■大浜 晧先生
愛知沖縄県人会会長■

 


2006年03月26日掲載
愛知沖縄県人会長・名古屋大学名誉教授(文学博士)。
経歴 著書『中国の古代の論理』『老子の哲学』等多数。明治37年沖縄県石垣市登野城生まれ、東京大学大学院卒。
愛知沖縄県人会だより

昭和43年8月1日 第1号
わたしの人生の中で10年近くだが、愛知沖縄県人会でお会いし続けた。親密な関係ではなかったが、かなり頻繁にお会いした。
沖縄復帰と安保闘争の最盛期の1967年から70年、わたしは「過激な」市議会議員であったが、市議会議員選挙では推薦人になって下さった。当時、先生は、愛知沖縄県人会長をしながら名古屋大学教授(国家公務員)でもあった。少しでも政治・選挙を知っていたならば、名古屋大学教授の肩書を使用することに躊躇するところだが、わたしの政治活動について一言も苦情を言わなかった。
先生が愛知沖縄県人会長をなさっていた期間は、沖縄県も全国的にも、沖縄県の祖国復帰運動の高揚期であった。愛知県においては、社会党系と共産党系の運動があり、県人会の役員会では、自民党系が多かった。そんな中で大浜先生は、いつも真実一路という感じで何事にも一生懸命であった。
役員の中には、愛知県労働組合総評議会から県人会役員会の承認がないままに旅費を引出し沖縄旅行に出かける者もいたし、愛労評役員をサギにかけ、迷惑をかける破廉恥奸もいて、金銭をめぐってイヤなうわさが絶えなかった。呆れ返るようなことを言い出す人もいたし、約束は反故にされるし、勝手気ままな行動がめだった。わたしは、半ば諦め役員会の議論には深入りすることを避けていたが、火中に居つづけた先生は大変だったと思う。
 あのような時代に県人会を維持できたのは、先生の「人格と識見」(手垢に汚された言葉になってしまったが)によるところ大であった。
 大浜先生に最初にお会いしたのは、1958年か59年ころ、愛知沖縄学生会結成記念講演(愛知大学名古屋校舎)で大浜先生の講演をお聞きした。講演を依頼したのは、名大に「国内留学」していた学生だったと思う。先生のスピーチの内容は記憶にない。
 先生と頻繁にお会いするようになったのは、1965年から70年代後半であった。先生の借家は、名古屋市千種区仲田町、今池交差点の東側5百bくらいの平屋であった。ここで県人会の役員会も含めて数回おじゃました記憶がある。後、千種区猫が洞マンションに移転した。ここには、4〜5回ほど訪問した。先生の書棚には、沖縄関係の蔵書とともに中国の漢籍がきちんと整理されて並んでいた。琉球新報社の社長の著書『』をいただいた。同級生だ、と言っていたように思う。
 先生がお亡くなりになったことは、数か月後、たまたま見た中日新聞の記事で知った。そこには、先生の遺言で蔵書は郷里の石垣市に寄贈されたと書かれていた。愕然としつつも蔵書が石垣市に寄贈されたことはよかった、と思った。
 先生の姉は宮城文と言い、著書がある。そして甥が沖縄県副知事をしている、と間接的に聞いた(確認していない)。
 10数年たってから、あるルートで、名古屋大学が名誉教授推薦理由とする資料を入手した。そこには、叙勲を辞退した、と書かれていた。
先生には、お子さんがいなかったのでお墓がどこにあるのか、わからない。
 幾度もお会いしたのに、お写真は1枚もない。
 資料
 名古屋大学名誉教授推薦理由(大浜 晧)
 元本学教授(文学部)大浜晧氏は昭和9年3月九州帝国大学法文学部支那哲学科を卒業後、東京帝国大学大学院に進み、昭和14年同大学院を満期退学し、昭和16年5月台北帝国大学予科教授ら任ぜられ、終戦により内地に帰還、同教授を退官されたが、名古屋大学文学部の創設とともに昭和23年11月名古屋大学助教授(中国哲学史)ならびに大学院文化研究科東洋哲学専攻課程担当教授として昭和43年3月停年退職されるまで、本学において19年5カ月(本学名誉教授称号授与規定による在職期間通算19年1月)にわたり、中国古代哲学を中心課題として研究と教育に専念された。
同氏の研究は、主として先秦の諸子思想を対象とし、特に老荘思想と名家の論理思想とに鋭い洞察を示された。氏は個々の思想に克明に分析してその思想を構成する諸因素をとりだし、各因素相互の間の論理的連関を明らかにし、各思想を有機的体系的に再構成する方法をとった。西洋哲学についての深い造詣によつて、氏の論述はきわめて精緻な論理性をそなえており、老子の逆説や荘子の判断放棄の思想が絶体無によつて統一されていることを論証し、また、名家の難解な文献を論理的に見事に解明された。これらの成果は「道家の論理と名家の論理」と題する学位論文として九州大学に提出され、文学博士の学位を授与され、のち、『中国古代の論理』として公刊された。明治末期に、旧来の漢学から脱皮すべく中国哲学という学問分野が生れたのであるが、哲学的論理学的な研究は必ずしも深められず、中国緒思想の羅列的解説のみをこととしていた中国哲学界の中にあつて、同氏は独自の哲学的研究方法を確立されたのである。論語・中庸・孟子などについての緒論考も、上記の方法の適用であり、また「水墨画の論理」は中国芸術論の探求であつて、氏の視野はいよいよ中国思想史全体へとひろがり、中国学の研究者一般に対しても新しい道を指し示された。
以上のように、同氏はすぐれた中国哲学の研究者であるが、また有能な教育者でもうることは、名古屋大学教授としての指導・教育活動において明らかであり、さらに『老子の哲学』『荘子の哲学』などの大著は、高度な内容を平明達意の名文章に託して表現したもので、斯学の専門家のためばかりではなく、ひろく初学者に対する入門教育の役割をも果たし、さらに欧米の研究者にも影響を及ぼしている。
なお、同氏は文学部創設時に着任、同学部発展のため努力し、また名古屋大学評議員として本学のため寄与された。さらに日本中国学会の創立(昭和24年)以来、その理事・評議員をも歴任して今日にいたつており、学会のために貢献された。
以上のごとく、長年にわたる同氏の本学における学術上ならびに教育上の功績は、まことに顕著なものがあるので、本学名誉教授称号授与規定第3条により名誉教授に推薦する。

 本籍 東京都中央区日本橋2の4の2
 現住所 名古屋市千種区池上町2の8 第2猫ケ洞マンション101
 氏名   大浜 晧
 生年月日 明治37年7月22日
昭和9年3月 九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業
昭和14年4月 東京帝国大学大学院満期退学
昭和21年 勅令により台北帝国大学予科教授を退官
昭和22年 東京帝国大学文学部副手
昭和23年 東京大学文学部副手(文部教官)
昭和23年11月 名古屋大学助教授
昭和24年 名古屋大学教授
昭和32年 文学博士の学位授与
昭和43年 停年退職
著書
『中国古代の論理』 昭和34年  東大出版会
『老子の哲学』   昭和37年  勁草書房
『老子の政治思想』 昭和37年  大東文化研究所
『荘子の哲学』   昭和41年  勁草書房