■ 志賀重昂が遊説
L志賀重昂と豊田市 2011-1-1 ■

2011年1月1日

渡辺釟吉先生の発言

志賀重昂さんのお母さんは、挙母の広瀬屋の隣りにあった糸やの娘さんです。志賀さんの選挙のときは応援をしました。
志賀重昂(1863〜1927)地理学者。国粋主義を主張。世界各地を巡遊。著『日本風景論』。岡崎市出身。

釟吉先生の発言から
1 お母さん
2 広瀬屋
3 選挙
をキーワードにし調べる。

1 「お母さん」について−
  戸田博子編著  志賀重昂 『生誕130年記念誌』―回想と資料によれば
、 母・志く(淑子) 岡崎藩の松下三郎右衛門の次女、万延元年3月11日、志賀重職と結婚 
と記載されていた。
   身分制が厳しいこの時代、岡崎藩士と挙母の「糸やの娘」との婚姻は不可能。松下家の次女に間違いないだろう。 だが、「何か」あるのかもしれない。
2 広瀬屋はどこか−
現在豊田市久保町にお住まいの川合幹夫さん(81)の話=広瀬屋は、現在の豊田市竹生町3-56にあった。川合幹夫さんの祖父川合峰吉さんが創業した食料品雑貨店。川合峰吉さんは「骨董」の趣味があり、町の有力者が出入りしていた。隣の「糸屋」の「糸」が「蚕糸」「機織」なのかはわからない。北隣のI家には、志賀重昂と間接的に繋がるエピソードがあった。現在も元気なI家の女性(92)の話=I家は江戸末期に岡崎・矢作の「へごし」から挙母に来た。明治14年生まれの母から聞いた話−「志賀重昂の妻から母宛てに、毛筆の巻紙の達筆なお手紙をいただいた。しかし、今、手紙・書類は残っていない。志賀重昂が偉い学者であることは知っていた。渡辺釟吉先生は、挙母女学校の時の校医でした」と語る。
 念のため重昂の妻を調べる。妻は、松野鉄千代、1871(明治3)年9月28日 生まれ松野家は岡崎藩士(医師)の家柄。  「糸やの娘」の線は消える。「何か」 が隠れているかもしれないが、これ以上詮索しない。
                             3 選挙−
志賀重昂は、1902(明治35)年8月、衆議院議員に初当選。1903(明治36)年3月再選。1904年(明治37)3月落選、政界引退、政友会から離れる。 志賀重昂が最初に立候補した1902(明治35)年6〜7月に野見、挙母、足助、九久平を遊説している。この年志賀重昂39歳、渡辺釟吉23歳。渡辺釟吉青年は心昂ぶる思いで選挙応援をしたに違いない。 この時の遊説について、福岡寿一著『三河男児―志賀重昂伝』から抜粋する
P35  明治33年9月、立憲政友会を組織した伊藤博文が訪ねてきて(重昂)に「わが党に入党…」…彼は入党して幹部…会報の編集にあたり、後藤狂夫(注1)も手伝う…
P36 (明治35)の選挙…参謀長格に宛てた…報告書を後藤狂夫の出身地である挙母町(当時)の沢屋旅館(注2)で書く…
謹啓 いよいよ御かはりなく御くらし被遊大慶に奉存候 選挙運動中の事御知らせ申上候…
一 今日雨天挙母町に…野見村の鈴木武七郎(注3)氏宅にて午餐を供せられ、ウドン粉をヒネリ油にて揚げたるものを入れたる汁なり、塩からしきを舌をつんざく
一 西加茂は中なか六ケ敷(むつかし)ければ今日単独にて当地に入りたり、今井幾四郎(注4)、横井、浦野(注 5)父を訪ひいよいよ連合運動着手の事を相談せり…
一 来月…3日挙母町、4日足助町、5日九久平の演説を了り夫れより碧海を巡演する予定なり
一 今井磯一郎(注6)氏種々妨害運動をなせり、然し遂に其効能なし…
   六月二十八日夜十時時雨又雨
   挙母沢屋の大部屋にて蚊にくわれつつ認む

注1 後藤狂夫(ごとう たけお)−1868年挙母七州城内に誕生…「豊田市史 人物編」。重昂のゴーストライター、盟友。
注2 沢屋旅館はどこにあったか。大正13年の挙母町街路略図には、岡崎(挙母市時代は東海)銀行・鈴木時計店の西向い。昭和36年豊田市商工案内図では、駅前通、石川屋南向い。現在、「コモ スク・エア東棟」。
注3 鈴木武七郎―西加茂郡会議員、高橋村会議員(野見)。「高橋村誌」
注4 今井幾四郎―1867〜1923 県会議員、高橋村長。「豊田市史 人物編」
注5 横井、浦野について−横井は平井の人らしいが確定できず。浦野は、浦野錠平1860〜1909 衆議院議員、猿投村長、郡会議員など歴任。「豊田市史 人物編」
注6 今井磯一郎―1841〜1909 衆議院議員(4期)、県会議員(5回)。「豊田市史 人物編」