がやろうと思えば、ゴルフ、パチンコ、マージヤン、海外旅行、歓楽街での飲み歩き、金銭の大判振る舞い、ギャンブル、女遊び、成金の道楽のすべてをやれた。しかし、そんなことは微塵もなかった。常に自転車に乗り、きちんと洗濯された作業ヅボンをはき、夏はゲタ、冬も足袋とゲタであった。お金のあるブルジュアとして行うことの唯一の贅沢は、本を買うことだけだった。定価を見ず、欲しい、必用とする本は、すぐ買っていた。その本について、すぐに解説してくれた。
E 読書
太宰治を全集で全部読んだ。その切っ掛けは神谷長だった。神谷長は、太宰の「津軽」「女学生」「満願」など暗唱していた。それを幾度も聞かされた。スノー、スメドレーなどの中国ものから久保栄『登り窯』や本庄睦男『石狩平野』、柳田国男『遠野物語』など多数。神谷長50歳前半に勧められたが読まなかったものに内田百閨A井伏鱒二がある。理由は、わたしが、内田百閨E井伏鱒二のような「醒めた・枯れた」人物の作品を読む心境になかったからだ。
F 日本民謡・シャンソン・歌謡曲
津軽三味線のすばらしさを神谷長の口三味線で教えられ、後日ほんものを聞き、納得した。東北から岐阜、多くの盆踊り歌を神谷長からおそわった。ただ、わたしは、それを歌うことができなかった。若いころに歌う習慣がなかったし、その機会を逸していた。
神谷長は、ロシア民謡もじょうずだったが、シャンソンはとりわけうまかった。それもフランス語で歌った。イブ・モンタンが好きであった。ラ・マルセーユもよく歌っていた。
歌謡曲も実によく知っていてよく聴かせてもらった。歌いはじめると、かならず3番までをきちんと諳んじていて、丁寧に歌った。企業のお座敷には、絶対にあがらなかったが、お座敷唄も得意だった。軍歌は少年時代の青春歌なので、これもよく知っていた。
G 鈴村鋼二の市長選挙始末
1972年初冬、故矢頭_太郎氏に豊田市長選挙立候補を要請したが、失敗した。直後、鈴村鋼二が「こうなったら、オレが(犠牲になって)立候補する」と思い詰めて叫んだ。そこで豊田市政研究会の会議を召集して、立候補を決めた(このころ、神谷長は組織から離れていた)。わたしは、地方新聞社のN社長に供託金などの選挙資金をつくってほしい、と頼んだ。準備し、豊田市役所で立候補の記者発表までおこなった。それを知った神谷長が烈火のごとく怒鳴った。「バカ、鋼チャン(名前の頭文字)がやれると思っとるのか」と一喝された。その一声で、数日間の準備作業は粉砕されてしまった。わたしは選挙資金をN社長に返還した。
H 「釣り」
幾度も誘われたし、釣りの現場にも数度同行したが、わたしはどうしても釣りをおこなう気が起きなかった。釣りをしている時間があったなら、他にやることが沢山あるのに、と不満であった。そして、わたしがじっとできずにイライラしているのを気付いていて、釣りを強制はしなかった。
U 飽くなき攻撃精神
その神谷長のもう一つの強烈な側面は、飽くなき攻撃精神である。黒川君を守る運動での荒川板金のS委員長(挙母中学の同級生・洞泉寺末寺住職)、H校長(戦時中の挙母小学校4・5年担任ー『人生日々飄々』P72〜73)、息子の小中学校の担任教師(著書『人生日々飄々』P62から)、そして「標的」となった多くの人々。標的となった彼らがとりたてて「悪人面」をしているわけでもなく、ごく普通の人たちなのだが、神谷長の神経に過度にふれ、神谷長が標的と決めると強烈な文字の「弾丸」が撃ち込まれる。同時に、神谷長自身も猛烈に傷つくのだった。
標的にされた人たちは、地獄を経験させられるが、その標的を攻撃するための「駒」にされた人物も、これまた地獄を体験することとなる。
V 「弾丸」にされた渡久地政司
わたしは、神谷長さんから過剰なくらいサービスをうけ、精神的な庇護をうけ、危なっかしい「壊れモノ」として大切な扱いをもうけた。しかし、それは、神谷長の「標的」を砕くための「駒・武器・弾丸」としてであった。
幾つかエピソードをあげたい。
神谷長の指示は、有無を言わせないものだった。抵抗すると、100倍はねかえってきた。無理難題が多かった。