■ 山本卓也弁護士のこと ■




渡久地政司

 

山本卓也弁護士のこと

山本卓也―― 2003年7月21日午前4時57分心不全、逝去、享年71歳。
 後日、ご逝去を偶然、インターネツトを開き知った。12月5日、すぐお電話し、6日午後、多治見市のご自宅を訪問、焼香させていただいた。
山本卓也さんとのお付き合いは、弁護士と依頼人との関係の範囲を越えていた。たくさん事件を紹介し、依頼(お願い)した。また、逆に調査を依頼されたこともあった。時には、山本弁護士の手のうちで踊らされ、翻弄され、山本さんの真意がわからず、困ったこともあった。労働運動、選挙運動、市民運動で強弱はあったが、山本弁護士との接触は数多くあった。山本弁護士を取り巻く人々との接触も多かった。 全部を書くことは不可能だが、思いつくままに、羅列しておく。

 1963年、豊田市会議員に当選して直ぐに、気軽に相談できる弁護士の大切さを痛感していた。それまでにも「黒川君を守る会」で、愛知国民救援会を通して、共産党系の良い弁護士を紹介をうけ、弁護士とのお付き合いはあった。しかし、市会議員選挙を通して、共産党機関紙アカハタが、わたしたちを「トロツキスト集団」と糾弾したことにより、気まずい関係となった。1965年ころ、豊栄労組の村松弘平書記長から、山本弁護士の存在を聞いた。資料では、1966年10月、豊田市労働者市民救援会として第1回の無料法律生活相談をおこなっているので、これ以前に岡崎市伊賀町の山本弁護士の自宅を訪問している。毎月の法律相談後、岡崎市のご自宅まで車でお送りした。車中、話の花が咲いた。自宅に着いてからも、「お茶を飲んで行け」、と言い、そこでまた、話の花を咲かせた。新進気鋭、ハキハキとした人当たりのよい方であった。私が帰宅する時は、玄関先の道路まで出て見送ってくださるのには、恐縮してしまった。

 1966年ころ、私たちのグループ「豊田市政研究会」も新左翼(ニューレフト)も、輝いていた。とくにベトナム反戦は、内紛も、内ゲバもなく初々しく輝いていた。
山本卓也弁護士が一番輝いていたのもこのころではないだろうか。三河地区自動車交通労働組合が全国例をみないようなユニークな闘いを展開し、その顧問弁護士だった。しかも、新左翼をも支援する数少ない弁護士の一人でもあった。
ベトナム反戦直接行動委員会(アナーキスト系)が1966年10月19日、東京都田無市の日特金属を攻撃した。このニュースは、知識として私は知っていた。10月末か11月初めの夕方、小雨の中、ずぶ濡れの若者(後日わかったことだが、早稲田大学の学生)が県営住宅のわが家の玄関先に立っていた。東京の日特金属を攻撃したアナーキストグループの若者で、指名手配されていることだけは、わかった。
私は、@名前をいうな、A事件の内容をしゃべるな、を最初に告げた。そして、「何をしてほしいのか」だけを言ってほしい、と言った。話し合ったことの詳細は、ここでは省略する。ただ、彼らと山本弁護士間で、事前に私が中間に入って打ち合わせをした。そして、取り決めとしては、「名古屋では、刑事事件を起こさない。が、効果的キャンペーンはおこなう」、というものであった。彼らは、11月5日午前7時50分、豊和工業(名古屋市)を攻撃?した。しかし、権力は、刑事事件として立件できなかった。それは、彼らが、正門で労働組合に面会したい、と正式の手続きをとり入門、構内でビラを撒いたが、暴力行為は一切しなかったからだ。しかも、第三者がそれを確認していた。マスコミは、アナーキストが豊和工業を襲撃した、と報道した。私は、正午のNHKテレビの全国トップニュースで観て、「ヤッター」と思わず叫んだ。

山本卓也弁護士の救援活動
『思想の科学』誌(1967年1月号)
直接行動の若者を弁護する  山本卓也 を転載しよう。

僕達の仕事は何時も突然に始まる。それにしても、これは"突然"の話であった。11月15日午後4時、別件で訪れていた伊藤泰方弁護士(名古屋在住、大須騒乱事件主任弁護人)の事務所へ、「今朝豊和工業へ進入し、反戦ビラをまいた氏名不詳の6人の青年が弁護を依頼している。面会にきてほしい」と、愛知警察本部からの伝言である。
事件の概要・程度何一つ判らない。しかし反戦と聞いては、放っておけまい。3大新聞の夕刊をわしづかみにしタクシーに乗り、記事を追いかけながら急行する。
新聞によって扱いが多少違うが、要は「6人の青年が、従業員の出勤時にまぎれて工場に入り、反戦ビラをまいた」だけのようだ。
「大した事じゃないですネ。右翼の仕業ならすぐ帰すが、泊めても一晩。しかしこの事件はそうはしないでしょう。背後関係の捜査とか何とか言ってしばらく引っ張りますナ。かなの面倒な事件になりそうですネ」。タクシーの中で伊藤弁護士との専門的な対話である。西枇杷島署に到着。警察側からざっと様子を聞き、薄暗くして冷たい接見室へ、6人の青年―正確にはそのう2人は、刑事法でいう少年つまり未成年者であった−は何れも多く語ろうとしない。氏名も住所も完全黙秘。まして事件については何一つ語ろうとしない。「氏名は明らかにした方が、訴訟の戦術してはいいかも知れませんヨ」と助言しても、「考えて見ます」と答える。そこには氷柱のような冷え切った手がかりのない、かたくな拒否の姿勢があった。
刑事事件では何時も、地獄で会った仏のように迎えられてなれている僕らにとっては、やや、勝手の違った、しっくりしない感じの面会である。だが、その理由は青年達の重い口が開くと、始めて明らかとなった。一般に刑事被疑者のように自分の拘留や起訴についての見通しを尋ねることなく、若い心がそのまま投げだされた。「ベトナム戦争が重苦しい現実であるのに皆はあまりにも無関心でいる。いや、関心はあるよ、反対という人達は数多くいるとしても、実際には何一つしょうとしない。行動がないのです。それどころかベトナム人民を殺傷する武器を、日本の労働者が人民が、黙々と生産している。その事が許せないのだ。がまんできないのです。僕達の行動が大きな力になるとは思わない。しかし何かをやり、その事によって皆に、もう一度ベトナムを、戦争ということを考えて欲しかった」と言うのである。そこには白い壁に浮き出てくる、小さいけれでも清らかな、赤い炎があった。深い沈黙の中に一人醒めた純粋な青年の瞳が、さわやかにまたたいていた。安定という名の停滞と妥協の泥沼にとっぷりつかり、いい気持ちで、鼻歌をうたっている大人……つまり……僕達に対する強烈な不信と拒絶の姿があった。幼いと言えばいえ、僕はこれ等の貴重な若者との可能な限りでの連帯を愛そうと、心を傾けない訳にはいかなかった。
忘れてはいなかったのだ。
ベトナム反戦のゼッケンをつけて通勤する人達の話を聞いた衝撃。「えらいなァ。だけど俺にはできない」とつぶやいた自分。
アキヒコ・オカムラこそ戦後日本の生んだ最高の勇気ある若者だ。感激にふるえながら写真集「これがベトナム戦争だ」を事務所に備えて、得意になっている自分を。
6人は言った。「僕達なりに方針を立てています。家族への連絡はいりません。拘留されている事は止むを得ぬことかも知れません。だが反戦という正しい行動に対して、このような犯罪者扱いされることに抗議したいのです」。或る者は、同房の犯罪者に反戦の意義を説き、或る少年は、取調べの警官に、取り扱いの不当性を訴え、或る少年は、肉親等との面会不許可に怒ってハンストを行った。何時でも、何処でも人間の意思は、思想は行動として現せる事を教えた。
僕は検察官に訴えた。「事件処理もさることながら、彼等は現代における貴重な存在だ」と。老練をもって聞こえたH名地検公安部長は「ある意味ではそうですネ」と言うのである。
裁判官には「一体、本件は犯罪として成立するのか」、という法律論争をもちかけた。
 彼……僕(34歳)よりも後輩でありながら現在のポストに達しているエリートの一人T裁判官は言ったのである。「貴方がたの主張も判りますが、軍需工場で反戦ビラをまかれることを経営者が喜ぶ筈がない。もし青年達が、ビラをまくことを知っていたら、入門を拒んだに違いない。だから、この場合の青年達の行動は、住居の平穏を害する、つまり不正に住居に侵入したんだといわざるを得ないです。さらに氏名も住所も言わないと言うんじゃどこの誰か判らない。そんな人を野放しにはできません」。僕達は反論した。「日本国憲法の立場に立てば、反戦こそ正しい戦いです。氏名が判らないと言うが、新聞紙上には、はっきり発表しているではないか。理論のための理論をやめて、究極の法的正義をお互いに求めようではないか」。数回の押し問答のあげく彼は言った。「私だって判りますがネ。しかし今は資本主義の法律が生きている。私はその法の下で束縛されている裁判官ですからネ」。
かくて10日間の逮捕拘留の後、処分保留のまま釈放。直ちに東京の件にて再逮捕となり、6人の若者は新幹線で帰京した。
この間、様子を聞いて、思想・信条或は行動様式において必ずしも一致しないであろう緒団体から、僕達に幾つかの励ましの電話があった。なかでも愛知人権連合は、カンパを差し入れてくれ、孤独な戦いと思っていた若者を勇気づけた。あとでわかったことによれば、6人の中のO君は父を太平洋戦争で奪われていた。A君は、既に横須賀の原潜反対デモなどに参加しながら、先ず身体を鍛えなければとマラソンの練習に打ち込んでいた。僕は思うのだ。T裁判官が語ったように、確かに現在は資本主義の世の中だ。その中で生きていく為には妥協は不可欠な事柄である。だが同時に醒めた人々によっては戦いもまた不可欠だ。僕の行動はいや多くの人の行動は、だから、妥協と戦いとの稲妻型の路線になる。そのことは止むを得ないだろう。だが、決定的なことは、その稲妻路線が、全体としては、その行く末において、どちらを向くかにある。如何にして妥協を少なく、如何にして戦いの部分を大きくするかにある。その事が、その人の歴史を、そして価値を定めるのだ、と。
6人の若者は、あらためて戦う事の偉大さを僕に、そして貴方に賜ってくれたのである。その戦い方の当否は別として。
注:豊和工業は、日本一の鉄砲生産量を誇る軍需工場である。

2006年1月22日、山本弁護士のこの記事を打ち込みながら、往時、山本さん33歳、私30歳と若く、意気盛ん、二人ともやはり輝いていた、と熱いものがこみ上げてきた。私は少しも表にはでなかったが、かなりの時間とエネルギーを注いだ。それだけに思い出深い「闘争」であった。
後日談だが、実行グループの早稲田大学学生0君の復学では、当時同じ早稲田の学生であった私たちのグループYO君が精力的に行った。そして復学が成った。