■ 老パルチザン岡田孝一さん ■

2004年07月17日


渡久地政司

 

印刷業を職業にしながら文化活動  
 豊田市政研究会活動でお世話になった方々が次々と逝去して行く。インパールの生き残りで闘う労働運動を指揮した戦略家・村松弘平さん、渥美の作家・杉浦明平さん・戦略者としての清田一夫さん、勇気をくれた弁護士の山本卓也さん、そして印刷業・支援者として岡田孝一さんなどなど。
今後、村松弘平さん、山本卓也さん、杉浦明平さんのことも折に触れて書いておきたい。
今回は、岡田孝一さんのことを書く。岡田さんの全体像があるとするならば、私の知っている岡田さんは、極限られた一部分でしかない。この度、岡田さんの伴侶である藤森節子さんがまとめ、出版した『老パルチザンのあしあと・岡田孝一の記録』には掲載されていない、豊田市政研究会と私にとって大変お世話になったことなどを書いておきたい。
1963年3月からほぼ10余年、月に3〜4回は岡田孝一さんや藤森節子さんとお会いしていた。豊田市政研究会の印刷物は、全てここで印刷していた。親切で丁寧、誤字脱字などもきちんと訂正してくださった。印刷では依頼者と受諾者の関係ではあったが、それ以上のものがあった。それは、岡田さん藤森さんが、優れた文学者であり、知識人であり、また、この地域の文学運動などに幅広いネットワークを持っていたこと、など教えられたことが沢山あった。
「ベイヘイレン(ベトナムに平和を!市民連合)」の名前を最初に教えてくれたのは、岡田さんだった。「ベートウベンでなく、ベイヘイレンとは、一体何か」、変な胡散臭い名前の団体だな、が第一印象であった。
岡田情報で「中野重治」さんらの講演を2回くらい聞いた。講師には、新日本文学関係の文学者4人から5人くらいいたように思う。
中野重治さんは、愛読書作家の一人だったので、その風貌と文体が一致して、感激した。
「国民救援会」が日本共産党主流派と「愛知人権連合」とに分裂した大会?にも、岡田情報で参加した。私にはサッパリわからない議論が闘わされていたが、岡田さんが発言していたような記憶がある。
数多くの小冊子をいただいた。また、詩人の詩集(これは購入した・「秋山清」)も紹介してくれた。詩人・伊藤正斉氏や画家・水谷勇夫氏(「小説渡辺崋山」の挿絵)にも会わせてくださった。
だが、取っておきのエピソードを次に紹介したい。
当事者の作家が本人の作品でそれらしきことを書いているし、しかも作家も岡田さんも故人なのだから、プライバシーの侵害にはならないだろうし、むしろ名誉なことだと思うので書いておきたい。
戦後第一回の芥川賞を受賞なさった名古屋在住の作家・小谷剛さんに「脱走したアメリカ兵」を匿ってもらつた。私は当時、匿ってくれる人を捜して東奔西走していた。その一箇所が小谷産婦人科病院?であった。岡田さんの車で、名古屋市の中日球場に行く途中にある小谷病院に出かけた。医院長室で小谷先生にお会いして、「脱走したアメリカ兵」を匿う必要性と匿う期間、リスクなどなどを私が説明した。小谷先生は、 2〜3質問したように思う。即答は避けたが、結果はOKであった。小谷先生は、初対面の私を信用してOKを出したのではない。岡田孝一という人物を信用したのだった。後日、病院の病室に匿った、ことを知り、産婦人科病室にどのように匿ったのか、不思議でならなかった。小谷剛さんは、主宰している同人誌に、このエピソードを、小説にして書いておられる、と岡田さんから教えてもらったが、その小説を私は読んでいない。
ジェンキンス軍曹の脱走、をアメリカ軍がどのように扱うか、が問題になっている今(2004年7月18日)、小谷さんはよく引き受けてくださったものだ、と改めて感謝したい。そして、その手助けをしてくださり、その秘密を守りとおしてくださった岡田さんに、二重丸の感謝を申し上げたい。

2004-7-27追加
藤森節子さんから作品についてお知らせがありました。
小谷剛さんの小説は、『作家』1972年10月号『あちらからきた人』