■ 画家・海老名明四のこと
M海老名明四 2011-2-11 ■

海老名明四調べ  未完
2011年2月28日掲載
志賀重昂調べの過程で偶然挙母町生まれの海老名明四の名前に出会った。
海老名明四の名前は、すでに『豊田市史 人物編』海老名弥雄太郎の項で、「絵画を志した明四は末弟である」と十四文字の記載がある。海老名家については、既に多く研究されつくしていると思われ、後追いになるだろうが、市立図書館やインターネットから入手可能な資料を収集、まとめてみた。
海老名明四は、挙母藩剣術指南役、第四代海老名三平邦飛の末子として生まれた。海老名明四の生年月日、逝去年月日は不明。
インターネットで調べたところ―
1 海老名明四は、のち東京美術学校西洋画科に入学する洋画家である 。…図4海老名明四(?)「玄武洞」(「日本風景論」)…1906年から1908年まで曹洞宗第一中学校に図教員として勤務している。
2 海老名明四は浅井忠の教室で学んだと推察される。

志賀重昂著「日本風景論」の挿絵を画いたころの明四の年齢を推理する。
先の調べ(1)に「のち東京美術学校…」入学する。 から明四は挿絵を十代で画いたと思われる。

そこに海老名明四を「少年」と記述している。「風景論」の初版発行が明治27年1月、
兄の海老名龍四は1868〜1902なので、明治生まれであることは確かだ。
重昂が将来を嘱望した西洋画家だけに、誰かが調査しているはずだが…

神龍寺の海老名家のお墓では、兄の龍四の墓碑は確認できたが、明四は確認できなかった。

東北大学(理学部)生物学科の教員をしていた。(東北大学理学部100年抜粋)

1907年(明治40年)、東北帝国大学理科大学が、東京(1886年)、 京都(1897年)に次ぐ3番目の帝国大学として創立されました。1911年(明治44年)に数学・物理学・化学・地質学の4学科が設置され、…開設当初数学科、化学科、物理学科の3学科で構成されていましたが、地質学科、生物学科と順次整備され、…
・生物学 、 安田篤講師、 江原眞伍助手、 海老名明四助手、 千谷好之助助手

海老名明四は、西洋画家でなく、生物学の学者となったようだ。

未完