■ 豊田市文化財保護「破壊」課
F 豊田スタジアム建設/遺跡はなかったのか ■

2006年5月20日

豊田スタジアム地下には埋蔵文化財がなかったのか

2006年5月20日

豊田市雑文録     2006-5-20掲載

T 雑文稼業

F豊田スタジアム 地下には遺跡がなかったのか

渡久地 政司


スタジアム建設前

1994年から2001年3月、豊田スタジアム建設過程で、埋蔵文化財の調査をせずに工事が着工された、その事実を記録しておきたい。

この間に何が起きたか。まず年表を作成しておこう。

1994年6月、3団体(商議所、体育協会、地域労組)がサッカー場建設の要望書を提出。
      加藤市長は15000人収容規模のサッカー場を想定。
   7月 加藤市長海外球技場視察、また、大規模球技場への強い要請をうける。
   9月 加藤市長どうせつくるなら6万人収容の大規模球技場と、市議会で答弁。
1995年1月 鈴木助役、ワールドカップ開催球技場の「受け皿」を表明。
  ……………………
1997年5月 豊田市、豊田スタジアム(4〜5万人)の建設素案を発表。
      豊田市文化財保護課は6〜12月にかけて豊田スタジアム建設予定地の北側の千石公園約3000平方メートルを緊急発掘調査。
  ……………………
2001年3月 豊田スタジアム竣工。

97-10-19 新三河タイムス/コラム 

…(加藤市長は)サッカー場を市議会首脳に非公式に説明した平成6年5月、『国際大会(開催)が可能なサッカー場は、政令都市か県が建設すべきで、豊田市は1万5千人クラスでよい。約150億円あれば建設できる』…ところが平成6年9月市議会一般質問でAトヨタ議員に、12月議会でBトヨタ議員に「6万人収容の大規模球技場」と答弁した。 そして、平成7年1月、ワールドカップ開催都市に立候補を表明した。



97-5-15 新三河タイムス/記事

 写真説明 撮影位置は、矢作川左岸の久澄橋と豊田大橋の中間から北東撮影。左側のビルは県立豊田北高等学校、右側の森は性源寺。この一帯に豊田市が大規模球技場を建設する。この一帯は矢作川の氾濫原で、…近年氾濫原から続々と遺跡が発見され(木曽川の氾濫原から弥生の大規模な朝日環濠遺跡)注目されるようになった。

豊田市遺跡分布図では、この一帯の北側に寺部・高橋、東側に神明・高橋、南東側に南山畑・曽根遺跡が連なっていて、豊田北高校の直下・周辺には、千石遺跡(ここからは鎌倉から江戸期の生活用山茶碗などが出土)…、豊田市文化財保護課では、約3千平方bの試掘調査を行う。期間は6月〜12月まで。 調査方法は、小型掘削機で掘り出した土を丁寧に調べ、遺跡がどのあたりまで広がりをもつているか、を調べる。

この記事を書いた前後から3か月間くらい、わたしは、豊田市文化財保護課のA課長にしつこく取材した。「豊田スタジアムの埋蔵文化財調査をおこなうのか」と。A課長は、千石遺跡調査で、「完了」としょうとする意図が見え見えであった。窮地に立ったA課長は「矢作川氾濫域なので遺跡はない」と言った。そこで、わたしは、黄河流域の遺跡の全てが黄河氾濫域だし、豊田市の渡刈の湿地帯遺跡は、矢作川氾濫原ではないか。氾濫原(域)だから遺跡がある、とすべきではないか、なによりも調査せずに、遺跡がない、と断定できるのか、と鋭く追及した。A課長は「調査する」と約束した。しかし、直後、発言を取り消した。わたしは、「なぜだ」と詰問した。するとA課長は怒り出し、「部下が市長に矢作川氾濫域なので遺跡がない、と報告済み」 と白状した。

豊田スタジアムを2001年3月竣工させるには、工事日程を逆算すると、1997年はギリギリなのだ。遺跡調査をして、遺跡が出土したら、工期に間に合わない。そこで、市長は「矢作川氾濫域なので遺跡はない」と文化財保護課の職員に言わせたのであった。

 かくして、豊田市文化財「破壊」課に〈貶め〉て、豊田スタジアム建設は強行された。