■ まえがき ■

渡久地 政司
 2006年1月7日掲載

まえがき 
 
 父渡久地政蔵が三河の国愛知県西加茂郡挙母町に建設されたトヨタ自動車に入社したのは、トヨタが創立された昭和12(1937)年11月の翌年の昭和13年であった。
 南の島沖縄から根無し草のように流れついた三河の地で父は、中国天津トヨタ勤務の5年間を含めて57年間暮らし、1995年10月に亡くなった。
 わたしは、昭和12年6月、大阪市で生れたが、乳幼児の時、ここ三河に移住した。 
 挙母町立挙母南(根川)小学校卒(昭和25年3月)、挙母市立西部(朝日丘)中学卒(28年3月)、挙母(豊田西)高校卒(31年3月)を通して、わたしは、この三河から東京なり大阪にいかにして脱出するか、を考え続けていた。三河の農村の同級生から、「トヨタの油職工のこども」と蔑みられたことが屈辱であった。三河のガキ供が中日ドラゴンスを応援していたから、好きでもない都会の巨人を応援した。とにかく、三河と農村・トヨタの社宅住まいが嫌いであった。 
 20代、その三河の農村なり挙母祭なり、三河の山河が好きになるためには、それなりの努力がいった。同世代の仲間の存在抜きに、この180度転換はできなかった。左翼運動の過程で柳田国男の民俗学に触れた。決定的なのは、60年安保闘争の過程で、地域から見事な闘いを展開している地域闘争の人々の存在があった。渥美の杉浦明平・清田和夫氏らの運動、長崎造船・長崎社研、九州筑豊の谷川雁らの大正鉱業所・大正行動隊など。地域闘争の重要性という呪縛にとりつかれた。 
 この三河・豊田の地域闘争を行うために、豊田市で住み、闘うのだ、の決断を愛知大学3年生の時、1959(昭和34)年におこなった。
 三河弁を意識して使うようになったのも、この地域の地理を覚えたのもこの過程であった。そして、1960(昭和35)年12月、大学4年、卒業を待たずに地方新聞社に就職。同時に「黒川君を守る会事務局長」として労運動?に加わった。また、自衛隊高蔵寺弾薬庫移転反対闘争に参加した。東京で開催された原水爆禁止世界大会に豊田市代表として参加、日共系と衝突(総評岩井事務局長らと行動を共に)した。 
 わたしが豊田市に生活と闘争の場所を決めた、決断する過程では、紆余曲折と迷いがあった。結果、ここ豊田市を生活とし、終の棲家と定めてから50年近くたった。
初期の運動は惨めにも破綻した。往時の仲間は、それぞれ生きる場所と運動の場所を見つけ、それなりに「成功」している。
 わたしの20代から50年間の記録をここでまとめる。『豊田市雑文録』は、19歳以降、大学、そして地方新聞社時代から民衆運動、市議会議員時代に書いた文章(雑文)を、誤字などを訂正しながら、ほぼ当時に書いたままを掲載することを基本とした。だから、今読み返すと、恥ずかしいことばかりであるが、当時はこんなことを必死に考え、おこなっていたのだ、とする記録にすぎない。自慢話でも、ましてや栄光の記録ではない。市民運動とわたし個人の挫折の記録でしかない。 
 
 T 雑文稼業 では、1995年7月以降、新三河タイムス社で糧を得るために奴隷根性をも省みず、「提灯記事」を書き、その合間にメモをした雑文が主である。運動を伴わず、ただ書くだけのことでしかない。思想性も突っ込みも不足した中途半端な記事ばかりで恥ずかしいが、今のわたしの限界でしかない。 
U 市議会議員として では、当時公表したアジビラなどをほぼそのまま掲載している。当時行動を共にした方々のことも配慮して、無難なものだけを掲載した。内部での議論やエピソードなどカットした。 
V 内なるこころの記録  すべて書き下ろし。自分史に近い書き方になる予定。まだ、一行も書いていない。(2006年1月) 
W 未解決の課題 (大半非公開) 
資料はかなりあり、断片的には書き溜めてあるが、丁寧に書きたいし、事実に則した記録としたい。しかし、これらの大半は、非公開にするつもりだ。 
記録として残すだけの価値があるのか、という迷いもある。消滅、無にしてしまうこともよいのだが、無にしてしまうことは、いつでも出来るので、書くだけのことは書いておきたい、と思う。 
X 生活・家族のこと  自分史としてまとめておきたい。書き下ろし。ただ、大半は非公開。 
Y 人々との出会い 二つにわけて書く。故人となられた清田和夫さんや岡田孝一さん、村松弘平さんについては、公開で書いた。 
故人でも、関係者のことを配慮して非公開で書いておきたい。 
よく知っていると思っている人物でも、意外に知らないことが多い。わたしとの係り、に限定してエピソードを事実のみを非公開で書くことにした。 
 
『豊田市雑文録』と『沖縄雑文録』の二つで、『渡久地政司雑文録』として1冊の本にしたい、考えたこともあったが、1冊の本にするだけの価値がないこと、そしてなによりも、資金がないことから断念した。そして、断念した瞬間からホームページに掲載するスピードがあがり、『沖縄雑文録』は80%完成、『豊田市雑文録』の構想もすんなり決まった。 
ホームページのよいところは、書きながら修正が出来、書きたいところから書き、埋めていくことができることだ。2006年中には完成させたい。 

2006年1月7日記