■ 豊田市政研究会 前期 ■

2006-04-07

豊田市政研究会
2006年04月07日掲載
豊田市雑文録 W 未解決の課題 C 豊田市政研究会(前期)  
―豊田市政研究会(1953〜1970)の17年と今後―
報告者  渡久地 政司 (1970年5月)
2006年4月7日 掲載にあたってのコメント
ここに掲載する『豊田市政研究会(1953〜1970)の17年と今後』は、豊田市政研究会発行「結成10周年に向けての討論資料 《市政研は、何を考え、何をやって来たか−その思想と行動―》」1971年8月17日発行 収録からの転載である。誤字と脱字、説明不足のところは、修正したが基本的には、そのまま全文掲載と理解してもかまわない。
豊田市政研運動は、大きく3に区分できる。1970年までを前期、渡久地政司が市政研を離脱した1979年までを中期、そして小林収が民主党県会議員となった1991年までを後期。(この区分は、渡久地政司の判断)
この資料は、市政研運動の前期のまとめ、といえる。
資料には、鈴村鋼二の『二つの呼びかけ』『サークル小史』『連帯と孤絶の条件』『日共市議柴田隆一君へ』と小林収・吉田武昭『根もとから民主主義を志向』と小林収・渡久地政司『企業の町から労働者の町へ』などが掲載されている。市政研運動の全体を知るには、これらを併用して読んでほしい。
しかし、市政研運動は、文書資料には出てこない人々の担った役割が極めて大きい。見方によれば、8割くらいそれらの人々の思想、判断(独断)でことが決定し覆った、とわたしは理解している。
市政研運動と闘いは、もっともらしい理念とか民主主義を掲げてはいるが、実際、ことを動かしたのは、独断と行動が先行し、それが歴史の多くをつくった、とわたしは思っている。ここのところを理解できないと、真実は見えてこない。

この時代の市政研運動の背景を知るための参考本として、次の本を推奨したい。
小熊英二著「民主と愛国」紹介文
(はじめに)
本日はご多忙のところ、お集まりくださったみなさんにまず感謝申し上げます。
ところで、本日のこの討論集会ですが、みなさんに豊田市政研究会というものを一方的に知ってもらうために開催したのではありません。市政研がこれまで行って来たことを討論しながら、どこがどのようにおかしい、とか、どこが不足していたのではないか、というようにご指摘を受けながら今後どうしたらいいのか、を緊張した関係で討論しなかがら発見して行きたい、というものです。従って、みなさんは、何ら遠慮することなく発言してください。逆に、わたしたち市政研としてみなさんに忌憚なく徹底的に問い、追求するつもりででもいます。討論によって結論を得ようとは思っておりません。むしろ問題の所在が朧気ながらもわかればこれに越したことはありません。
本日ご参加くださった方々の多くは、自らを新左翼と位置付けておられる、と思います。そこで、市政研の新左翼についての考えをまず申し上げておきたいと思います。
市政研会員が「新しいマルクス主義」「新しい左翼」というものに最初に接したのは10年程前になります。ジョン・ルイスというイギリス長老教会牧師でマルクス主義哲学者が書いた「マルクス主義と偏見なき精神」(岩波書店、59年4月)という本は教条主義的思考型であったわたしたちにとって衝撃でした。この本は「教条主義とセクト性を排し、開いた心と偏見なき精神をもって、マルクス主義以外の現代思想から多くのものを学びとろうとする。観念論とイデオロギー、人権と自由、倫理と宗教、サルトルとベルジャーエフについて、しなやかな思考のうちにマルクス主義を豊かに実らせつつ現代思想との相互浸透をはかる」というものでした。続いて、同じくイギリスのE・Pトムスンらの「新しい左翼」という本が同じく岩波書店から63年に出版されました。これより以前にも名大の水田洋さんが「イギリスの新左翼」(「朝日ジャーナル」61.7.25)、勝部元愛知大学教授が「英国の新左翼」(「エコノミスト」62.9.4)等々と紹介したのにわたしたちは接してはいましたが、それらの決定版というべきものがこの「新しい左翼」でした。社会主義左翼諸思想を打ち壊し、社会主義運動に生命力と想像力を甦がえさせる、というところに市政研は注目し、自分らもイギリス型の新左翼のようでありたいと思ったものです。
ところが、65年の日韓会談粉砕闘争のころから、「朝日ジャーナル」などがトロツキズムや毛沢東思想、レーニン主義等々の既成左翼を教条的に受継ぐと思われる学生運動を中心とする諸団体などの運動をも新左翼と呼ぶようになってからは、社会党と共産党以外の左翼運動が新左翼ということになってしまいました。
この日本の新左翼は、闘争形態においては、新しいもの、未知なものを切り拓きはしたものの思想的には、何ら新しいものを生みださなかったばかりか、闘いが高揚した68年末から69年前半、そして69年11月闘争を経るにつれて、それぞれの運動体の間に相互の話合い、思想浸透が極度にとまり、そればかりか閉鎖的となるだけでなく内ゲバという悲しむべき状況まで生み出してしまいました。
今や、社会党や共産党を含めて日本の左翼全体が閉ざされた心で「70年代の日本の社会主義革命の道」を模索せざるを得ない状況に立ち至っています。日本の社会主義運動が著しく生命力と想像力を喪失しているところに、今わたしたちは立っているのではないでしょうか。
本日、お集まりくださって方の中には、キリスト教徒の方もおられますし、マルクス主義とか社会主義にはあまり関心がない方もおられます。また、新左翼の団体に所属しておられる方もおられます。市政研は、偏見と教条のない精神で、みなさんから学びたいと考えています。
60年安保前後
市政研は、60年安保闘争の翌々年の62年夏に結成されました。それ以前は、「挙母平和を守る会」と呼んでおりました。1953年7月、挙母高校(現豊田西高校)1年生だった鈴村鋼二、渡久地政司、内藤和伸等々は、護憲帰郷運動としての兵藤サ氏(現東京大学経済学部助教授・挙母高校OB)らの呼びかけに応じ「挙母平和を守る会」を結成しました。「挙母平和を守る会」は昭和53年〜58年まで続き、ほぼ同じメンバーがそっくり「挙母市民講座実行委員会」(昭和58年〜60年)へ移行し、続いて「黒川君を守る会」(昭和61年〜66年)と時々の活動の焦点に応じて10数名の顔ぶれが細々と活動を行ってきたわけです。
60年安保闘争において、この町では、加茂労協主催で6月5日と15日の2回、1000名ほどの労働者と市民によるデモが闘い抜かれております。続いて、鈴村鋼二、渡久地政司等の大学4年生であった学生は、7月・8月の夏休みに、金谷児童館、根川小学校、野見小学校、平井小学校、図書館、市民会館等々で青年会や婦人会の人たちと安保条約についての集会を持ちました。また、高校生との学習会を59年から2年間にわたって定期的に持続しました。
安保闘争の敗北が北風とともに肌に感じられる頃、全国的に活動家の転向が始まりました。むなしさと敗北感の中から闘いを初めからやり直さざるを得ないことをわたしたちは悟ったのです。(このように書くと、どうも格好よいのですが、実際はもっと迷っていた。)
61年1月、トヨタ自工の下請け会社の荒川板金(現荒川車体)で労働組合を結成した中心人物の黒川孝夫君が解雇されるという事件が発生しました。続いて、4月、日本共産党豊田市委員会が「黒川君を守る会におけるトロツキスト一味の陰謀について」というビラを県下全域に配布しました。62年8月、豊田市原水爆禁止協議会を代表して東京大会に出席した渡久地がソ連の核実験に反対して「暴れる」ということがあり、この頃に豊田市政研会を結成して市政の勉強会などを始めたのです。しかしながら、市政研会員内には、暗さと虚脱感、イラだち等があり、酒を飲んではケンカをする、という解体寸前の状況もありました。

63年の市議選
63年4月の市議選は、告示1週間前に渡久地政司の立候補を決め、ポスターの印刷遅れのため、他候補より1日遅れてポスターを貼る、という状態でした。60年安保闘争では、ブンドとして闘った名工大、岐阜大、名大等々の学生たちが応援にかけつける選挙でしたが、35名中第12位で当選しました。
7年の市議選
上郷町、高岡町、猿投町の3町が合併した直後の選挙でした。議長経験者2名を含む大物候補が多数落選する中て゛渡久地政司は、58名中第2位、2523票を獲得しました。この選挙には、革共同全国委員会、共労党、愛知ブント等の学生、労働者が支援してくれました。
7カ年でおこなったこと
議員を市議会に送り込んでから7カ年間で市政研が行ったこと、やれなかったことについて、次に書き上げます。
@ 鞍ケ池ゴルフ場化反対闘争、敗北、(63.6〜8)
市有地をゴルフ会社に無償で市が貸与することに反対するため署名運動をおこないました。署名者6500余。
A 第1次議員報酬引揚反対闘争、敗北、(63.12〜64.8)
報酬引上分の受領を拒否し、直接請求の署名運動(3500余名)を行う。臨時議会を開催させ、議場に押しかけたが、多数で否決された。
B 市議会議員の九州野球旅行を摘発、勝利、(64.8)
日共の柴田市議を含め11名の豊田市議会議員が市費で九州まで野球をするのに出かけたのを摘発、以後議員野球は会費制となり、県外試合は中止となった。
C 議員違法退職金返還闘争、勝利(64.9〜65.2)
38年4月、退職した市議会議員に1人当り2万円の違法退職金が支払われていることを発見、監査請求、行政訴訟を行う。支出した全額を長坂市長が豊田市に返済。市側が完敗、監査委員の大竹千明氏が責任をとり辞任。
D 市庁舎管理規則粉砕闘争、勝利、(65.7)
愛知県庁から天下った加藤隆総務部長が最初に手掛けた仕事が庁舎管理規則でした。「怯える者、濠をめぐらす」のビラをまき、市職組を支援して庁舎管理規則を骨抜きにさせました。
E 国保税引き上げ反対闘争、敗北、(66.3)
平均3割の国保税引上げ反対闘争には、チラシ、街頭宣伝車、ステッカーを貼り闘いましたが敗北でした。報復として「○○議員は国保税値上げに賛成しました」というステッカーを当該議員の地元にしっかり貼りました。
F 国家公務員への違法接待(食料費)事件、進行中(67〜71)
豊田市に公務出張してきた国家公務員に対して、芸者をあげての接待、ゴルフ場への接待を違法とする裁判。
政治資金規正法にもとづく届出をしている政治団体「豊田市給与所得者連盟」への補助金は、違法とする裁判、勝訴(67〜71)市側が控訴。
G 第2次議員報酬引上げ粉砕闘争、敗北(69.2〜3)
議員報酬審議会傍聴直接行動を2回。篠田助役、加藤総務部長との団体交渉。市議会総務委員会へ強行傍聴と市長、議長、議員とのカン詰め団交、議場への直接行動、市庁舎内でのハンスト等々をおこないましたが、敗北。
H 水道料金引上げ粉砕闘争、敗北(69.6)
市民団交を成功させたものの引上げを阻止することはできませんでした。
? 県立高等学校新設運動、成功(67.7〜8)
高等学校が新設されることになったものの、市政研内部で重大な意見対立が生じました。
J  選挙
(ア)    市長選挙―保守の本多鋼治を推す、敗北(64.1)
近代保守の佐藤保(トヨタ)に対して、ホンモノの保守の本多鋼治を推すも敗北。
(イ)    衆議院議員選挙
伊藤よし子(社会)、当選、(63.11)
太田一夫(社会)、当選、(67.1)
太田一夫(社会)、落選、(69.12)
(ウ)    県議選挙
矢頭_太郎(社会)、落選、(60.12)
矢頭_太郎(社会)、落選、(63.4)
(エ)   参議院選挙
全 黒田寛一(無所属)、落選、(63.7)
地 成瀬幡治(社会)、当選、(63.7)
地 飯島幹雄(社会)、落選、(63.10)
全 浜野哲夫(無所属)、落選、(65.7)
地 近藤信一(社会)、当選、(65.7)
地 小山良治(社会)、落選、(66.11)
全 上田 哲(社会)、当選、(68.7)
地 成瀬幡治(社会)、当選、(68.7)
(オ)   農業委員選挙
黒川種治(日本農民組合)、落選、(69.7)
K  反戦平和の戦い(主体・共闘も含む)
66.12.12  岡村昭彦(報道カメラマン)講演会
67.10.7   ラーヤ・ドナエフスカヤ女史講演会
68.6.9 反戦集会とデモ
68.10.20    々
69.12.8   々
69.1.13 北小路敏(元全学連委員長)講演会
69.2.16 松平弾薬庫粉砕行動
69.8.23 愛知教育大学封鎖とデモ
69.8.12 豊田高専闘争支援
70.3.27 豊田反戦集会
L  労働運動
61.1〜66.9  黒川君を守る会
62       三光製作所「解雇事件」支援
63〜65    自動車共闘 豊田自動織機の闘い支援
M   沖縄渡航制限撤廃闘争
68.7.16 渡久地政司が東京羽田空港で決行、成功。
N  法律・生活相談
弁護士山本卓也、泉成夫、石榑純子氏らのご協力を得て、70.5までに24回、無料法律・生活相談を開催した。
O  市政研会内部における主な論争・意見対立
(イ) 鈴村鋼二を市長選挙に立候補させることを決定・公表したが、直後異論が出て立候補を中止した。(68.1)
(ロ) 渡久地政司が議員報酬引揚げに反対し、引揚げられた金額部分の受領を拒否した。市政研会員の採決では、受理が多数であったが渡久地は受理拒否を貫いた。市政研内多数決民主主義が蹂躙されたとして問題となった。(64.9〜12)
(ハ) 市議候補をめぐる論争(67.12〜69.1)
市政研会内「寡頭支配」がある、とする意見が出た。最終的に小林収と渡久地政司の2名を次期市議候補とすることとなった。
((ニ)) 高校新設運動にあたり、〈小学区制・普通化〉に対し〈大学区制〉にすべきだ、という意見が提起された。(67.8〜)