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■ 杉浦明平さんと豊田市
資料8点 ■


01-05-22



写真説明:杉浦明平生前追悼集『明平さんのいる風景』
杉浦明平さんと豊田市
さる3月14日、渥美町在住の作家杉浦明平さんが脳梗塞のため、87歳の生涯を閉じられました。16日午後1時から自宅近くのお寺での葬儀に参列し、お別れをしてきました。東京の主だった出版社や新聞社の花輪にまじって花柳幻舟さんのもあり、明平さんの交際のひろさを改めて知ことができました。 既に朝日、毎日、中日等の新聞の学芸欄には、明平さんの業績を称える追悼文が写真入りで掲載されています。ここに『明平さんと豊田市』と題して資料を掲載しますが、作家の業績は作品で評価すべきですし、作家がどこにでかけたか、とかは副次的なことだ、は百も承知で明平さんの豊田市でのかかわりや業績などを紹介します。なお、引用資料は全文の転載を避けていますので、全文の必要な方はお知らせください。
豊田市にかかわることで、明平さんがお書きになったものは2点が確認できます。
資料1:本多秋五全集・月報1
一つは、『本多秋五全集』月報(1)に「本多一族」。杉浦明平さんは、本多静雄邸(平戸橋)の花見に二度来ています。一度目は、秋五さんと事前に連絡をとっていなかったのでお会いできず、二度目は永仁の壺が展示された年に、本多邸の花見茶屋のベンチで数時間、談笑しています。その内容について明平さんは書いていません。ただ、本多邸の雰囲気や本多一族の方々について、わたしにも想像のできる人物をさらりと描いています。以下その一部を抜粋します。
…わたしの生涯の、狭い交友圏の中で、どうしてか武士的だなあと思っている人が二人いる。一人は歴史家の石母田正君、もう一人が本多秋五さん。
…しかし、本多さんとしゃべっていると、永仁の壺などどうでもよくなった。桜の花はまだ四分咲。二日目の午後ともなれば、さっきまで群がっていた見物人もさっと引いていったという感じで、お茶屋からときどきお茶を注ぎたしてもらいながら、しゃべりたいことが一ぱい溜っていて、吐き出しきれなかった。…そろそろ花見の会も終わるころだった。花もよく見なかったし、永仁の壺も見ずに了ったが、何年ぶりかのたのしい一日だった。

(『本多秋五全集』月報(1)/1994年8月)

資料2:『中部の女』/朝日新聞連載

朝日新聞(名古屋)に3回にわたり連載されたものです。シリーズ「中部の女・豊田」、(上)(中)(下)。●全文のコピー入手は可能、名古屋本社事業開発室・有料。
(上)を抜粋して掲載します。
豊田という町はこれからシェイカーを振ろうとする前のカクテルで、さまざまな色やにおいのちがう酒がそそぎこまれたものの、まだ十分にまじりあわず、一つの味になりきっていない状態に似ている。 …トヨタ自工につとめる男性二万二千人の平均年齢は二十六歳という若さで、そのうち八十五%つまり一万九千人がチョンガーだそうだが、しかしいずれもが結婚適齢期で、その何パーセントずつが結婚生活に踏切ってゆく。となれば、豊田市はトヨタの業務拡大につれて市の周辺に社宅、市営県営住宅の団地を次ぎから次へとひろげてゆかねばなるまい。…団地女性は、日本じゅうからの寄り集まりであって、テレビや週刊誌でのおなじみの団地夫人一般と区別されるような特徴はない。…ここの団地夫人たちは日本指折りの教育ママになっており、たくさんの子供をノイローゼにしている。

(朝日新聞名古屋版/昭和41年9月11日)
(中)を抜粋して掲載します。
(下)を抜粋して掲載します。…したがって町からはなれて会社地域へゆく途中の段地の上に四階のりっぱな女子専用アパートが立ち、屋上には女のせんたくものが風にやさしくひるがえっている。そしてアパートのまわりには高い金網が厳重に張りめぐらされて、痴漢たちから娘たちを守っている。そればかりでなく、会社の娘たちにたいする配慮はいたれりつくせりで、虫のつかぬように思想的傾向のわるい男、たとえばわたしなどとは話もさせないようにしている。(じつは、わたしはトヨタの美しい少女たちに抱負や紅気えんを拝聴したかったので、会社側に座談会を申込んだが、みごとにことわられた。もっとも理由は思想的ととうより、わたしを不良老年で痴漢と見たからかもしれないが)…トヨタに入社するとコロモ娘も猿投(さなげ)オトメも一週間もたたず、すっすり加茂弁を忘れて、東京弁に変わってしまう。…「外観だけでは東京より新しいくらい、一生けんめい、せのびしているのですな」と市民課長の大沢さんはいった。

(朝日新聞名古屋版/昭和41年9月14日)
…古い乾物商の成瀬三姉妹が三人とも代議士夫人となったこと、なかでも伊藤好道夫人となったよし子さんは、戦前から良人とともに特高つきで注目をひいたし、好道氏のなくなった後は社会党代議士として出ていることだろう。
それから市会議員に三回つづいてちがった婦人議員が当選したことも、一応めずらしいことかもしれない。が伊藤よし子さんにせよ、三人の婦人議員にせよ、パッとはなやかにふるまうというより地味な存在であったし、今でも地味な存在だ。というのが、それが豊田の女のほんとうの性格なのだろう。 …老婆たちからなるババサの会や、現役実力者の奥さんたちのつくる美世(みよ)の会(「ヤミヨの会」だとわる口をいうものもいるが)そういう古くつちかわれた豊田女の気分が多少ともただよっていそうである。が方言をきくとげっそり興ざめする男ばかり多くなり、会社に勤めると一週間で純粋東京弁になってしまう女性がふえてゆくとき、こういう古い豊田の女たちの中にいつまで生きるだろうか。

(朝日新聞名古屋版/昭和41年9月16日)
明平さんのこの取材のすべてを段取りしてご案内したのは、実はわたしでした。ババサの会では、明平さんは汗を拭きながら、大笑いしながらの取材でした。その時の様子を次ぎに書きます。
ババサとは、挙母弁で老女のことで、親しみをこめて使用されます。この日集まったババサは、いずれも今は故人です。松平すゞさん、雨宮てるさん、桜井ゆきさん、もう一方いたように思います。場所は平和町の松平すゞさん宅。八月の暑い日でした。確かスイカを食べたような記憶があります。松平すゞさんは、『松平三代の女』(風媒社)の原作者、豊田英二夫人の寿子さんを名古屋の女学校で教えた元教師。雨宮てるさんは、神戸生まれの戦前からのキリスト者、良心のかたまりみたいな存在として親しまれた方。桜井ゆきさんは挙母女学校の元教師、元挙母市議会議員。桜井家は挙母藩士の家柄、ほんものの保守のかたまりみたいな存在。おしゃべりな明平さんもたじたじとなるほど盛り上がりました。
明平さんの取材は二日間で、松平すゞさん宅と豊田市役所、トヨタ自動車本社工場周辺でした。明平さんの珍「女」取材ある記
明平さんの珍「女」取材ある記


ー中村敏郎ー
七月の終り時分、渥美の作家杉浦明平さんが、朝日新聞の「中部の女」シリーズに「豊田市の女」を書くとて取材に来た。 明平さんの予定は、先ず、トヨタ自動車と下請工場に勤める女性の話を聞いて働く女性の「二重構造」を知り、それから今度は、挙母生え抜きのお婆さんおかみさんと新しく他県からやって来て団地住いかなんかして、いる女の人達の両方に会って、新旧まことにややこしく入り混っている女性達の生活と感情を見聞しーーというもので、明平さんはこの通りにいけば、「豊田市の女」の像は、ほぼあまさず浮き彫りされることになるだろうと思っていた。もっともこれは、明平さん一流のテーマへの接近の仕方であって、あの名状し難い肉体と感情の持主である「女」の話が、これだけまっとう出来るものではない。ほぼあまさず、と言ってみても、これは女の社会像であり、匂いもなければ香りもない。明平さんもこのことは承知していたが、しかし匂いや香りの方面は自分のあまり得意とするところではないし、それに第一、わずか半日かそこらの取材時間では、とてもそこまでの観察は出来かねるので、この方はあっさり諦めることにした。 明平さんは手始めにトヨタの本社へ行き、来意を告げて、事務の女の子達にあわせてくれろと頼み込んだ。ところがここでは、応接間で冷たい飲み物を出されただけで、「書く人が明平さんじゃ困ります」とにべもなく断られた。「おれがまだ共産党員だと思っとるらしいな。それにしても、まあ、何というケツの穴の小さい!」明平さんは、あきれたり腹を立てたりで表へ出た。 取材第一歩でつまづいた明平さんは、これで一遍に計画の予定通りの実行が大儀になってしまい、初めの計画は全て御破算ということにして、市役所へでも行って何でもいいから聞いて来ようと、下町に下りた。 市役所で最初に会った職員に、「女のことを取材に来ました」と刺を通じると、その職員は、「ああ、ほんなら市民課長がそっちの方の専門です」と大沢さんの名を教えた。「おれをエロ雑誌の記者と間違えたな」と明平さんはぼやいたが、自分の初めの聞き方もまづかったので、仕方なしに教えられた通り「専門家」大沢課長のところへ行った。 大沢さんは、明平さんからことの次第を聞いて面喰ったが、そでも小説家が自分を訪ねて来たのは初めてのことなので、感激して大いに喋った。初めはあがっていたのか、「えぇ、ほりゃあ、ここの女はえぇですよ」などと言い出して明平さんもタジタジとさせたが、明平さんがトヨタ本社での出来事を語ると、「トヨタの女はいけません。挙母弁で喋りゃええのに、お品ぶって東京弁だか京都弁だかを混ぜこぜに使って得意になっとるでネ」となかなか鋭いところを見せた。ムシャクシャしていた明平さんは、これで少しばかり気持ちがおさまった。満足そうな明平さんを見て、大沢さんは勢いづいた。「だいたい、わしは東京弁やあれを使う東京女が大嫌いです」と遂には東京女の悪口にまで及んだ。奥さんを東京から貰っている明平さんは大沢さんの鋭鋒がちょっと気になって、「ところで、大沢さんはどこから奥さんをお貰いになりましたか。やっぱり挙母でしょうネと話題を変えるつもりで言ってみた。大沢さんは、急に元気をなくして頭を掻いた。「いやどうも。実は家内の在所は浅草です」−それから二人は顔を見合わせて大笑いした。 あとで、明平さんが大沢さんと話して帰ったと聞いた市のある職員が、残念そうに言っていた。「女のことなら、産経部長の柴田さんの方がええぞ。絵やフイルムばっかの大沢さんと違って実践派だでな。紹介した奴も、気が利かんなあ」 さてところで、明平さんの取材中一度でも面談しなかった「豊田の女」を、どんなふうに原稿にしているだろうか。ひょっとすると、思い出すままにトヨタ本社の庶務職員や大沢さんのことを書いて、途中で、しまった、これは「豊田市の男」だったと苦笑して消しているかも知れない。(八月十日記)

月刊市政研:1964年9月号No26から転載
杉浦明平さんの取材の同行したわたし(渡久地政司)の報告にもとずいて、中村敏郎がこの《明平さんの珍「女」取材記》を書きました。文章の内容には、かなりフィクションが入っています。いってみれば、明平流の諧謔的な面白さに仕立てた文章です。このころ、わたしたちの文章スタイルは、取材した事実を、明平さんならどのように書くのかな、と明平さんの文章をモデルにしていました。その明平さんを素材にして、明平流にまとめたものです。
杉浦明平研究(諭)としては、杉浦明平の渥美町政治騒動記・一連のルポルタージュは、純粋な意味のノンフィクションではないのではないか、とわたしは考えています。少し事実とは異なるが、どこにでもありそうなモデル・類型化しているがゆえに意味がある(高く評価されている)と思います。
資料3:豊田市会議員選挙での推薦
1963年(昭和38年)4月の豊田市議会議員選挙に豊田市政研究会は渡久地 政司を立候補させました。推薦人のお一人に、杉浦 明平先生がなってくださいました。直後、お目にかかった時、明平さんは「家の者に、一番後ろの方に名前があるはずだから見てくれ、といったところ、そんな名前はない、というので、おかしいな、と思って前の方を見たらあったので、びっくりしました」とおっしゃっていました。以後、67年、71年(小林 収候補も)、75年、79年、83年と推薦人になり、はげましてくださいました。なお、明平さんからいただいた年賀状はほとんど保存してあります。

資料4:杉浦明平先生と寺田 守先生との出会い
寺田 守(てらだ まもる)1913〜1951年(大正2〜昭和25)国語教師・雑誌編集者。豊田市花園町に生まれる。東京帝国大学国文科卒。昭和21年4月雑誌『黄蜂』創刊。杉浦明平先生と寺田守先生は東大国文科の同級生ですが、在学中の交流はありません。1999年8月3日(平成11年)杉浦明平先生から寺田守先生との出会いや業績についてお聞きした記事の抜粋(新三河タイムス紙・1999-8-12)です。(インタビュアー・渡久地政司)
…一度、江比間(渥美町の地名)でお会いした記憶があります。おとなしい、もの静かな人でした。東大国文では、わたしはほとんど授業を受けませんでしたので同級生はまったく知りません。寺田君は勉強家だったのでしょうね。戦後、わたしのすぐそばまできていたのですが密接になる機会がありませんでした。敗戦直後、『黄蜂』を発刊されましたが、グループが違っていました。 …『黄蜂』に野間 宏の『暗い絵』を掲載したことは大変立派なことですね。編集者として大変な能力だったと思います。

資料5:『黄蜂』復刊によせて
杉浦明平先生宅にて録音し、再生し、先生の了解を得たたものです。(文責:湯本明子)
『黄蜂』の復刻版(創刊号〜五号まで合本)を発刊することは、戦後文学を知る上で貴重なものですね。緒であり必須の本ですよ。現在の文学を知るためにはぜひ復刻しなければ、やがて埋もれ散逸してしまいますからね。
今の日本文学が生まれ出た源泉みたいなものですからね。掲載者もいい人々を選んでいます。当時の選り抜きばかりです。穏やかな人達ですね。激しい人(進歩的文化人)を選んでいたら、もっと激しくめざましいものになっていたかもしれませんね。があまり激しい人はいません。左翼のバリバリを連れてきてはいないのがよかった。
それなのにもっとも革命的な野間宏の『暗い絵』(創刊一九四六年四月)を載せたことはたいへん立派なことですよ。たとえ偶然だったとしても(編集者)として、たいへんな能力だったと思います。他の掲載者も立派だが、野間宏の『暗い絵』にはほんとうにびっくりしました。
私は一九四六年(昭和二十一年)旧正月ごろに上京しました。最初にそれを読んだ時は、目玉が飛び出すという感じでしたね。これまでの文体とはまったく違う。
それまで我々が考えもしなかった文学、こうゆうものを書きたいと思っても、そうしたものはありませんでしたから。憧れの見本みたいなもので、これからの文学だなと。それまでは昔のリアリズムでしたから。反発を感じる反面、今までにない将来の文学だと思いましたね。
(『黄蜂』五冊を手に取ながら…)『黄蜂』など戦後の貴重な雑誌は、私の許にもあるはずなのですが、店の屋根裏に仕舞い込まれてしまい、今は中に入れず、ネズミの巣になってしまっているようです。
これは出版が東京で、しかも印刷所が大日本印刷でしたか…。当時としてはたいへんなものでしたよ。紙がなかったし、発表する場所(雑誌)がありませんでしたから。よく五号まで発刊しましたね。
『黄蜂』の復刻版の推薦文を書ければよいのですが、八十六歳となり指先が不自由で不便となってしまいました。
『黄蜂』復刻には、心から賛意を表します。平成十一年八月三日

資料6:感想文/杉浦明平著『解体の日暮れ』
この小説は渥美町の新左翼の解体の物語である。安保闘争後、日本共産党から脱党し、渥美新民主主義協会として出発した町会議員の清田和夫さんや森下隆蔵さん、作家の杉浦明平さん、医師の北山先生達のその後の変化を、渡辺崋山の師である佐藤一斎の蛮社の獄に対する冷然たる傍観者ぶりを軸に、江戸末期の儒学者間の派閥闘争と今日の共産主義者間の分派闘争を対比させて物語は構成されている。
《群像》s41年6月号
昨年暮れ、デトロトイの女性労働運動家ラーヤ・ドナエフスカヤさんを豊田市に招いて講演と映画の会を開いた時、映画が終わりいよいよ講演ということで司会者として壇上に上がると会場の前列に渥美町の清田和夫さん、森下隆蔵両町議がいることに私は気付いた。私はすっかりあがってしまった。…どうも清田さんがそばにいるとやりにくい。
それには理由がある。安保闘争のころ、「日本共産党はもうダメだ」とさかんに言われたが、私は「渥美細胞がまだある」と最後の期待をそこにおいていた。しかし、その渥美細胞も、日本共産党に愛想を尽かしてその年の秋集団で脱党して渥美新民主主義協会として再出発した。私も清田さん達の方向を目指した。安保闘争後の左翼運動全般の虚脱状況の中で、「渥美のような地に着いた運動をしたい」という決意で豊田市に就職した。また、市会議員に立候補する腹を最終的に決めたのも、昭和三十八年四月七日の晩、清田和夫さんに激励されてのことであった。そのご、仲間も私自身も「清田和夫のような議員と活動」を理想に運動を続けるべく努力して来た。
杉浦明平さんの『解体の日暮れ』は、私にとって大げさな言い方をするなら、驚天動地の出来事であった。私は再読三読しながら、だんだん背筋が寒くなって来た。
数日後、『解体の日暮れ』について仲間達と話し合った。

○人間って、恐ろしいものだな、こんなふうに風化してしまうのだな。
○いくら組織は機能だといっても、やっぱり会わずにいるということはいかんな。
○傑出した人物が一人おるよか、ドングリでも多数いた方がいいよ。
(と各自が思い思いのことを一気に吐露し合った後、やりきれない沈黙の合間に)
風化してしまったのは、後継者をつくらんかったということかな。
○第二、第三の清田和夫や杉浦明平をそだてなかったというより、ご当人達があんまり偉いので出かかった芽がつまれてしまったのかな。
○若い後継者による批判がなかったので、渥美の環境と年齢によって風化してしまったのではないかな。
○俺達にも風化してしまう危険性は十分にあるな、ああおそろしい。
(と吐息混じりの話が深夜にまで及んだ)
私は杉浦明平さんの『解体の日暮れ』によって、無党派左翼の最もすばらしい見本であつた渥美の人達が、もう完全に駄目になつたものとは思いたくない。私自身も直面する未解決の問題が、そこには沢山あるような気がする。使い古されたテーマだけど、「政治を行う者の宿命的に背負わされた十字架みたいなもの」等々だ。
私にも仲間にも、転向と風化の危機をどうやって乗り切るかを真剣に考える機会を杉浦明平さんの『解体の日暮れ』は、つくってくれた。

(『月刊市政研』1966年6月号・渡久地政司)
杉浦明平さんや渥美の運動が無かったなら、豊田市での豊田市政研究会の運動はもっと違ったものに、あるいは無かったかもしれません。それくらい大きな影響を及ぼした、とわたしは思っています。杉浦明平著『解体の日暮れ』が提起した問題をこれからもじっくり考えていきたい。

資料7:「渡辺崋山と現代」/講演
『渡辺崋山と現代』−進歩派だった崋山ー杉浦明平さんは豊田市で二回講演をおこなっています。いずれもわたしが係わりました。一つは豊田市立小清水小学校PTA総会の記念講演「渡辺崋山」でしたが年月日ははっきりしません。いま一つは豊田市政研究会主催で1971年1月30日、豊田市民センターでした。次に掲載する資料は、この日の講演をテープから文責豊田市政研がまとめたものです。しかし、このまとめは講演の一部でしかありません。渡辺崋山をどうして私(杉浦明平)がとりあげたかと言うことから話たいと思います。渡辺崋山というのは、今はそうでもないのですけど、戦前は修身の教科書に非常によく出てきた人なのです。尋常小学校の教科書には確か五回ほど出てきました。どうしてそんなに出てきたかと言うと、親孝行で、仕事に忠実で、しかも勤勉なわけですね。いわば修身の見本のような人なのです。また彼は絵かきとしても有名で、田原(渥美郡)の人にとっては、そちらでもお国自慢なわけですけど、彼は非常に絵をかくことが速いのです。一晩に何十枚とかくのです。現在では渡辺崋山の絵と言えば日本の美術史に登場するぐらいで、ニセ物もかなり(と言うよりはほとんどがそうなのだけど)横行していますけど…。
とにかく、渡辺崋山という人はそういう修身の本によく出てくる人なのです。で、私は小さい頃からそんな崋山に反発を持っていたのです。
ところが戦時中『洋学論』という本を読んだ時に、崋山というのはオランダの洋学を学び、しかもそれを藩政に(彼は田原藩の家老に若くしてなったのですけど)生かそうとして受け入れられず、切腹して死んだ、と書いてあったのです。それで、その時から、崋山というのは当時では非常な進歩派であったのだなと言うことがわかったのです。以後、彼に興味が湧いてきて、この四、五年というもの崋山のことばかり書いているのです。今は昭和元禄なんて言われているけど、私はどうしても天保の頃に似ているんじゃないかと思っているのです。元禄の頃には文化的にかなり創造的なものがあったと思うのです。天保にはそれがない。たとえば当時の武家社会がどうであったかと言うと、将軍はやることがないからせっせと妾をつくって子供をふやす。ところが、つくってしまった後の子供の処分に困る。そこで女の子(お姫様ですね)は大大名の所に無理やり嫁に行かせる。大名に押し付けるわけです。男の子(若様ですね)の方は同じく大大名に養子として押し付ける。そんな状態だから日本中の大名と将軍家とかが縁故関係になってしまう。老中(今の大臣)の中で一番偉い筆頭老中(今の総理大臣)はどんな仕事をするかと言ったら、いかに将軍にいい妾を世話するかと言うことばかり考えている。このよしあしによって筆頭老中の評価が決まるのです。
上がそんな風だから社会そのものは当然堕落する。当時の庶民の生活はと言うと、床が敷けないのです。土間にワラを敷いていた。更に壁が塗れないのです。ムシロを吊るしておくのです。そういう生活状態なのだけど、コンクールが流行するのです。大食い大会、酒飲み大会といった…。それと春画を軒なんかに吊るしてあるのはザラなのですね。
もちろん汚職政治、ワイロ政治が公然と行われている。ひどい時には老中が各大名に年末の歳暮は鯛はもういいから現金にしてくれ、なんてふれを出す。
こういう中で崋山は育ったのですね。だから若い頃はよく遊んだ、と彼は自分で言っています。ところが田原藩というのは貧乏藩で殿様からして苦しい。それで嫁の世話をして仲介料をもらうとか、三味線を弾くとか内職をするのです。崋山も絵を描いて腹の足しにしたらしいのです。で、これはいかんと彼は思ったのですね。それで藩政改革に乗り出した。禄を月給制にしたり、洋式軍隊をつくったり、蒸気船で海外貿易とまで彼は考えているのです。彼が洋学(オランダ語)を学んで考えたことは、海の向こうからチッポケな船に乗ってまで東洋に来たという精神とはなんだろう、と言うことなのです。けれど、どれも受け入れられず最後は切腹するのです。
後になって、飯田事件とか自由民権運動の思想家に影響を与えたことがわかるのですが、崋山と言うのは修身の教科書に出てくるような人でなく、反体制主義者だったということなのです。

(『月刊市政研』1971年6月号)

資料8:「小説渡辺崋山」と挙母藩士
挙母藩と田原藩とは、歴史的に関係が深い。寛文4年5月9日(1664年)衣城主三宅能登守康勝、三河国渥美郡田原に転封。衣城主三宅家菩提所梅坪村霊厳寺の山号・寺号と歴代の墳墓を田原に移転。また、江戸藩邸が隣接していた。
杉浦明平さんは、著書『小説渡辺崋山』において、渡辺崋山と挙母藩士竹村悔斎との友情を次のように記載しています。(『小説渡辺崋山』朝日文庫による)
…挙母藩の悔斎竹村悔蔵が年始にやってきたとき…悔斎が藩の重役を刺し殺して自殺(1巻p39)
…十年前に不正な重役を殺した竹村悔蔵の霊に(1巻p49)
…一斎門下の先輩挙母藩の竹村悔蔵と…いちばんよく往来していた(3巻p130)
…さいごに三宅家の旧領地であった挙母に藩祖康盛・康勝両候の遺跡をさぐるかたわら、亡友竹村悔蔵の未亡人にも…(3巻p241)
…そこには親しい竹村悔蔵も…(8巻p243)
(注):渡辺崋山が挙母藩(現豊田市)に来ていたかどうか、について研究者の別所興一氏は否定している。ロマンとしては、崋山が三河湾筋を旅をした時、お忍びで参拝に来ていたかも…。