■ 作家野間宏を最初に世に出した文学者
A 寺田守取材記 ■

寺田 守取材記
2006年9月17日
豊田市雑文録
         2006-8-31掲載

T 寺田 守先生取材記 
渡久地 政司

寺田 守 取材記(2001年)

寺田 守の墓碑(豊田市花園町集落の墓地)には、次のように刻まれている。
法名釈誠第八高等学校を経て昭和十二年三月東京帝国大学文学部国文科卒業江田島海軍兵学校教授たり終戦と共に総合雑誌黄蜂刊行編輯者廉潔庵菩提樹と号せり昭和二十五年十一月二十八日没す行年三十八歳 兄俊雄標

以下、文学者・寺田 守 再発見の最大の功労者・湯本明子氏の文章(「新三河タイムス」2001年1月1日)から抜粋する。

『黄蜂』創刊号 昭和21年4月
 発刊の辞  …日本民族の知識層へ啓蒙と教養とのささやかなる「教室」とに資すべく、綜合雑誌『黄蜂』を世に問うに至ったのである。 問題への正面からの取り組みにより掘り下げると、言葉と文字との平易なる発表方法による国語の浄化とが『黄蜂』の二つの狙いであり、芸術と科学とに力点を置きつつ政治・経済・社会・各般の問題を捉へ特に新人の活躍舞台たることが『黄蜂』の使命である…

目次はまず「国際連合の展望」―その発足にあたって―と題して十三頁に亘り横田喜三郎(東京帝国大学法学部教授)が詳述。政治・経済面では中村 哲、吹田秀三、文芸面では湯浅年子、淡路圓次郎。特輯として円山 敏が「ラルフ・フォックスのこと」、エドガ・スノーの「毛沢東の自叙伝」と続く。久松潜一の(書評)「日本文学史の構想」のあと、創作桜田常久の「一人のマリア」、野間 宏の「暗い絵」が掲載。寺田はこの冊子の中で「演劇雑爼」―再建演劇の課題―について述べ、 江戸時代の町人文化の産物であった歌舞伎の、戦後におけるあるべき道を模索しそれはまさに〈死んでも生きなければならない〉と結んでいる。

さてここで特筆すべきことは『黄蜂』(創刊号〜第三号)に掲載された野間 宏の処女作『暗い絵』についてである。これまでの日本文学には見られなかった異質の文体―異様に粘りこく、心象の喚起力に富む文体で、日中戦争下の青春を生き抜く学生像を描いた作品は、批評家の注目を引く。『黄蜂』が作家野間 宏を世に送り出した功績は大きい。


ひそびそと 松の花粉… 朝日丘中学校校歌に
秘められたエピソード
                      渡久地 政司
 編集者は、黒子に徹するべきだが、私は挙母町立西部中学校(現豊田市立朝日丘中学校)の卒業生であり、寺田 守に関する調査のはじめからか係った関係から、その経緯などを書くことをお許し願いたい。
 昭和25年(1950)4月、私は西部中学校に入学した。当時、トヨタ自動車は、実質的に倒産状態にあり、トヨタの社宅のこどもたちは、ほぼみな萎縮していた。そんな時、校歌に出会い、この校歌がすっかり気に入り、愛唱歌になった。作曲の信時 潔は、「海ゆかば」を作曲した人であることを知り、また、旧制高等学校の寮歌にも似た旋律があり、ますます好きになった。作詞の寺田 守については、全然知らない人であったが、作詞補作の渡辺釟吉は挙母町長で漢学者なので、漢語が多く使用されているのだろう、くらいのことは感じていた。
 20歳くらいのころ(1958年ころか)、偶然、校歌を作詞した寺田 守が旧制挙母高校(現愛知県立豊田西高等学校)の教壇に立っていたこと、寺田先生が雑誌『黄蜂』を生徒に販売していたこと、野間 宏『暗い絵』が掲載されていること、などを知った。
 1978年、朝日丘中学校創立30周年記念誌編纂の会議で、寺田 守作詞と渡辺釟吉補作の違いを知った。この時、鈴木五平市議会議員が、寺田先生の授業を受けた、と話していたことを覚えていた。
 平成9〜10年(1996〜97)ころ、湯本明子さん(文学者・杉田久女研究者)に「小原村と久女」の原稿をお願いし、その調査に同行するなどをしていた折、湯本さんが愛知県下に関係のある文学者の史的研究をおこなっていることを知り、ふと、軽い気持ちで、野間 宏を最初に世に出した文学者・寺田 守の話をした。湯本さんは大変興味を示されたので、調査して報告します、と約束した。
 鈴木五平氏に電話したところ、寺田先生の葬儀に列席し、お墓参りもしたことがある、と教えられた。
 早速、知りえたことを湯本さんにお伝えした。
 平成10年(1997)8月下旬、湯本さんは寺田 守の生家を訪ね、貴重な資料をお借りした。
 その後、挙母中学(高校)の関係者から写真・資料・エピソードなど多数が寄せられ、寺田守先生追悼集刊行委員会(代表・爾見軍治)『寺田守先生追想集』、湯本明子さんによって「復刻『黄蜂』」が刊行された。
 朝日丘校歌作詞の意図を寺田先生がお書きになった資料も出てきたので、新三河タイムス紙に掲載した。校歌作詞に先立ち、昭和23年(1948)5月、寺田先生と旧制挙母中学の生徒たちは、段戸山系・寧比曾山に登頂した。その時のスナップ写真には、松の木に登っているものがあった。校歌歌詞に〈ひそびそと 松の花粉…〉と松の花粉がうたわれているが、その時の体験だろう。寺田先生は、若い青春を謳歌していた旧制挙母中学の若者と一緒に段戸山系・寧比曾山から三河平原を眺望しながら新生日本と人類の未来を希望を格調たかく作詞したのだった。