敗兵の教訓を労働・市民運動に

■ 村松弘平さんのこと ■



2006年1月12日掲載
村松弘平―(1920〜90)。愛知県北設楽郡津具村大字大桑(現在、設楽町大桑)に生れる。1960年(40歳)、トヨタ自動車本社工場西にあった豊栄運輸(豊栄タクシー)で労働組合を結成、以後20年近く労組書記長として労働運動に尽力。この間、ユニークな指導(戦略戦術)で退潮傾向にあった労働運動をささえる。著書に『香屁の貧乏語り』『香屁の敗兵語り』がある。
1962年のいつごろだったか、笹原(トヨタ自動車本社工場の西、旧高岡町)の豊栄タクシー本社に赤旗が掲げられ、「スト決行中」と書いてある、とKさんからわたしの職場・新聞社に電話があった。トヨタ自動車労働組合がストを中止して久しく、珍しい事件であった。そこで、豊栄タクシーに電話を入れ、組合の人から話しを聞きたい、といった。暫くして電話口に、男が出た。加茂タイムスという新聞社だが、と名乗り、ストライキの事実を尋ねた。先方はきわめて慎重に、ストライキの事実を曖昧にした。当時、電話はダイヤル式でなく、本数も少なく、長時間話しをすることができなかった。記事にしたのかどうかは、記憶にない。後日、この電話の件について、村松弘平さんに聞いた。電話に出た主はやはり村松さんであった。「新聞社は敵ではないか」、という返事であった。
1963年4月、わたしは、豊田市議会議員選挙に立候補した。革新無所属・市政に新風を!を掲げ、非共産党系の学生(名大、名工大、愛教大など)や全学連OBの支援を得ていた。共産党機関紙「アカハタ」は、トロツキストが共産党候補を落選させるために立候補した、と報道した。結果、わたしは、当選することができた。63年から64年にかけて、精力的にトヨタの地域支配を批判した。また、「黒川君を守る会」として、愛労評や社会党との折衝もおこなった。しかし、わたしの脳裏から豊栄タクシー労働組合のことはすっかり消えていた。
多分、1964年だったと思う。ある人(丸山町のKATOUさん)を介して豊栄タクシー労働組合の人がわたしに会いたい、といっている、と伝えてきた。そこでわたしはでかけていった。
豊栄タクシーの事務所の窓口で、労働組合の人に会いたい、と告げ、構内の大型トラック整備工場の一角にある休憩室のような部屋の木戸を叩いた。そこは、天井が低く、畳4枚くらいの狭い休憩室であった。そこの一番奥に机が一つだけあり、小柄な40代の貧相なメガネをかけた男が座っていた。  初対面は何を話したか、記憶にない。数度めの訪問は夕方、5時過ぎだった。仕事を終えた運転手が幾人も入ってきて、四角いテーブルを囲んで、会社の悪口やトヨタ労組の専従からひどい嫌がらせをやられた、など、ざっくばらんに話しをしていた。邪魔になってはいけないかと気遣い、帰りかかると、村松さんが、もっといて、みんなと話しをしていけ、と言った。それからの訪問では、平均3時間以上、雑談をした。豊田市議会でトヨタ議員がいかに横暴か、などを話しように思う。こんなことが半年以上続いた。この間、組合大会(職場集会)で挨拶を求められた。労働組合運動などの経験はないし、アジ演説などできなかったので、トンチンカンな挨拶をしたはずだ。しかし、豊栄タクシー労組は、わたしに強く支援要請もしなかったし、排除もしなかった。昼間、村松さんが一人でいる時は、数時間、いろいろな話をした。後日、村松さんにこのころのことを聞いた。当時、日本共産党の指導路線に入るか、独自路線をとるか、村松さんも組合も迷いがあった。わたしの所属する豊田市政研は、反トヨタで過激だが、ホンモノかどうか、観察していたのだ、とのことだった。そのころ、豊栄タクシー労組の中心活動家が日本共産党に入党、指導権を握っていた。しかし、豊栄タクシーにトヨタ労組指導のもと右よりの第二組合が結成され、豊栄タクシー労組(一組)は、組織を豊田市、岡崎市、蒲郡市まで拡大して三河地区自動車交通労働組合(三自交)を結成して対応した。三自交委員長には、岡崎の岡村秀夫氏(歌手:アミン・岡村孝子の実父)、書記長に村松弘平さんが就任した。組合の顧問には、新進気鋭の山本卓也弁護士。三自交とわたしたちとの交流、緊密な連携が始まった。今想像するのだが、組織内の共産党勢力、そしてひ弱な社会党勢力を補うのにわたしたち新左翼グループを取り込み、均衡を図る、という村松さんの高度な戦略だった、と思う。わたしは、豊田市議会議員の肩書きだけでなく、当時輝いていた新左翼の看板をも背負って労働組合大会や争議の激励集会などには頻繁に参加した。蒲郡タクシー争議で、三自交は、蒲郡警察署を包囲、機能マヒに追い込んだ。そして、岡村委員長、村松書記長が逮捕された。その時、蒲タク闘争支援集会、抗議デモにも参加した。その後、三自交の岡村、村松体制が10年近く続いた。共産党勢力を封じ込め、社会党系とわたしたちが頻繁に出入りするようになった。村松弘平さんだけでなく、岡村委員長や山本卓也弁護士とも頻繁に接触、親密な仲となつた。そして、岡村氏は、三自交委員長を兼ね岡崎市議会議員(社会党)に当選した。
時、70年前後の学生運動、中国文化大革命、新左翼(革命左翼)の高揚期であった。豊栄タクシー内の組合事務所、村松さんの仕事場兼組合事務所、通称「村松屋敷」には、中国派の劇団や女性解放運動家から、家出してきた女子高校生(進学校「豊田西」)まで入り浸りな盛況であった。
村松さんは、わたしの家にも毎週のように来るようになった。その時は、いつも数名のお供がいた。そして、夜明けまで、お酒を飲みながら、講談調の語りで、下世話な話から幅広い闘争戦術の話し、などで多くの若者たちを魅了した。
(この間の豊田市、岡崎市での闘いについては、別にまとめて書く)
1980年初期、村松さん60歳直前、労働運動に一区切りをつけて実家のある豊橋市に活動拠点を移した。その後、そこでも自動車学校に労働組合を結成し、闘いを持続した。また、豊橋市で発生した「親子3人殺し事件」の冤罪を晴らす闘いの中心となり活動した。1980年代後半、拠点を新城市日吉に移し、そこに香屁庵をつくり、多くの人々の「語り場」をつくっり、水滸伝の”梁山泊”が築かれんとした瞬間、食道ガンが発見された。意気軒昂な村松さんは、檄を発し、”生前葬”を開催した。そして、1990年4月、惜しまれつつ逝去した。
村松さんの人物像、評価については、あまりにも個性が強すぎたことなどから分裂する。わたしの妻などは、「キライ」の一言でにべもない。わたしは、自分の人生で出会った、最も影響をうけた人物3人のうちの1人に位置づけている。スキとかキライではなく、闘争をする者の心構えみたいなものを村松さんから数多く教えられた。
村松さんは、第2次大戦末期、インパールから敗残兵として撤退した時の経験を労働運動・市民運動に活かした人だった。村松さんは、言っていた。闘いが始まったら、24時間、食事と寝る場所が戦場となる。それは家族ぐるみとなり、女こどもたちも巻き込まれる。
村松流の闘いの内なる「被害者」がわたしの妻だった。わたしは、そのことを承知して闘い続けた。妻は「キライ」と言ったが、村松流の闘いに耐えた。
村松さんは、闘いを準備し、戦術を練る人であった。だから闘いから生じる憎悪に巻き込まれた人は、倦厭したくなる。
それに、村松さんは、個人の私生活・家庭内の紛糾まで、数多く介入したので、関係者からは両極端の評価をうけた。闘争者・活動者が背負う十字架みたいなを村松さんは背負っていた。
わたしは、村松さんの公私にわたる「衝突」のほとんどに強弱の差はあってが、立ち会った。どれも一本筋が通っていたので、村松さんを評価こそすれ批判はしない。
人間村松弘平が好きであった。

2010-5-15掲載
村松弘平さんの長男村松宮太郎氏からわたしの記事を補足するメールをいただいたので追加、掲載します。
2010-4-30メール

三河地区自動車交通労働組合(三自交)を結成して対応した。三自交委員長には、岡崎の岡村秀夫氏(歌手:アミン・岡村孝子の実父)、副委員長には、蒲郡タクシーの吉川照美氏、書記長にMURAMATUさんが就任した。組合の顧問には、新進気鋭の山本卓也弁護士。三自交とわたしたちとの交流、緊密な連携が始まった。今想像するのだが、組織内の共産党勢力、そしてひ弱な社会党勢力を補うのにわたしたち新左翼グループを取り込み、均衡を図る、という村松弘平さんの高度な戦略だった、と思う。わたしは、豊田市議会議員の肩書きだけでなく、当時輝いていた新左翼の看板をも背負って労働組合大会や争議の激励集会などには頻繁に参加した。蒲郡タクシー争議で、三自交は、蒲郡警察署を包囲、機能マヒに追い込んだ。そして、岡村委員長、村松弘平書記長が逮捕された。  その時、蒲タク闘争支援集会、宣伝カーには家族も乗せ抗議デモにも参加した。  ストライキ戦術では、資本との闘争原理にあくまで忠実にバリケード封鎖では、大型トレーラの横付による「派手で過激」な場面も作り 情報宣伝活動では、党派にこだわらず、活動分野を拡大させる効果を計算し右翼や切り崩しに対する組合員への支援援助も実に日常的な気配りで 家族やつれあいを巻き込み、孤立するの父や長男を労働者として前線に送り続けた。  そうした戦術・戦略はどれも田舎の人情臭さを思わせる「戦術」であり、闘争の最中にある「ユートピア」への憧景や「居心地の良さ」が「村松弘平の闘争戦術」であった。そのどれも借り物や組織上層部の支持待ちでなく。体験の裏づけとスピリッツに満ちたものであった。
その後、三自交の岡村、村松体制が10年近く続いた。共産党勢力を封じ込め、社会党系とわたしたちが頻繁に出入りするようになった。村松弘平さんだけでなく、岡村委員長や山本卓也弁護士とも頻繁に接触、親密な仲となつた。そして、岡村氏は、三自交委員長を兼ね岡崎市議会議員(社会党)に当選した。蒲郡タクシー争議で小柄でスピッツと言われた弁の立つ浜千代さんは蒲郡市議会議員(社会党)に当選した。 --------------------------------------------------------------------------------

〔渡久地〕三自交の闘いは、きちんと記録に残しておかねばならない。労働運動として、対権力(警察署機能を完全にマヒさせた)で勝利した"最後"の闘いだった。