V 内なることなど

■ 内なることだが…
@ 自分の心、精神状態 ■

2006年5月15日

自分の心・精神の状態
2006年5月13日

2006-5-15掲載
豊田市雑文録
V 自分の心・気分・夢・精神みたいなもの

その 夢・ユメ

 幼少のころから現在(68歳11か月)まで見た夢について書いておきたい。
 後日、あのころ見た夢は、このようなものだったな、と思い出すままに。
8歳ころ、第2次大戦の戦中と戦後半年まで、中国天津市にいた。そのころよく見た夢は、暗闇の中を浮遊していて、凄い勢いで落下する、ハッと気付いて飛び起きる。こんな夢をよく見た。夢とは、おそろしいもの、と思っていた。
10歳から20歳代。トヨタ自動車本社工場西側にあったトヨタ三ッ満多社宅に住んでいたころの夢。
AからBに出かけるのだが、途中多くの障害があって、どうしてもたどりつけない。寄り道する時もあれば、障害物があったり、他に邪魔されたり。足が動かない、などなど。見る夢のケースは違っているのだが、ストーリとバターンは変わらない。いつも困り、挫折する。夢とは、目的地に到達できない障害物競走みたいなもの、と思った。楽しいこと、幸せ観を感じる夢も見たのだろうが、その記憶はまったくない。夢とは、自分を苦しめるもの、目標に到達させないもの、そんな記憶しかない。
20代から40代、県営住宅耐火第2種という小さな家で雑魚寝していた。寝られる時に眠る。それも、寝酒で、強制して眠ることが多かった。夢を見たのだろうけど、記憶に残っていない。夢を見なかった気さえする。季節の変わり目には、必ず10日くらい風邪で寝込んでいたし、寝汗もよくかいた。
後日、胸部レントゲン写真には、肺に石灰化したキズがある、と指摘された。夢をみる暇も場所もなかった。
40歳以降、50歳代後半、両親と一緒に暮らすこととなった。48歳母親を、58歳父親を亡くした。60歳になったころ、母親の夢を見たことが無いことに気付いた。親不孝な話だが、夢に母親が出てこないのだ。一緒に旅にでたことも、映画を見にいったことも、日常生活以外、母親と何かをしたことがなかった。父親が亡くなってから数年して、父親も夢に出てこないことに気付いた。

そして65歳ころのある日、突然両親が夢の一部に登場、エェと思わず叫んで、その出現にびっくりして目がさめた。
60歳代の夢は、どうでもよい夢が多くなり、おかしい夢も見る。それは、過去に経験したことがない、知っていない出来事が飛び出してくるのだ。こんなこと経験したことがないのに、どうして?と自問して目がさめる。ストーリは記憶にないが、おかしさ感だけが残る。それと、夢には色が無い、と聞いていた。しかし、色も鮮やか、色付きの夢も時々見るようになった。色彩の夢を見ることは、精神異常なのかもしれない。しかし、見たことは確かなのだ。火事の夢も見た。炎の色彩も記憶に刻まれている。経験したことのない出来事やまったく知らない人物と出合ったり、色彩のある夢をみたり、両親も時々登場したりする。困ったこと、怖いことが起きる夢は、ほとんどなくなった。夢で起こされることもない。

酒を断って10余年、酒は匂いを嗅ぐだけでもイヤだ。タバコも同じ。夢や幻に振り回されることはない。ただ、深夜早朝、ウォーキングをしながら、途方も無い夢想をしている自分に気付き、苦笑する。いい歳をして、少年時代のように夢想するとは…。

その 支離滅裂
支離滅裂という言葉をキーワードにして、10代、20代…と大雑把に区切って、自分の精神構造がどのようであったか、を書いてみる。このようなことは、正確に書ければよいのだが、文字として表現するには、文筆力が不足している。傾向があった、くらいなら書けるだろう。
後日、なぜあのような判断をしたのか、訝ることが幾つかあった。
10歳ころまでは、人の話を聞く訓練ができていなかった。落ち着きのない、ジッとしていることができない子であった。自分でも慌て者であることを痛感していた。今、60歳後半になって思うと、10歳前後は、精神異常、精神分裂状態であったな、と思う。なぜ、あのような行動をしたのか、わからない。制御がまったくきかない、暴走をいくつもおこなっていた。思春期のこどもたち、孫を見ていて、自分のことを照らし合わせると、アドバイスなどとてもできない。この年頃のこどもを教育する教師は大変だな、と思う。
20歳のころまで、自分が言っていることが何なのか、よくわからないうちに言葉が勝手に出て、自分でもおかしいことを言っているな、まちがったことを言っているな、と気付くことがしばしばであった。25歳くらいのころから、自分の話していることが一貫性を持つようになったように思う。
25歳以前は、精神異常に近い精神状態でなかったか。大学時代でも、今思うと、夢遊病者のように駆け回っていただけのように思う。
その  怒りと弱気

議員時代、とくに初期は、常に怒り続けることが革新性であると思いこんでいた。怒りをあらわにし続けることでしか、議員活動ができなかった。余裕など全然なかった。
佐藤市長のころ、委員会で例によって、怒り、激しく詰問した。終了後、興奮冷め遣らぬ状態にある時、佐藤市長が「沖縄で赤花(あかばなー)と言うの聞いたが、どのような花なのか」と聞いてきた。エェ、何んでこんなことを、と一瞬思い、言葉が出なかった。
オレがこんなに怒っているのに、佐藤市長は、沖縄で聞いた「赤花」のことを考えていたのだ、やられた!と思った。怒り、興奮していたことが恥ずかしくなった。怒りは弱さの裏返しなのだ。

その 睡眠不足と飲酒

小学校6年生の1月1日から牛乳配達を始めた。年末に「中部牛乳」の人がわが家を尋ねて来て、牛乳配達をやらないか、と話を持ってきたのだ。姉と兄は、高校生と中学生であったが、小学生のわたしも数軒だが配達をすることにした。小学校5〜6年のころ、夕刊配達をして5〜6百円くらい稼いでいたので苦にはならなかった。確か、夕刊と牛乳配達の両方を行っていたが、夕刊は、近所の友達に譲り、牛乳1筋とした。中学、高校、1年の間をおいて大学4年間、牛乳を配達した。だから中学から大学時代、お金に不自由はしなかった。
ここまでは前書き。
大学生の4か年は、学生・市民運動の毎日であった。常時、睡眠不足が続いていた。しかし、飲酒の習慣はまだなかった。ビールを時々1本飲むくらいがせいぜいであった。
新聞記者になり、飲む機会が多くなったが、飲まない日の方が多かった。家にお酒もビールも置いてなかった。
40代後半ころから、飲酒の習慣が付いた。これは約10年続いた。
1996年8月末、酒の勢いで「禁酒宣言」をした。家の冷蔵庫にはビールが入っていたし、アルコール類が並んでいた。それを眺めながら、3日やめ、3か月やめ、3か年やめた。そして9年余となる。
苦しんでやめたのではない。もともと飲めぬ酒を寝酒で飲んでいたからやめた、それだけである。
今、酒をやめてよかった、と思う。時間に余裕が随分できるようになった。いつも頭の中がすっきりしている。

その 「いいかげん」と「あきらめ」
沖縄の言葉、習慣、傾向に「てぇげー」がある。もの事をアバウトに判断したり、厳密に規定しないことは、時と場合によっては大切なことだ。ただ「てぇげー」が「いいかげん」となり、大切な約束なども「いいかげん」となると困る。
わたしは、職業(働き、賃銀を得る行為)や学問・科学的判断には、厳密さが求められるが、インフォーマルな組織(クラス会や隣組、県人会など)では「てぇげー」が認めらよい、と思っている。
ところが、わたしのことだが、厳密さを求められる事柄、例えば日本語の文章、文字など、かなりいいかげんに使用する傾向がある。文章を推敲に推敲を重ねることかが苦手だ。かなりいいかげんだ。「まあいいや」と放置、諦める傾向がある。新聞社の仕事では、時間の制約もあってしかたがない場合もあるかが、これは肯定されることではない。

 頭の悪さと分散性
記憶力の悪さは確かだ。記憶力は普通のはずだが、覚え方に欠点があのだろう。それは、記憶しながらも、すぐに他のことを考え、記憶すべきことに集中することができない。記憶がきちん頭の中におさまらないまま、他のことを考え、気持ちがそちらに行ってしまう。
市会議員になってからこの傾向は強くなった。
人と会っていても、次の予定が気になる。一つのことに集中できない。多勢い人がいる中で、対で話をしていても、他に気配りして上の空、となっていた。

 分散力の欠如

集中力も大切だが、分散力(こんな言葉があるかどうかわからないが)も大切だ。自動車の運転は、明らかに、分散力だ。前方を見ながら、左右両翼、後方も見る。そして、音楽を聴いたり、周囲の景色をみたり、運転しながら他人と議論もする。交通事故が起きない方が不思議だ。
運転歴30年というプロの運転手に、心構えを聞いた。「老人とこどもをみたら、死に神と思え」、「他人の運転を信用するな」、「仕事以外には運転をするな」。これはすべて納得。わたしの精神に欠けていることばかりだ。
自動車の運転でのエピソードを今ひとつ。
もう30年以上前だが、夜道で2トントラックを運転していた。助手席にSがいた。場所も覚えている。栄町地内、前方にトヨタ生協栄町店があるあたり、突然、犬が飛び出して来た。急ブレーキを踏むまさにその瞬間、Sが大声で叫んだ。「ひけー」と。ブレーキを強く踏んだまま、Sに向かって「何て言うことを言うのか」、とどなった。ここまでは、わたしが怒っていた。ところが、Sが意外なことを言って怒った。「追突されたらどうするのだ」。
わたしは、あっけにとられた。このような場合を想定して運転をしたことがなかったからだ。

 今、68歳11か月になり、これからの精神、心のありようはどのようにあるべきか、を考える余裕ができた。
精神と肉体は一つ、一体のものだと思う。身体が健康の時、精神・心も健康だ。宗教の知識は、学ぶが信仰は持たない。西洋で言う無神論者ではないが、人間の形をした神の存在は認めない。神を、自然界を指すものなら、その存在を認めるが、それは、神と言わず、自然として認識する。
ここ6か年くらい早朝に起き、約4キロ、ウォーキングを行っている。また、毎週1回、1000メートル泳いでいる。きわめて健康だ。
問題は、記憶力だ。3年前、元毎日新聞社の辣腕記者の影響から万葉集のいくつかを暗唱している。すぐ忘れるが繰り返し覚えるように努力していたら、20首くらいは、声に出して言えるようになった。NHK教育テレビのシリーズ「知るを楽しむ」も20年近くテキストを購入して聞いている。雑学はかなりのものになった。しかし、記憶力は明らかに低下している。
視力だが、片目づつなら、1.0はあるはずだ。だが、両方で見ると、お月様は2つ見える。地上のものでも、段差が生じて見える時がある。乱調、乱視なのだろう。

畑を50坪くらい耕作している。しかし、背骨が痛い。そろそろ耕作面積を縮小すべきか。
一日一日、日めくりをめくるように身軽になっていこう、と思い、身辺整理を始めている。
身軽になることは、何と清々しいことか。

小冊子『命を革める』について
1977年11月、ヤマギシイズム特別講習研鑚会を受講した。この受講経験を活かし、私の後援会の仲間と勉強会をおこなうためのテキストを78年1月3日作成した。題して『命を革める』。この小冊子を次にリンクしておこう。

小冊子『心を革める』