■山岸会・共同体・共同生活の呪縛 ■

2007年掲載


山岸会/共同体・共同生活の呪縛
 1977年11月、山岸会(平成7年「幸福会ヤマギシ会」と改名している)の第917回ヤマギシイズム特別講習研鑽会を受講した。28年後の2005年5月、沖縄県那覇市で、山岸会から離脱し、山岸会と裁判闘争をおこなっている松本繁世医師と長時間じっくり話しをする機会を得た。
 ここで、松本医師に、「わたしにとっての山岸会」を語ることができた。
 その時、語ったことをベースに、「共同生活」=「コミニズム」について書いておきたい。
 山岸会の名前を知ったのは、4〜50年前、「Z革命」の立看板でデモをしている新聞報道だった。また、わたしの家から4キロくらい北東にある養鶏農家が山岸会実験農場になっていることも知っていた。だが、それは知識として知っていただけだった。
 思想として山岸会が身近に登場してきたのは、新島淳良早稲田大学教授(当時)の著書であった。だが、興味の範囲をでなかった。
 1977年当時、豊田市政研究会の運動も方向を失っていたし、誰よりもわたし自身が「何をなすべきか」の「思想も確信」も失っていた。だから、山岸会に「何か」があるならば、出かけていって調べておきたい、という気持ちはあった。
そんな時、近所の少女(中学生)が家出、暴力団関係者のところにいることがわかり、そこから一時、隔離・避難させる相談を受けた。そこで思いついたのが山岸会であった。山岸会が何かわからないが、避難場所として最良だろう、と少女を強引にヤマギシイズム特別講習研鑚会に連れて行き、預けた。8日後、少女を迎えに行った。関西線新堂駅で、山岸会員と参加者・少女たちの別れの光景は、「異常」としか言いようのないものであった。
少女は、家族と話をするようになったし、わたしにも語りかけて来るようになった。山岸会で何があったのか、何をおこなったのか、くどいほど聞いたが、ゲームみたいなことをした、と言うだけで要領がえない。
数か月後、豊田西高校夜間部の教員Sさんから新島淳良氏の講演会を豊田市で共同開催しないか、と言う話がきた。たまたまわたしは、他用で講演を聞くことができなかったが、豊田市政研究会の仲間は、大変感動したらしく、わたしに「山岸会を見てこい(調べてこい)」と言った。わたしにも、その気持ちがあったので11月、「いったいどのような共同生活・共同体なのだろうか、じっくり調べて、豊田市での運動の参考にしよう」、と出かけていった。

ヤマギシイズム特別講習研鑚会の内容については、「思想の科学」誌でかなり詳細に、しかも正確に掲載された。ここでは、重複を避け、その内容については書かない。
わたしにとって山岸会は何であったか、のみを書く。これは、冒頭にも書いたが、松本繁世医師に語ったことでもある。
結論を先に書くと、わたしにとって、ヤマギシイズム特別講習研鑚会は、大変益のあるもの、人生の方向転換、となった。イプセンの「ノラ」で例えるならば、「豊田市政研究会」と言う「家・鉄鎖」から、その後長い時間をかけてだが、抜け出る切っ掛けとなった。20数年の時間をかけての結果ではあるが、共同体・共同生活=コミニズムの呪縛からの自立、自由となるスタートでもあった。
わたしは、ヤマギシイズム特別講習研鑚会には、共同体・共同生活の実態を調べ、豊田市の市民運動に役立つ何かを見つけよう、として出かけた。この意図は、まったくはずれた。共同生活の実態は、外から眺めて知る範囲の域をでなかった。
それより、予期しない出来事に出あっい戸惑った。ヤマギシイズム特別講習研鑚会の係りから「他人がどのように思うか、考えているのかではなく、自分自身のことのみを集中して考えてください」、にまず戸惑った。市会議員は、常に他人のことを思い、考え、行動する。先憂後楽をモットーとしていただけに、何を言うか、そんなつもりでヤマギシイズム特別講習研鑚会を受講しているのではない、と反発さえ覚えたが、ここまできたのだから、山岸会が何を考えているのか、を調べてやろう、と考えをきりかえた。係りが「あなたの母親のことを頭に浮かべてください」では、それまでにも2分間くらいは考えたことがあったが、60分以上頭に思い浮かべて考えたことがなかっただけに、自分が母親をいかに知らないか、にはショックをうけた。ヤマギシ特別講習研鑚会では、「自分自身の心の内のことのみを考えてください」、は大変新鮮であった。
結局、山岸会が何たるか、はわからなかったが、わたしが自分自身をいかに知らないか、を知る契機をヤマギシイズム特別講習研鑚会で気付かされた。
係りに吉田光男さんがいた。吉田さんから、吉本隆明著『最後の親鸞』とミヒャエル・エンデ著『モモ』を教えてもらった。この2冊が、わたしの新しい道を歩む契機となった。『最後の親鸞』を読み終えた後、親鸞を集中的に読み、法然、日蓮、空海などを読み、仏教書を10数年読みつづけるようになった。エンデは翻訳された全作品を読んだ。
1978年正月、妻・政子がヤマギシイズム特別講習研鑚会を受講した。この間、山岸会での考えをまとめる意味でパンフレット『心を革める』を書いた。

山岸会にのめり込んだが、山岸会に参画する気はまったくなかった。市会議員活動も新たな方向が見えてきた、と感じた。今、考えると、わたしには確たるものはなかったが、市政研究会運動とは別な運動を模索したい、と言うようなことを口走った。この発言にSが大騒ぎをした。このあたりのことは、ここではこれ以上書かないかが、このことを契機にして豊田市政研究会との別れ、ミゾが深まった。
このころ、わたしには、次のような考えがあった。共同体・共同生活とコミニズムについて、「山岸会と革命的共産主義者同盟中核派」の動向に注目。この2団体に、参加するつもりはないが、共同体・共同生活とコミニズムのありようについて、この2団体の運動が「何かをもたらす」のではないか、と。
その後、山岸会の高度研鑚会(4日間)を受講したり、5月の春祭りを見学、生産物の共同購入など10数年にわたって山岸会との関わりを維持した。
1966年ころからの知人・松本繁世医師が山岸会に参画した、と言う記事を「朝日ジャーナル」で読み、松本医師と連絡をとった。その後、松本医師がわが家を訪ねて来た時、山岸会を注目しているが、参画するつもりはない、旨を話した。このころ松本医師は、山岸会そのものと言う感じであった。
199○年、松本医師が山岸会を離れ、裁判闘争を始めた。また、名古屋の出版社「風媒社」の稲垣喜代志社長が山岸会批判の本を出版、批判運動を展開した。松本医師も稲垣社長も古くからの知人であったが、わたしは共同体・共同生活としての山岸会の行く末に注目していたので、批判運動支援にはかかわらず見守ることにした。しかし、2000年ころ、山岸会の方からわたしとの連絡を絶った。
冒頭の沖縄での松本医師との会話では、松本医師も活動拠点を京都から鹿児島県奄美郡沖永良部島の徳州会病院に移していて、気持ちも落ち着いたためか、山岸会批判はまったく話さなかった。
2006年5月、松本医師は、徳之島の徳州会病院の医院長に就任している。

さしあたってのわたしの考え・結論を書いておこう。
山岸会―共同体・共同生活に馴染める体質の人にとっては天国だろうが、その生活に馴染めない人にとっては、地獄。
コミニズムについては、別項(新左翼・革命左翼とのかかわり)でまとめるが、今、西洋文化「コミニズム運動」は、失敗だったな、と思う。しかし、東洋文化「共同体・共同生活=コミニズム」は、小単位・小地域としては、その生活に馴染める人にとっては、天国として存在できるかもしれない。
山岸会が東洋文化「共同体・共同生活」として50余年、課題を抱えながらも存続し続けたことは、ここから学ぶものが、萌芽みたいなものが、見つかるかもしれない。コミニズムの夢みたいな欠片が見つかるとよいのだが…。