■ 最後の地方紙記者■




渡久地政司



 最後の地方新聞記者 福岡寿一
 福岡寿一氏明治43(1910)年〜平成9(1997)年、享年87歳。元東海タイムズ社主(岡崎市)。豊田市天王町(宮口)に生まれる。昭和14年、岡崎朝報社に文選工として入社。後、文才が認められ名古屋新聞、中部日本新聞記者を経て岡崎市立図書館に勤務。昭和31年、独立して東海タイムズを創刊、以後30余年にわたって発行。この間、『三河風土記』『風塵録』など郷土に根ざした著書37冊を発刊。豊田市関係では渡辺釟吉(市長)、山中清一(商議所会頭)、本多鋼治(代議士)、伊藤好道(代議士)、伊藤よし子(代議士)、小林リ(代議士)、杉浦定治(商議所会頭)、川島五郎(侠客)、などを紹介。渡辺釟吉と本多鋼治は、政治では対立したが、双方の人物像を見事に記録し、両人から信頼された。特に、本多鋼治を記録した『最後の人』は、豊田市史の欠落部分を補う名著。作家尾崎史郎、文芸評論家本多秋五、評論家むのたけじ氏らとも交友があった。
  私とは親子くらい歳が離れていたので、多くのアドバイスをいただいた。また、東海タイムズ紙に好意的報道をしてくださった。そして、私の拙い文章を掲載してくださった。
 私が「徳川家康の生誕の地・岡崎がたった5万石」ではおかしい、と言ったところ、そのことを書け、とおっしゃったので調子にのって書いた。反響は全然なかったが、あまりの駄文だったので無視されたのだろう。
 福岡さんの著書『続・遠い足音』、『歳月迅し』に推薦の記事を書いた。それを次に引用する。

 『遠い足音』の後方

 昭和52(1977)年
 福岡さんの生まれたところは、豊田市の宮口上で、私は今、この宮口上に住んでいます。猿投山の南西の方4里に、猿投神社の宮口としての宮口上があり、江戸時代に大岡越前守の所領になったこともあり、明治初年に西宮口村、やがて挙母町に吸収されます。
 福岡さんを育てたのは岡崎であり、福岡さんも岡崎で骨を埋めることでしょうけど、根ッ子みたいなものは、宮口上にあるように思います。
 誤解(私の)をおそれず推理するならば、今、福岡さんは、『遠い足音』のはるか後方の、足音すら聞こえぬ宮口上に回帰しょうとしているように思えてなりません。福岡さんが一番嫌いなアウトロー・やくざ者の川島五郎や永田鎗太郎を本書で初めてとりあげたことでそのことが言えるように思えます。
 大正末、福岡さん小学校5年生の時、父親がさんざ道楽の末、遂に家屋敷や田畑が他人の手に渡り、7人兄弟の総領としての福岡さんは、3ケ月近く学校へも通えず、あげくの果てには夜逃げ同然岡崎に移住しています。福岡さんにとって宮口上は、飢えと悲しみと惨めたらしさしか残っている地であったように思います。だが、そこをバネにして、福岡さんは印刷工から独学で新聞記者になり、編集長にまでなっています。アウトローと世の不正を一番嫌い、健筆を揮います。だが、この間、宮口上や挙母は、福岡さんの脳裏から、忘れなければならないものとして、視野からも消えています。そして、30年近くの歳月が流れ、福岡さんが宮口上や挙母に回帰し始めるのは、昭和34年前後の挙母市が豊田市に市名変更される前後からです。
 福岡さんが、私に次のようなことを語ったことがあります。
 「宮口上の昔の思い出が残っているところを撮っておこうとカメラをぶらさげて歩いても、野も森も川も人もすっかり変わってしまった。宮口上だけでなく挙母もすっかり変わってしまった。昭和30年ころ挙母の町が一望できる樹木の御殿坂に立つと、昔を思い出してジーンと涙が出てきたが、挙母から豊田に市名が変更したあそこから間違いが始まった」。
 福岡さんの腹立たしさは、宮口上や挙母で生まれた者の多くが、自動車景気と土地ブームに有頂天になり、宮口上や挙母を破壊し尽くし、市名を消滅し、なによりもそこに住む人々の風情をなくしてしまったことへの怒りみたいなものなのでしよう。
 これも誤解をおそれずに推理するに、福岡さんは、『遠い足音』のはるか彼方の、宮口上のところから市名変更の挙母消滅を書くための道程として、『遠い足音』をお書きになったような気がします。『遠い足音』に登場して来た人物の生き様、挙母消滅でその緒を結びつけて結了としているのではないでしょうか。
 とすれば、今ここから、福岡さんが生涯をかけて成し遂げようとする仕事が始まり、『遠い足音』は、実は、福岡さん自身の足音のような気がしてなりません。

 福岡寿一著『歳月迅し―私の出会った人たち』

 序文―小さな新聞の大きな宝  昭和60(1985)年12月
 福岡さんの「東海タイムズ」がいよいよ終刊の日を迎えることになった。
 永い間読者でしたので、懐かしさを感じます。同時に、自ら起こした事業を自ら計画的に終止符をうつことに羨ましささえ感じ、敬意をはらわざるをえません。福岡さん、ご苦労さまでした。
 私事で恐縮ですが、私は政治運動を始めてから30余年になります。この間、ガリ版、タイプ、活版、写植等々印刷のインクの臭いと暮す毎日でした。そして、この間の一時期、政治運動の強力な戦力に、と独自の印刷工場を創設しょう、と同志を糾合して印刷工場を立上げました。しかし、私のいたらなさから同志間に内紛が発生、印刷工場は空中分解してしまいました。また、市議会議員になる前2ケ年間、地方新聞社で記者をしていました。この新聞社に入社早々、経営権を巡って内紛に遭遇、いやな思いをさせられました。また、この新聞社では、印刷工のゲリラ的サボタージュに悩ませられました。この時、小さな新聞社では、経営と記事、印刷を自分でやらなければならない、ということを痛感しました。
 戦後、全国の地方小都市に雨後の竹の子のごとく生まれた新聞社の多くが、理想を追求したが故に潰れ、生き残ったものも「ゴロツキ」「盆暮れ」「選挙」新聞と軽蔑されています。 
 私は、地方新聞の充実なくして何が「地域文化」か、と思っています。地方新聞を育てる地域の風土も大切ですが、「育てられる」だけの資質をもった人物が経営する新聞社が一番理想だと考えています。
 その理想の新聞が「東海タイムズ」でした。
 それは、福岡さんが、印刷工として出発、独学で新聞記者にはいあがった経歴が、そうさせたのではないでしょうか。記事を書き、文選から印刷、発送まで自分でおこなう。書いた記事をまとめておいて、本として出版する。そのようにして出版された著書が36冊にもなっているのです。
 私は、今年48歳になります。私の後半の人生では、「東海イムズ」型の新聞を不定期に発刊したいのです。議員共済年金が1ケ月14万円ほど入りますので、写植機を購入、印刷代と郵送費くらいを稼ぐ。この計画は、まだ女房の了解を得ていないのですが、女房も一緒に、が理想です。
 福岡さんの10分の1くらいしか書けれませんが、小さな新聞のペタルを踏んでみたいのです。それが可能なことを福岡さんが証明してくださいました。
 福岡さん、永い間、ご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。
 平成9年12月、福岡さんはガンで逝去なされた。病気入院のことは、他言厳禁、家族だけの葬儀をするように、と指示しておりました。福岡さんらしい生涯、といえましょう。
 翌年1月、ご逝去の事実を知り、岡崎市のご自宅を訪問、お参りさせていただきました。

『歳月迅し―私の出会った人たち』
 序文―小さな新聞の大きな宝の記事の中で、福岡さんにお約束した小さな新聞社は、実現できませんでしたが、ホームページに自己責任でニュース・解説・評論などの記事(雑文)を書いて掲載させていただいています。
 2006-1-18記